235:大森荘蔵『新視覚新論』を読みながら考える02──1章 見ることと触れること
脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.
このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.
引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.
1章 見ることと触れること
1 純粋視覚
「視覚固有のカラフルな豊かさがどんな抽出作業にも抵抗する」と大森は書いている.「カラフルな豊かさ」とは何だろうか.触れることなく,見えるものとして,私は瞼を閉じたときのカラフルなモザイクを思い出す.光が満ちた空間で瞼を閉じても暗闇がやってくるのではなく,カラフルと言っても,赤緑青・RGBの3色しかないモザイクが私の視界に見えてる.瞼という私の皮膚を透過してきた光は,何かの像を見せるのではなく,RGBのモザイクを見せる.何かしらの像を形成できはしないが,RGBのモザイクは見えている.私はそれらには触れたことがなく,ただ見ている.純粋知覚と聞いて,私が想起し,実際に体験できるのは瞼を閉じたときに視界を満たし,形を変化させ続けるRGBのモザイクである.このRGBのモザイクは条件さえ整えば,つまり,瞼が光の情報を単調にしなければ,「識別的多様さ」を示す情報として処理されて,認知的差異をつくり,何かしらの像として処理されて,視界に現れてくるだろう.
2 視覚と触覚の断絶
瞼の裏に見えているように感じられるRGBのモザイクにも空間性はないように感じる.奥行きがない.瞼の裏という表面に展開している.している.それは何かモノがあるというよりも,青空が示す面色の青のようにRGBの光がつくるモザイクがある.手を伸ばそうとも思わないのは,手が見えないから.手の動きはわかるけれど,手でRGBのモザイクを掴もうとは思わない.しかし,手を動かすとモザイクの奥が生まれ,空間が生まれ,そこで手が動いていると感じる.
予測という観点から考えると,バークリーが視覚を触覚的接触の「目印」「予見」や「予知」を与えるものとするのは合点がいく.けれど,視覚から触覚へという向きだけでなく,触覚から視覚へという向きも考える必要があるだろう.視覚と触覚とは別々に外界のあり方を予測しながらも,情報は共有して,世界に対する予測モデルを精緻なものにしていく.マルチモーダルに外界の情報を得た方が,予測の精度が上がる.見ると触るとを行き来しながら,外界からの情報を構造化して,モデルをつくっていく.そして,そのモデルが「われわれの行動を誘導する」のである.
3 視覚空間の次元
私も大森と同じ意見.では,どのような感じで同じ意見となっているのか.触覚的生活は基本的に正しいとしても,触覚と視覚との完全な断絶はあり得ないと考えると大森の考えをなぞっただけにすぎない.これから大森が詳しく述べることを参照しつつ,自分の考えをみていけばいいと思われる.
大森があっさりとバークリィから離れてしまうのがいい.私たちは「二次元視覚空間」を体験しているのか.見えているものは三次元空間であると思うが,網膜は二次元である.そして,網膜の細胞は電子の数をカウントしているのみだとすると,二次元のセンサーから平行してのびる視神経という一次元の繊維を外界の情報が伝わっているとすると,そこには二次元も,三次元もないことにある.しかし,私の視界に三次元空間が広がっているように見えるのはなぜなのか.三次元空間が広がっていると感じられるのは瞼を開けているときで,瞼を閉じたときには「二次元視覚空間」が広がっているように感じる.網膜の届く情報が瞼というフィルターと透過するさいに次元の情報を失うのか.いや,次元の情報というよりも,何かしらの像を形成する情報が失われて,単調になって,RGBのモザイクを形成する情報しか持たなくなっていると言った方がいいのだろう.だとすれば,私の生活に説いては,「二次元視覚空間」は瞼を閉じた際にRGBのモザイクとして現れるということになるだろう.
