三十路になったので怒涛の20代を振り返る/学業・社会人・精神疾患など
おはようございます、こんにちは、こんばんは。
Minamiです。
本記事投稿日の2023年10月17日、無事に30歳を迎えたので、20代の10年間を振り返っていきます。
多くの人は学生から社会人になったり、そこから転職したり独立したり、大きな動きのある10年間だと思います。
私の10年もそこそこ動きがある月日が流れていったのかなぁと思うので、記録も兼ねて書いていきます。
まずはざっくりと
早速、大きな動きのあった出来事をざっくりと振り返ります。
20歳半:専門学校に入学
23歳半:専門学校を卒業→新卒で就職
ほぼ27歳:後先考えずに退職
27歳半:2社目に就職
ほぼ28歳:精神疾患発覚
28歳ちょい:体調回復せず2社目を退職
29歳:3社目に入社
29歳半:初めての一人暮らし
とまあこんな感じで、学業スタートから就職、2回の転職、精神疾患の発覚、無職期間の発動など、心身ともにせわしない10年間でした。
それぞれをもう少し細かく振り返ります。
20歳6ヶ月:専門学校に入学
高校卒業後、特に進路を決めておらず約2年間フリーターをしていた。
昔から絵を描いたり工作が好きだった私は、ある日某専門学校のテレビCMを見て唐突にその道に進みたいと思った。
バイト先で社員雇用の話も出ていたが、過労で倒れる人を見ていたし「このままずっとフリータもどうなんだろう」とも思っていたし、それとは違う何か深いものをそのテレビCMに感じていたように思う。
なんでも後回しにする癖のある私だったが、そこからの行動は早く、母親に手伝ってもらいながら願書提出やらなんやらの手続きを行い、20歳半でグラフィックデザインの専門学生となる。
23歳6ヶ月:専門学校を卒業→新卒で就職
3年間を無遅刻無欠席で卒業し、よくわからない表彰も受け無事に卒業、希望する業界の社員約50人ほどの会社に就職することになる。
3年制の学校だったが、2年生終わりの春休みに1ヶ月間のインターンシップがカリキュラムとして組まれており、その中でインターン先の社長に直談判して直接内定をもらったという経緯がある。
つまり就職活動をせず、最高学年になる前に就職を決めたのです。
周りの学生よりだいぶ楽をしてしまったなぁ。
というのも、周りの学生より楽をしたくてインターンシップで内定を勝ち取ることに全力をかけていた。
その会社も約3年半勤めた頃に唐突に辞めることになる……
26歳11ヶ月:後先考えずに退職
会社に嫌気がさしたのか、親しい先輩が辞めたからなのか、人間関係が嫌になったのか、唐突に誰にも相談せず上司に「辞めます」と伝えた。
割と頑張っていた自覚はあったけど特に止められることもなく、結局代わりはいるんだよなぁと思うなどした。
この辺から色々狂い始めた気がするけど、勤め続けてもどうなっていたかわからない。
この後自分が思ったより苦労して、少し間が空いて2社目に就職します。
27歳7ヶ月:2社目に就職
前の職場を退職して少ししてから就職活動、内定が決まるまで約半年かかっている。
なかなか決まらなかったのは自分の実績と強みがないのも理由の一つ。そして世間は2020年から2021年、世界的は流行病に侵され、大きな混乱がまだまだ続いていた時。
そんな中でほぼ即決で決めてくれたのは大企業のメーカー。
私自身も面接で色々聞いて、納得した上で入社した。
……はずだった。
27歳10ヶ月:精神疾患発覚→休職
入社して2ヶ月が経った頃、体調に異変が起き始める。
元から頭痛持ちだが、それに加えて吐き気、めまい、息苦しさ耳鳴り食欲不振など。
行き帰りの電車で静かに泣き出したり、眠れない夜も続いた。
ネットで検索すると心の病が疑われるっぽいことに気づく。
「うつ病」や「適応障害」である。
そんなわけないと思いながらも、体調不良と睡眠不足はおさまらない。
相談相手がわからず、転職活動時にお世話になった転職エージェントに連絡をした。
向こうの役目は終わっているにも関わらず、親身になって電話で相談に乗ってくれた。
「会社への迷惑とかは考えず、専門家の意見を聞いて休んでください」と後押しの言葉をもらい、心療内科を受診することに。
病院で適応障害などの診断を受け、「診断書を出すので今すぐ休んでください」と言われたにも関わらず、夏季休暇を挟むこともありなぜか一旦持ち帰る決断をする私。いや休めよ。
夏季休暇明け、初日で「こりゃダメだ」と思うほどの体調不良を感じ、すぐ人事へ連絡。個室で話をすることに。
体調不良と睡眠不足があること、心療内科へ行ったこと、すぐ休んだ方がいいと言われていることなどを話した。
色々手配してくれて、病院から診断書ももらい数日後から休職スタート。
28歳2ヶ月:体調回復せず2社目を退職
タイトルでオチをバラしてますが、そのまま回復することなく3ヶ月ちょい後に退職します。
1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月と休職期間は延長になり満了を迎える。
ここでまず復帰するか退職するかの選択を迫られ、医師、人事、上司、産業医など全員に反対されるも押し切って復帰を選ぶ。なんでやねん。
しかしすぐに現場復帰するのではなく、”通勤トレーニング”から再開することに。
会社に行って人事に声をかけて帰る。
1週間ほどそれを続けて、次は数時間その辺ウロウロして帰るというふうに、徐々に体力を戻すシステムを取り入れてもらった。
しかし、結果は惨敗。よくなるどころか悪化した。
帰宅後にリバース、行った先で動けないほどの体調不良など、休職前より悲惨な体調の悪化に耐えられず、現場復帰を待たず退職することにした。
ここから約10ヶ月間、無職人間となる。
約10ヶ月間の無職期間/恩師が起こした奇跡?
