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104:「気配」「⚪︎⚪︎感」といった確固とした存在

永田はJoe Hamiltonの作品の分析の前に,無時間的なデジタル画像と「制作」という時間の痕跡を保持する絵画とを比較している.しかし,デジタル画像において重要なのは「履歴としての操作」を取り除けるということなのではないだろうか.視覚と触覚とが分かち難く結びついた制作の痕跡が残ったものが作品として提示されるのではなく,視覚と触覚とが分かち難く結びついた制作の痕跡から「履歴としての操作」を差し引いて,触覚を無理矢理にでも視覚から締め出す.このプロセスによって,触覚は作品のサーフェイスで居場所を失い,その気配だけが残される.デジタル画像と絵画とのあいだには,痕跡に対する視覚と触覚との重なり具合のちがいがあり,このちがいが作品のサーフェイスの意味合いを変えているのかもしれない.

昨日の終わりから今日は考えてみる.「視覚と触覚とが分かち難く結びついた制作の痕跡から「履歴としての操作」を差し引いて,触覚を無理矢理にでも視覚から締め出す」ということが,作品のサーフェイスにどのような変化をもたらすのであろうか.

郡司ペギオ幸夫は『天然知能』で「向こう側」を「奥行き」が隠蔽していると指摘している.「向こう側」とは次のような感じになっている.

わたしは,この見えない向こう側に対する,決してうかがい知れない外部性を「向こう側感」と呼びたいと思います.「向こう側感」を感じない限り,見ている風景は,それ自体で区切られ,その外側は虚無となります.視界のその先にまだ「何か」あるだろうという確信が,「向こう側感」なのです.位置No.1145/2996

対して,「奥行き」は「向こう側感」とは異なり,向こう側とこちら側とが同じように続いている感覚と,郡司は考えている.「無時間的なデジタル画像」の特性を顕著に見せるJoe Hamiltonや永田康祐の作品はおそらく「無時間的」という「こちら側」とはまったくちがう「向こう側」を感じさせるからがゆえに,作品としての強度を持っている.そして,「無時間的」を感じさせるときに画像から「操作の履歴」が差し引かれて,視覚から触覚が差し引かれている.

では向こう側は,どのように獲得されるのでしょうか.私は,感覚が視覚など単一の感覚に固定されず,複数の感覚が働くことこそ,向こう側獲得の駆動力だと思います(図3−1B).それは,視覚以外の何か,聴覚や触覚などが視覚に関与し,視覚を逸脱させることです.視覚と聴覚,視覚と触覚のように,組合せが決まっていて,互いの寄与の程度も予め決まっているような,そういった複数の感覚の相互作用を想定しているのではありません.位置No.1158/2996

郡司は「向こう側」の獲得には視覚だけではなく複数の感覚が働くことが重要だと指摘する.しかも,その組み合わせは予め決まっているようなものではなく,意表をつくものではないといけない.デジタル画像は視覚と触覚との組み合わせから,触覚を「操作の履歴」として差し引くことで,これまでにないものにしていると考えられる.その結果として「向こう側」が生まれ,作品は「向こう側」を意識させるサーフェイスとなる.作品のサーフェイスを基準面として,その向こうに何かがあるという感じがあり,それが作品の「厚み」となっていき,見る者に異物感を与えるようになる.

作品のサーフェイスを通して,その向こうの異物に触れるようになる.しかし,そこに実際にあるのは「触覚の気配」でしかなく,「異物」ではなく「異物感」でしかない.しかし,確かに「触覚の気配」があり,「異物感」がある.見る者は「気配」や「感」に触れるようになると同時に,「気配」や「⚪︎⚪︎感」が見る者に触れてくる.今まで「気配」「⚪︎⚪︎感」といった確固とした存在ではないものを,デジタル画像の「操作の履歴」がつくりだし,それが視覚から差し引かれることで,視覚と触覚とのバランスが崩れ,「気配」「⚪︎⚪︎感」といったものがある存在として,見る者に触れてくるようになっているのではないだろうか.それが郡司が言う「天然知能」なのだろう.


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