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058:「サーフェイスまたはサーフェイスではない」を透してバルクを見る

サーフェイスから透かし見えるバルク.サーフェイスから「全体」を透かし見たときに,バルクはどのように見えるのか.哲学者の入不二基義は「PまたはPではない」という排中律を透して現実を見ると「現実」は二重化していると指摘する.同じように「サーフェイスまたはサーフェイスではない」を透してバルクを見ると,バルクも二重化するのかもしれない.

そもそも,サーフェイスはモノの最表面であって,それは全体の一部であるのだから,サーフェイスを透して見てもそこには全体=バルクしかない.けれど,バルクとサーフェイスとは異なる特性を持つ.サーフェイスは外界と接触において性質が変化しているが,その内部は外界と接しないがゆえに性質が変化しない.外界との接触においてバルクが変化しなければサーフェイスは存在しないとも言える.

モノが存在することは,バルクとサーフェイスとがありうることと,バルクとサーフェイスとがありえずどちらかしかないということの拮抗としてあるのか.サーフェイスはバルクの一部というよりは,バルクそのものでありながら,外界との関係で性質が変化したもの.それは酸化や汚れなどによって変化したもの.外部を巻き込むのがサーフェイスで,バルクは外部に巻き込まれない.けれど,バルクはサーフェイスを透して外部を巻き込んでいるとも言える.ヒトからはサーフェイスを透してバルクを見ると,バクルからはサーフェイスを透してヒトを含んだ外界を見ている.

サーフェイスはバルクとヒトと互いに巻き込む場であり,それもまた薄い立体だと考えると,そこにもバルクがあるということになってしまう.しかし,サーフェイスには「裏」がない.サーフェイスはいつ間にかにバルクになっている.この意味ではサーフェイスは「裏」を持たない,文字通りに「表面」でしかない.表と裏とはバルクを透して見ると,つながっている.表と裏とを決めるのは,ヒトでしかない.「厚み」を形成するバルクがいつの間にかにサーフェイスになっているのを,ヒトは見る.ヒトはサーフェイスしか見ないが,そこに表と裏をつくり,バルクを排除する.バルクはサーフェイスではないというか「厚み」として関心の外に置かれる.

連載「サーフェイスを透かし見る👓👀🤳」は,関心の外に置かれ,いつの間にかにサーフェイスになっていた「全体=厚み」を「バルク」として,あえて名付けて考察しているのだと考えられる.

モノを見るとき,映像を見るとき,さらにはスマートフォンに触れているときに「バルク」は欠如している.サーフェイスを透かし見るとき,そこに「インターフェイス」というモノ/映像とヒトとのあいだ=厚みは意識されるけれど,サーフェイスの先につづくバルクへの関心が欠落している.いや,バルクは全体であるから,関心が欠如しているのではないかもしれない.

「サーフェイスまたはサーフェイスではない」と言ったときの「サーフェイスではない」という部分にバルクが現れるわけではない.そこに現れるのはサーフェイス以外のヒトであり,「インターフェイス」と呼ばれるものだろう.

「欠如」とは,特定の何か(たとえばP)が無いことであり,完全な無(全く何も無いこと)とは違う.しかも,「関心依存的な無」であって,必ずそれ以外の何か(QやRやS……)によって埋まっているにもかかわらず,あたかも「(Pだけでなく)それらも無い」かのように扱われる.
しかし,「空白」は,そのような「欠如」とは異なる.「欠如」は,「Pではない」の「ではない」という否定と共に出現するのに対して,「空白」は,「PまたはPではない」や「QまたはRまたはSまたは……」の「または」という選言のところに出現する.
あるようにあり,なるようになる 入不二基義

バルクは「空白」として,「サーフェイスまたはサーフェイスではない」の「または」の部分に現れると考えたほうがいいのかもしれない.サーフェイスでもいいが,サーフェイスでもない宙づりの状態がバルクである.サーフェイスとされた場合は,サーフェイスがひとつながりに連続して表から裏までつながる.サーフェイスとは異なる性質を内部が持つ場合は,サーフェイスはいつの間にかにバルクとして確定されていくが,それはひとつながりの連続のなかで再びサーフェイスとなる.バルクが興味深いのは「空白」として,バルクでもサーフェイスでもない場として機能しつつ,気がつくと実在するようになり,また消滅するところではないだろうか.

バルクは一瞬,「空白」を招き入れるけれど,サーフェイスか,バルクに確定するので,「空白」それ自体ではないのかもしれない.サーフェイスを透して見ると,そこにはバルクが充満している,あるいは,バルクではなくサーフェイスが連続している.どちらにしても,何かがある.モノであれ,映像であれ,何かがあるのだから,「空白」はない.

サーフェイスがいつの間にかバルクになるとき,逆にバルクがいつの間にかにサーフェイスになるときに「もうサーフェイスはなく,バルクでもない(どちらでもない)」という空白が現れる.このように考えると,バルク自体は空白ではない.サーフェイスとバルクとのあいだに無の厚みが生じることになる.しかし,このように考えると,いたるところに厚み=インターフェイスが発生することなるのではないか.いや,バルクとサーフェイスはひとつの存在なかで起こっているのだから,その全体のなかに「空白」を抱えることになる.

「空白」は,「欠如」のさらに〈奥〉あるいは〈裏〉に控えている無である.「欠如」が「欠如」として成立するためにも,「空白」が奥(裏)で利用されざるをえない.
あるようにあり,なるようになる 入不二基義

サーフェイスがサーフェイスではないという欠如を示したその〈奥〉〈裏〉にバルクがあるとすると,バルクはサーフェイスが欠如するために利用される空白としてそこにある.空白があるということになる.

「ある」とも「ない」ともどちらとも言えて,「ある」と「ない」がそこで交代する「どちらでもない場」,それが「空白」である.
あるようにあり,なるようになる 入不二基義

バルクはサーフェイスのある/なしが交代する「どちらでもない場」なのだろうか.「「サーフェイスを透かし見る👓👀🤳」は,サーフェイスがあると仮定して,それを透かし見ながら,「どちらでもない場」としてのバルクをあるものにすることで,サーフェイスの存在を確定していく作業をしているのかもしれない.


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