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”ポジティブ・マインド” < 自分の他者化

最近、自己肯定感・ボディポジティブ・セルフラブ、などなどの言葉から、強まっているように感じる風潮がある。それは、
      
           " ありのままの自分を愛そう! "   

というもの。

強調され始めたのはいつだろう。肌感覚としては、2~3年前から強まったような。
よく目にするようになってから、しばらくは自分もその意見に背中を押されたり、気持ちが前向きになる、そういった良い印象を抱くムーブメントだった。

確かに、自分自身を大切にすること、ありのままの自分を愛することは素晴らしいことかもしれないし、それで自信が持てた人もきっといるだろう。

しかし、この ”ポジティブになろう” という考え方は、
時にやや強引で傲慢であり、無理難題を押し付けようとする偏狭さを感じる。

だからこそ私が実践したいのは、ありのままの自分を愛し受け入れるのではなく、

                            " 自分と、程々の距離感を保とう ”

と言う考え方。

私は、例によって就活鬱に陥った人間の1人だった。
特に表面化する形で症状は出なかったのものの、
「生き続ける意味」を問い続けるように脳みそが悪変されてしまった。

しかし大学を卒業した今、

             " 自分は自分1人が形成する実態ではなく、
                                    内側に複数の自分が内在する集合体にすぎない "

そう考えるようになった。

自分は複数いるのだから、自分1人の決定や意志によって何かがもたらされているわけではない。だから、自分を好きな自分もいれば、嫌いな自分が至って構わない。自己肯定感だって、低い時も高い時もある。痩せたい自分もいれば、めんどくさいしこのままでいい自分もいる。そんなもんやろ。

自分に対して過剰に期待し、責任を負わせるから、落胆して絶望する。だからと言って、自分を常に甘やかすべきであるというわけでもない。

何が言いたいのか分からなくなってきたが、
とにかくありのままの自分を無理に愛する必要もないし、受け入れる必要もない。
ある程度 ”自分自身を他者化してしまっていいのではないか?” ということ。

思考の矢印を自分に向けすぎなくてもいいし、自分に対する想いは違っていい。

生きる意味を考える自分もいたっていいし、絶望を感じる自分がいたっていいし、逆に何かに没頭する自分がいたっていい。友達との時間を楽しむ自分がいても、自分の時間に集中しても、あと誰かに怒られたって、別にいい。

大事なのは、そんな自分を遠くから自分を客観視する自分を見失わないこと。
必要なときほど、自分を観察し、時にご意見番となる違う自分を守り続けること。


また、この事例にも言えることだが、
自分を客観視するのみならず、こういったムーブメントに対しても客観的に観察し、自分の視点を持つこともかなり大切。
特にポジティブ・マインドブームは猛烈な勢いで若年世代を対象に拡散された。
そのおかげで、自分を好きになるべきだし、それがいいこと、という風潮が瞬く間に構築されていった。しかし時に、拒否する猶予すら与えられないこともあった。
でも、拒否する権利はあるし、自分なりに変える権利だってある。当時の自分に何か言えるとするなら、" 自分なりに利用してみなよ " って感じだな。

だからこそ、” ポジティブ・マインド ”の押し売りはなされるべきではない。
それはあくまで個人が判断すること。
そのままでもいいんだよ、という受け入れ方はいいかもしれない。でも、
ありのままの自分を愛し、受け入れるなんてことは誠にレベルの高いこと。
しかもそれは、盲目になり危険な結果を招きかねない。

だからこそ、ある程度自分を嫌いな自分がいて、好きな自分もいて、それらを観察する自分がいる、というような状態が、無難でベストなのかもしれない。


そんなようなことを考え、私の学生生活最終日前日が終わろうとしている。
さて、柿の種梅味でも食べるとするか。

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