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0416 惰性で生きてたっていいじゃん

年明けごろから寝付けない日が続いた。

今は平日の朝の9時に出勤し夕方の5時に退勤する仕事をしている。勤めて半年だが、これまでの仕事の中で、こんなに退屈な仕事はないというくらいに淡々と仕事をしている。業務の中で専門性の有無を感じないが、それはわたしが業界にどっぷり浸かっていた証拠なのかもしれない。「表4」「ママイキ」「げたばん」「ソート」「キャリブレーション」。家の玄関から職場までの距離は、公共交通機関を使って片道30分程度で着く。退勤のタイムカードを最速で切って、帰宅までのタイムアタックを始めてしまうくらい退屈していたし、暇を持て余していた(最速は26分)。その1人遊びを、このまま繰り返しを続けると、自分の感情が何の前触れもなく爆発する予感がした。社会情勢から目をそむけ、テレビのニュースに関心を持たないようにして、自分から娯楽を探すことを遠巻きにしている。

今の生活は慈しみで溢れている。だけれどルーチンから外れる決心をして、実行をした。持て余すほどの時間はあったから、まずは仕事の終わりに映画を観に行くことから始めた。上映時間という限られた中で、ストーリーは知覚・精神を、映像と言葉は視覚と聴覚、音楽による重低音は触覚を刺激する。わたしにとってはどんな映画であっても、始まりがあって終わるが為に満足感が期待値を超えていく。幸いなことに職場は、京阪沿線の祇園四条駅、つまり街中にあるのだ。映画館で映画を観て帰ろうと思えば、大衆シアターだけでなく単関係映画館、どんな場所にも速やかにアクセスできる。わたしは選びたい放題の気持ちで、退勤時間後の中で好きな映画をいくつか見歩いた。

わたしは映画を見るのが好きだ。思春期は小説、二次創作、漫画、電波漫画やブログを読み漁り、高校時代は下宿先のテレビがポンコツでDVDプレイヤーを接続することができず、PCもなかった為、下宿先の近所にある映画館で学生向けのムービー・スカラー制度を利用して鑑賞料金500円で色々な映画を楽しんだ。授業終わりや週末、映画館に通うのが当たり前だった。今はサブスクで映画や映像を自宅で楽しむこともできるが、画質と音響は映画館の方が好きだ。非現実の箱に詰められて、人間の思惑に踊らされているようでこそばゆい気持ちになれる。

映画を観ない日は、家の近所で遅くまで開いているスーパー銭湯でサウナと岩盤浴を楽しむ。または、興味のある美術展に足を運び、学生時代の知人がやっているバーやバルに転がり込んで、お酒を飲んで知らない人と談笑した。全く知らない人と苦手意識もなく話ができるわたしは、見知らぬ人と次から次へ名前を教え合い、そのときが気丈だろうとぐでんぐでんだろうと、次に遊びに行ったときは温かく迎えてもらっているようで天狗になっていた。

ルーチンから外れたわたしは自分の「何が苦手」で、「何が得意」で、「何が欲しいのか」を考える時間をおざなりにしながら、小指の先に違和感を抱えて過ごしていた(この表現はBBC・SHERLOCKで出ていたフレーズなので気になる方は検索してください。「指の先の違和感すらも見逃すな」ってニュアンスの台詞)。小指の先の違和感については、自分を整えるための糸口が見えたように思った。

寝付けないことを自覚しながら、わたしはこれまでの人生で体験したトラウマについて、眠る前にずっと考えてしまっていた。考えなければいいのだけれど、こちらが気を抜いている隙にわたしの夢に素知らぬ顔で当事者が現れ、追体験を始める。夢の後は、追体験で鮮明になったトラウマに対して、どうしたらよかったのか後悔と取り返しの付かない完全なる敗北で打ちのめされる。本当は今更わたしがトラウマの当事者に対して、何もアクションを起こすことなんてできない(やったところで変わらない)だろうけど、愚図ついたわたしを知っている人間に会って、ひとしきり、他人行儀で聞き流してもらいたい気持ちになっていた。その繰り返しが頻繁に起こって、結論、途方もなく心身ともに酷く疲れた。

濁す書き方をするけれど、わたしには離散している父と母と、兄がいる。みんなそれぞれわたしのことが好きなのだ。家族であるという義務感かもしれないが、わたしの家族は過干渉でわたしの人格を否定して、わたしの心を殺すのがとても上手なのである。彼らとは、ここ3〜4年ほど距離を置いて他人としての関係を築いていたのに、半年ほど前から厄介なことが続いた。詳しくは書かない。厄介で、成人した人間が自分で解決できるであろうことに他人を巻き込む。馬鹿らしくて幼稚で、わたしの自尊心を酷く傷つけるようなことだった。そのきっかけもあり、わたしはトラウマの夢ループにハマって、寝付けず、寝ても興奮状態が続いていた。

どこかで改善策を立てて実行に移さなければ、(飲み歩き過ぎていたので)急性アルコール中毒か、鴨川で寝そべって低体温症で死ぬ気もした。自暴自棄になって自殺する衝動に駆られるかもしれない恐怖もあった。そこで、わたしは久々に以前通っていた町医者に駆け込み、ことの詳細は話さず、睡眠薬を手に入れた。町医者は「話を聞いている限り、言動もおかしくないし、眠れる日もあるようだし、適宜自分で調節して断薬しても構わないから。」と薬を処方した。医師から言われた通り、興奮して眠れない日だけ薬を飲んでいるけれど、約1ヶ月でかなり日常生活が楽しくなった。もっと早く飲み始めたらよかったと後悔した。落ち込んでいるとき、状況を何も知らない配偶者に対して、わたしに家族はいないのだ、とこぼして泣きついたら「君はもううちの子なんだから。」「もう山口県より西に行かなくていいからね。」と声をかけてくれた。その言葉はとても救いだった。1人でいて不安になることは少なくなったし、映画の終わりに花を買ったりもした。これから暖かい季節が始まるのだし、どこか遠くに出かけるのも楽しいかもしれない。鴨川でピクニックしたり、鬼殺しのパックを吸いながら市営地下鉄でお出かけしてもいい。

わたしは正月に入籍をしたり、お誕生日があったりと楽しいはずの半年だったけれど、ひどく落ち込んだ時期でもあった。昨年の秋に、田舎の母が15年ほど連れ添っていた猫が死に、母が身辺整理を始めたものの、捨てられなかった思い出の品々を段ボールめいっぱいに詰めて送ってきた。ようやく折り返し地点が見えるまで片付けた。わたしは、母の荷物のことにだけは区切りをつけようと思っている。

今考えると実家を出る14歳まで住んでいた街は都会だった。活気づいた中洲の街が那珂川を下ればそばにあり、電車1本で天神に着く、車で20分もあればたどり着く国際空港、自転車を走らせて博多湾を見に行ける。食べるご飯はどこだっておいしい。わたしの過ごした街について話すと、あの街はいい場所だ、と言ってもらうことが多い。わたしは、わたしが捨てた街のことを誇りに思うことはできないし、二度とあの土地を踏みたくない。それはそれでいいと、いったん蹴りとつけようと思う。

数年ぶりに書いたエッセイもとい近況報告は以上です。最近仲良くしてくれた皆さん、ありがとうございます。おかげで心身ともに元気に戻ってきました。また気づきがありましたら、以前のような噛み付くような文章を書こうと思います。

長い文章にお付き合いくださりありがとうございます。
それでは、また会おうね。


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