◇0219日記 カノープスを叫ぶ上司

「カノープス!」

 定時を過ぎた事務室で、斜め向かいに座る50代の上司が突然声を上げた。ほとんどの職員が定時に帰る職場で、わたしは年末に退職した職員の仕事を請け負ったことと、自身の退職に伴う引き継ぎ資料の作成で連日残業が続いていた。週末の定時を過ぎた事務室には上司とわたしの2人きりだった。定時を過ぎると、西日があっという間に落ちる季節。日中は来客や職員の出入りが多く、定時を過ぎるともに壁に音も生気も吸い取られてしまうんじゃないかと想像するほど、事務室は不気味に静まり返る。つんと冷たい空気の事務室で、上司の上げた声は小さくともわたしの耳にはっきりと聞こえた。

「なんですか。それ。」

 わたしはデスクに座ったまま、視線だけを上司に向けて尋ねた。ふたまわり以上年上の上司は、小柄でいつも猫背であり頼りなさそうではあったけれど、周囲の職員たちは彼をマスコットのような、可愛らしい動物を扱うように接していた。お堅い言葉で話す相手にも、不器用なのか、少しオタクのような特徴的な調子で慌てて答える上司に、わたしは自分の年齢も忘れて砕けた調子で接するようになっていた。上司は自身の趣味や興味関心について話すことが好きみたいで、休暇の出来事や趣味の競馬や旅行について気さくに話していた。

「今の時期だけにしか見られない星でして、晴れた日の地平線に近い南の空に少しの時間だけ強く光る星が出てくるんですよ。それがカノープスっちゅう星で、ああ!もうこんな時間か…今日は見られんなぁ。でも天気がいい今日明日くらいに見ないと、いつまで見られるかわからないしなぁ。」

 と、カノープスの観測ができなかったことを惜しんでいた。多忙で気が張っていたわたしは、カノープスについて目を輝かせながら興奮気味に話す上司の姿を見てとても可笑しな気持ちになった。カノープス、初めて聞いた知らない言葉、星の名前…。上司はカノープスを思い出して以降、カノープスを観測するためには何時に上がらなければいけないのか、今週の天気予報で晴れの日はいつだったのか、2月の寒空で観測するためには防寒しなくては…とパソコンを見ながらも手を止めてブツブツ呟いていた。上司の、50代独身男性の持つロマンを垣間見た気がして、わたしは可笑しさが止まらなかった。ロマンはいくつになっても止まらない。

 週末明け、上司にカノープスについて尋ねると渋い顔をしながら

「ううーん、今週末は地平線のあたりが曇っていてね、それにすごく寒かったからさっさと切り上げました。」

と答えた。その後、彼がカノープスを見ることができたかはわからないけれど、寒い日の澄んだ星空を眺めたとき、あのときに声を上げた上司のことや空にはわたしの知らない星の名前がたくさんあることを思い出す。

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