正直休職からの約1年間記憶がないのか正直なところ。
世間からだいぶ遅れて「あつまれ どうぶつの森」をひたすらにやっていたことは覚えている。
そうして約半年が経った頃だったか、3年間お世話になった専門学校の先生から連絡が入る。
母校では時折、卒業生が先輩講義を行うことがある。
実は一度依頼されて登壇したこともあり、今回もその依頼の連絡かと思っていた。
先生は私が病気で無職になったことを知らない。
返信に数日を費やし、全てを正直に話した。
もし先輩講義の依頼だった場合、無職の人間にそんな偉そうなことをする権利はないと思った。
先生からの返事は
「相性の問題かね〜〜。時間あれば学校においで!ランチ行きましょう。何かいい道があるはず」
というような内容だった。
元々サバサバしている先生だったが、こんなにあっさりした返事が来るとは思っていなかった。
人と会う気にもなれない日々が続いていたが「何かいい道があるはず」という一言に救いを求めたのか、恩師と会うことに。
数年ぶりに行く学校、久しぶりに会う先生、どれも懐かしく感じた。
会って話をする中でも「相性の問題もあるからね〜〜、会社と合わなかったんじゃない?」とあくまでフラットな声がけに、心が軽くなったような気がした。
そして先生と会った後、止まっていた私の人生が動き始める。
専門の同級生だった子から連絡があって一緒に仕事をしたり、1社目の大先輩から仕事の紹介があったり、どうにも先生が引き寄せた運があったように思えてならないことが立て続けに起こった。
29歳:3社目に入社
1社目の大先輩から仕事の紹介をもらったが、もちろんこの方も病気のことは知らない。
その方にも打ち明けつつ、多方面に相談しながら話を進めた。
紹介先の会社は”デザイナーを探している状態”だった。
つまり私が納得すれば仕事が得られる(ということだったと勝手に思っている)。
しかし会社に迷惑をかけるわけにもいかないので、勇気を振り絞って病気のことを伝えた。
信じられないほどほぼ即答で理解してくれ、受け入れてくれた。
ハンデを背負っていることを理解してくれたのが一番嬉しかった。
だけれども、話し合うところはしっかり話し合って入社を決めた。
あれから約1年…と言いたいところだが、まだまだ終わらない怒涛の20代。
29歳半:初めての一人暮らし
おっっそ!!!!一人暮らしの開始おっっそ!!!!
この年齢でようやく一人暮らしを始める決意をする。
仕事はフルリモートで家でやらせてもらってはいるが、出社イベントが起こると結構遠かった。
しかし一番の理由は、家族との関係の悪化だった。
こんなにも悪化するかねというほどに、自分の中では耐え難いものとなっていた。
1社目を退職する時、2社目で体調不良が起きた時、相談相手に「家族」が出てこなかったのはこのためである。
内容が内容なのでここでは割愛するが、一緒に生活することはもうできないと感じ、逃げるように引っ越しをした。
一人暮らしなんてできるのかなと思っていたが、案外なんとかなっている。
30歳:現在
とまあ長々と書きましたが、私の20代は以上のような感じ。
この先何が起こるかわからないけど、次の10年は少しでも健やかに過ごしたいものです。
ここまで読んでくれてありがとう。
おしまい!!!!!!
ちなみに……
1日1お絵描きの期間は21歳9ヶ月〜27歳2ヶ月までの約5年半(学生、新卒、1回目の無職期間)でした〜〜〜
5年半の記録はこちらの記事から↓
あそこにベンツが停まってますね