「物のボケ具合や明瞭度,眼球調節の緊張感には距離なる概念は全く含まれていない」を前提に,私はかけている眼鏡を外して世界を見てみる.世界がボケて,明瞭度が落ちる.私はいつもこのことを不思議に感じている.私と対象との距離は変わらないの,対象の見え方,私の視界における対象の現れ方が変わってしまう.眼鏡は対象からの光を調節して,網膜に届けて,対象の明瞭度を上げる.対象との距離は変わらないけど,光が網膜に届く経路の変化によって,対象はボケる.この変化は,バークリィが主張しているように距離を考えない方がいいのかもしれない.いや,眼鏡を透して見る世界をボケていない明瞭な世界として,眼鏡を外して見る世界と比較している時点で距離は入っている.光線の経路といった書いた時点で網膜と対象とのあいだに距離はある.光線という触れられないものによって,対象の現れ方が変わるとすると,触覚抜きでも視覚は奥行き距離を構成できている.世界と共にある私は世界に対して,予測を常に行っていて,その予測において奥行き距離が生成される.この生成には,私が外界から得ているすべての情報が関わっている.そうだとすれば,眼鏡を取ったときにも,世界は明瞭に現れるべきではないのか.眼鏡をとった世界からのデータを予測して,眼鏡付きの世界になるようにデータを補正すればいいのではないか.でも,それはできない.私は世界を見たいようには見れない,世界が私が見る視界の現れ方を制限している.このとき,網膜からの情報が二次元の視覚風景をつくるとしたら,この視覚風景が三次元の触覚空間から得られる奥行き情報を抑制して,視界の明瞭さを落としていると考えられるのかもしれない.
4 映写幕の比喩
「視覚的奥行き」なしにスクリーンやディスプレイを見ることは難しい.網膜が二次元であるのに三次元を見てしまうように,私は世界を「視覚的奥行き」を持ったものとして見てしまう.私の予測モデルは二次元→三次元の変換装置が組み込まれた状態で,世界と相互作用している.さらに,スクリーンを見るということから,「離れて見える」ということですでに「視覚的奥行き」を前提にしているという指摘も最もだと思う.私と世界との相互作用からつくられる予測モデルが三次元空間を前提にして出来上がっている.ここからどうやったら「視覚的奥行き」を抜き取ることができるのか.
予測モデルないにつくられた視覚世界を天球面に張り付いたものだと考えることはできる.視覚世界は二次元だとは言えるかもしれない.しかし,視野という枠でし続けを切り抜くと,天球面と私とのあいだに距離が生じる,というか,厚みが生じるように感じられる.モデルはモデルであって世界そのものではない.そこに私という生物が動き回るための処理が必要で,それが視野でモデルを切り取るということだと思う.視覚世界を視野で切り取る際に,視覚世界はクッキー型で切り抜かれた生地のように厚みを与えられて,現れる.その厚みが三次元空間として視界に展開される.天球に貼られたクッキー生地はどこを切り抜かなければ,その厚みを確かめることができない.
視覚風景は私を包むものだが,そこからつくられる予測モデル=視覚世界は私のなかにつくられる.もちろん,視覚世界は三次元の私を包む視覚風景からつくられるが,それ自体が三次元かどうかはわからない.ホログラフィ理論で考えると視覚世界自体は2次元かもしれない,コンピュータのメモリのアドレスのような構造を持っているかもしれない.三次元の視覚風景のなかに二次元で見える絵とかスクリーンがあるというモデルを脳に組み立てるとき,それが三次元なのかどうかはわからない.視覚風景そのものをコピーするのではなく,その光の情報から視覚世界を構築しているとすると,視覚世界が三次元である必要はない.けれど,視野で切り抜いて,視界として展開するときには,三次元である必要があるし,三次元になるように処理されて,私は世界を三次元としか体験できないし,三次元の中に二次元平面のディスプレイに三次元を認めるような回路もすでに出来上がっていて,何もかもが三次元に見える.しかし,私の視界は三次元の世界に対応するように処理されているから三次元なのであって,視界の情報源である視覚世界は三次元である必要はないと考えてみたい.
