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193:イメージの無限の連続であると同時に,感覚の無限な連鎖である

ランダムな眼の動きによる分子生成を視覚化する私のなかでは,《Molecular Infomatics》が変化するバーチャルな世界を絶えなく変化させ,瞬間ごとに,劇的に変化する世界を創出する.これは,イメージの無限の連続であると同時に,感覚の無限な連鎖である.そこに参加する観客がなければ,「作品」と言えるものは存在せず,ただの機械の塊があるだけでなのである.そしてこの作品は.各観客の身体に合わせて微調整するため,各観客の顔つきの違いを補うキャリブレーションが必要である.
ここでは,眼の動きがXYZの数値データに変化され,毎秒単位で新しい形状を構成する.
それは観客によって単に「活性化される」だけではない.観客の参加によって継続的なコラボレーションが行われるものである.実は,観客は無意識的にも参加することができる.もし「止めよう」とすると,すなわち視線を固定させると,彼らは無意識的な眼の動きがそれでも「作品」を作り続けていることを見ることになる.このイメージのダイナミックな形成に対して,「シミュレーション」という言葉ではなく,複数のプログラムの間の様々なインタラクションを示す「エミュレーション」を当てたいと考えている.pp. 10-11

馬定延・渡邉朋也編著『三上晴子──記録と記憶』所収の三上晴子「知覚の美術館/大霊廟に向けて」(馬定延・渡邉朋也訳)からの引用.

三上は「そこに参加する観客がなければ,「作品」と言えるものは存在せず,ただの機械の塊があるだけでなのである」と書いてる.この考えだと,故障しているだけではなく,単に参加者がいなくて動いていないときも,作品は「作品」として機能していないということになる.

三上の作品はヒトの感覚,それも意識に上がる前の状態も捉えて,イメージに変えていく.三上の「イメージの無限の連続であると同時に,感覚の無限な連鎖である」という記述はとても印象的である.そして,このイメージと感覚との関係に「シミュレーション」ではなく「エミュレーション」という言葉を当てているのも興味深い.ヒトとコンピュータを中心にしたシステムという異なるプラットフォームを跨いで機能できる「エミュレーター」として「作品」を構成していく.

このように考えると,ヒトが体験していないときの作品=機械の塊というのも理解できるような気する.ヒトを機械の塊で,機械の塊をヒトでそれぞれエミュレートすることで,双方の機能が模倣されてはじめて「作品」が立ち現れる.


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