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132:「記録」されることを逃れていった「音」

中川が指摘する音に対する二つの志向には「音声を記録すること」が共通しているけれど,城の「予め吹き込むべき音響のないレコード」ではこの部分が欠落している.さらに,城には「音(声)を記録すること」がないから,「音(声)としての復元を志向すること」もないと言えるだろう.ゆえに,「予め吹き込むべき音響のないレコード」には「音(声)を視覚化すること」しかない.中川が指摘する音に関してのパラダイムの変化を無効化して,単に「音(声)を視覚化すること」しかないから,城の「予め吹き込むべき音響のないレコード」は「奇妙な」モノになっているのであろう.
しかし,「視覚化された音(声)」は,「視覚化された」ものであっても「音(声)」として想定されているから,何かしらの音を生成することができる.だから,城の「予め吹き込むべき音響のないレコード」は音を出せる.Illustratorのアートボード上に描かれた「ギザギザのライン」はどのようにしても,そこから音がすることはない.それは視覚的情報でしかない.しかし,「ギザギザのライン」を忠実に紙やアルマイトの板の表面に刻むと,そこからは音である.表面を変えて,線をピクセルの集合から表面に切り込みを入れると音がなる.

城一裕の「予め吹き込むべき音響のないレコード」には「音(声)を記録すること」が欠落しているのだが,この欠落は「音声を記録すること=音声を視覚化すること」でも,「音声を記録すること=音(声)としての復元を志向すること」という録音に関するパラダイムを無効化してしまう.では,なぜ城の「予め吹き込むべき音響のないレコード」は,「音(声)を記録すること」しながらも音の作品として成立しているのであろうか.

このことを,「音声を視覚化すること」を「等価」という観点から考えてみたい.

数の前で全ての表現形式は等価です.デスクトップの上では,サウンドより画像の方が優位であるとか,画像よりテキストのほうが優位であるということはありません.キーボードやマウスなどのデバイスを持ったGUIを介して,画像も,サウンドも,テキストも,デスクトップという同じプラットフォームの上で対等に扱うことができます.数という形式から独立した共通の素材をもとにしているおかけで,デスクトップ上では,さまざまな表現をシームレスに生成,操作できるのです.ある一つの形式にとらわれずに,表現について考えることが可能になったのです.

 Design 3.0:デジタル・マテリアリズム序論,久保田晃弘

コンピュータを経由した城にとっては,「音(声)を視覚化すること」も「図形を音化すること」も「等価」であった.そこに「図形」があるならば,それは「音」になる.そこに「音」があるならば,それは「図形」になる.これは常に「シームレスに生成,操作できる」ことに慣れていたとすれば,図形を描くことが音を生成することであり,音を生成することが図形を描くことは「等価」の行為となる.この視覚と聴覚とが等価に生成していく状態では,「音(声)を視覚化すること」が「音(声)を記録すること」と結びつく前に,音は視覚化されて生成されていくものになっているのではないだろうか.記録するのではなく,生成していくこと.「音」は視覚と聴覚とを等価交換しながら,どちらの状態でも生成していくものになって,「記録」されることを逃れていったのではないだろうか.

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