大森は「視覚風景にはその「固有直接の対象」として「光と色」のみならず「視覚的奥行き」がある」と書くが,それは私が見ている視界を覆う視覚風景であって,視覚風景からの情報で構成される視覚世界には必ずしも「視覚的奥行き」は必要ないのかもしれないと,私は考えるようになっている.それは,瞼を閉じたときに見えるRGBのモザイクという「光と色」が視界を覆うときがあるからである.瞼を閉じているとき,その向こうがあるいう感じがあり三次元空間が前提とされているが,視界そのものは二次元に覆われていて,視覚だけの情報ではその先にいけないという感じも,私は強く感じる.触覚や運動感覚からの密輸をしなければ,RGBのモザイクに視覚的奥行きは生じない.瞼を閉じても世界を見ていることには変わりがない.瞼を閉じたときに視覚的奥行きを持たない「光と色」の視覚風景が生まれている.瞼を開けたときと閉じたときとで,視界=視覚風景のあり方が変わると考えられないだろうか.
5 視覚と触覚の接合
「私」とは視野の中心,視点であると言うのが興味深い.視界を見ている視点としての私.大森が「瞼」を登場させる.瞼が閉じられると視点はなくなり,触覚と運動感覚が出てくる.しかし,瞼を閉じたとしても,視点として私は視界を見ている.瞼を閉じると,視界が三次元空間=視覚的奥行きを持った状態から奥行きを失ったRGBの光のモザイクの状態へと変わる.私という視点が見ている視界は視覚世界の二つの状態とリンクしている.瞼を閉じることで,二つの状態のリンクが切り替わる.この点よりも「視野の視点近傍が触覚的瞼に定位された」を考えたほうがいいだろう.瞼に対して,触覚的と言う言葉が与えられている.視点から見た視界が二つの視覚世界とリンクしていて,そのリンクを瞼の開閉で切り替えると言うときには触覚は入っていない.
大森が書くように試してみる.私の方に近づいてくる鉛筆のような先に尖ったものは瞼のところで止まる.ただ瞼の少し先,眼球に当たって止まっている感じもある.瞼を通り抜けて,頭蓋骨も通り抜けて,脳にまでは至らない.瞼を閉じてみても同じ感触である.こちらは,瞼のところで鉛筆が当たって止まる感じがある.眼球に奥に鉛筆が入る想像をすると,私の中に入り込まれたと言う感覚がある.境界を侵犯されているような感じである.
大森が興味深いのは,釘一本では方向が決まらないと想像するところである.瞼は二つあるから釘も二本必要.確かにそうなのだが,想像してみると,私の場合は,釘は一本でやってくる.自分の指を二本こちらに向けて近づけても,最終的には一本に見えてしまうし,そのときは瞼にあたるのではなく眉間の真ん中に当たるという感じがある.身体をとにかく視覚風景に定位できることを感じさせるために,釘を二本持ち出すのはやはり面白い.定位されるとき,私は瞼の開閉によって,定位されるのが瞼一枚の薄さだけ異なる感じがあったのが,私的には興味深い.瞼を閉じているときは瞼,瞼を開けているときは眼球で定位される.でも,これは誤差なのかもしれない.瞼を重要視するかどうかで決まる誤差.
大森が「その視野の中心を体感的身体の或る場所にもつ風景」と言うものを,私は「視界」と呼んでいる.視野の中心には常に私という視点があり,その視点から見えるとされる視覚世界が視野によって切り取られて,視界として現れている.瞼はその視界世界の二次元と三次元との切り替えを行う装置として存在している.大森が考える視覚風景の空間と触覚空間とが接合されてできる一つの空間は,瞼の開閉に関係なくある世界そのものだと考えられる.その世界から得られる情報から構成され,瞼の開け閉めによって次元が切り替わって視界に現れるのが視覚世界となる.視覚世界は一つの空間を瞼を閉めること視覚と触覚とに分けるのではなく,視覚と触覚との差異をなくして,単調化していく.この言い方も違う.視覚は単調化して触覚を求めないけれど,身体図式は残り続けて,一つの空間の中に私の身体があることを感じさせてくれる.視点以前に,私の身体が一つの空間にある.私の意識に世界とその相互作用から視覚世界が構築され視界をつくるのとは関係なく,世界は視覚と触覚とが接合した一つの空間として私を取り囲んでいる.しかし,私が見ているのは視覚世界から切り抜かれた視界であって,そこで何か触れたときに一つの空間としての世界が私の意識に現れる.この考えは視覚優位すぎる.けれど,やはり視覚優位でヒトの体験は構成されている.世界の側には感覚の優劣がないが,私の予測モデルに生じる視覚世界,聴覚世界,触覚世界などの感覚世界には優劣があると考えられる.
