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152:インターフェイス研究とメディアアート研究のあいだ

インターフェイス研究とメディアアート研究のあいだを彷徨っている.

メディアアート研究➡️インターフェイス研究➡️カーソル➡️エキソニモ➡️ポストインターネット➡️モノとディスプレイの重なり➡️インターフェイスを読む➡️マテリアルデザイン➡️サーフェイスから透かし見る👓👀🤳

このような彷徨いの中で,私が関心があるのはテクノロジーとともに変化する=アップデートしていくヒトの認識ということは変わっていない.ヒトとテクノロジーと共進化とも言えるし,テクノロジーによって,ヒトを強制的に進化していくと言える.

メディアアートはコンピュータのインターフェイス的側面を先鋭化させてきたと言える.そして,インターフェイスはメディアアートとは関係なく,徐々にその知見を溜めつつ,ソフトウェアとハードウェアとをつなぐ独自の領域の厚みを徐々に増してきた.メディアアートが瞬発的に見せたインターフェイスの厚みは,徐々jにインターフェイスそのものが体現するようになってきたと言える.逆に,インターフェイスが図らずも生み出していた「カーソル」というこれまでの存在とは異なり,物理的存在と強く関係を持つ同時で,仮想的存在でもあるものについて,多く人は見逃してきた.私自身もGUI の歴史についての博士論文で見落としていた.

このカーソルを強烈な印象とともに扱っていたのがエキソニモの《断末魔ウス》だった.この作品を通して,私は再び,メディアアート研究をし始め,気がつくと,ポストインターネットという流れの中にいた.同時に.渡邊恵太のカーソルの自己帰属感の研究もあり,インターフェイス研究も同時に続けていた.メディアアートとインターフェイスという二つの領域を研究していると,双方の領域の真ん中にある「ディスプレイ」という存在が気になった.「ディスプレイ」は映像を表示する装置というモノでありながら,モノであることよりも表示する「イメージ」であることを強調されている,不思議な存在のように思ったので,「モノとディスプレイの重なり」という連載をした.そこではディスプレイのモノとしての厚みと映像との関係を扱っていた.そして,ディスプレイの厚みは,マウスとカーソル,タッチパネルでの指のように触角を通して,実際に感じられており,その感じをディスプレイのイメージに落とし込んだのがマテリアルデザインやフラットデザインではないかと思い,「インターフェイスを読む」という連載を行なった.そうすると,マテリアルデザインがソフトウェアとハードウェアとを接合させたあらたなモノは,ディスプレイというフレームを飛び出して,実世界のモノにも影響を与えているのではないか,ということで「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」という連載を始めた.

この流れの中で,ヒトはモノに対しての認識に揺さぶりをかけられ,テクノロジーによって何をモノと認識するのか,ということがアップデートされていると考えている,というのがこれまでの私の考えであり,これからも考えていくことだろう.


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