6 「同一の事物」
「瞼を蝶つがいとする」と言う言葉がいい.大森は瞼を「蝶つがい」にして視覚空間と触覚空間とを接合する.私は瞼を視覚世界の複雑さを切り替えるスイッチとして考える.世界そのものは大森が書くようになっていると思う.しかし,私が視界に見るのは視覚世界という意識が世界からの情報で組み立てた予測のためのモデルである.視覚世界の情報の粗密は瞼によって切り替わる.瞼は世界からの光を単調にするフィルターであり,予測モデルを切り替えるスイッチである.
視覚と体感的身体図式との関係について,私は次のように考えていた.「世界を見る.瞼を閉じる.瞼に触れる.私を原点にして,外側へと広がっていた世界が,瞼を閉じると,私に収斂されていって,皮膚が境になるというが,世界に触れているところだけが意識に上がるようになる.身体はあって,その境界も分かるが,それがだんだんとぼやけてくる感じがあるようなないような.このようなことを書きたいと考えているから,そのように感じてしまうのだろう」.大森が「全く大よその位置や大きさや方向が合いさえすれば」と書くような感じで,視覚と触覚と言う二つの感覚がそれぞれもつ身体の座標が大体合っていると処理すれば,視覚世界で一つの物体として,さらに自分の手として感じられる.瞼を閉じると視覚に関する座標に関する情報が視覚世界の単調化とともに曖昧になり,視覚情報ではなく,右手がどこに触れているのかという触覚的な感じから右手の座標メインで右手の位置が決定されていく.
「視覚的接触と触覚的接触との一致」はその通りという感じだが「一致」と言うのは正確を求めすぎた表現になっている感じがする.大森も大他所の位置と書いているので,二つの感覚の一致は幅を持った事象と考えたほうがいいのかもしれない.あるいは世界としては一致しているが,そのとき,予測モデルを構成する視覚世界の座標と触覚世界の座標とはおおよそ一致でしかないと考えられるかもしれない.予想モデルは世界のコピーではなく,モデルであるから粗い=単調なモデルのときもあれば,精密なモデルのときもあり,それぞれにおいて座標が示す情報の正確さが異なるのだろう.大森が「透明上皮層」と書いているのが興味深い.右手と左手とで蚊を叩くときに,手の皮膚の少しうえの「透明上皮層」で行為が起こり,不透明な皮膚にそれらの行為が及んだときに音が出る.視覚的接触と触覚的接触とが世界で一致すると同時に音という聴覚的イベントが発生する.視覚は世界における不透明な皮膚に対して行為をするのではなく,蚊と皮膚とがつくる「透明上皮層」に対して行為を始める.「透明上皮層」の座標が視覚世界で生成される.「透明上皮層」を潰すように右手を動かすと,右手はまず蚊に当たり,透明な空間を潰し,左手にあたり,蚊が潰れる.蚊と左手双方のピンポイント座標ではなく,蚊と左手を含んだおおよその座標を視覚世界で割り出し,その座標を含む空間を潰すように右手を動かして,蚊を潰す.
蚊の例から考えてみると,「同じ一つの」灰皿を見て,触れているときには,その周囲の空間を含んだおおよその座標が視覚世界に生じて,その空間に対して行為を行うことで,灰皿に見て,触れるということが起こるのではないだろうか.視覚世界の座標は世界からサンプリングされた点にすぎない.その座標の隣の座標とのあいだに「透明な空間」があるというか,視覚世界から切り抜いた視界が世界に貼り付けられるときには,座標のみではスカスカになってしまう.ピクセルが物理的な光によって,拡散して像をつくるように,視覚世界の座標も世界に貼り合わせられるときに,拡散していく.視覚世界と世界とで対応する座標のあいだを埋めていく拡散していく視覚素=ディスプレイエレメントのようなものがつくるピクセルを拡散してできるニュートラルな色の広がりが視界を埋めることで,視界は連続的に見えているのかもしれない.
ピクセルと拡散するピクセルについては,アルヴィ・レイ・スミスが『A Biography of the Pixel』で書くピクセルとスプレッドピクセルとの関係を参照している.
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