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「生きている中世」が滲み出す恐怖〜『Rapito』(邦題:『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』)(試写)をみました

マルコ・ベロッキオ監督作品『Rapito』(イタリア・フランス・ドイツ、2023年)を試写で見ました。



ピウス9世在位下のイタリア(教皇領)で起きた実在の事件に取材した史劇です。
ボローニャに住むユダヤ教徒の家族に6男として産まれたエドガルド・モルターラ(1851−1940)。乳児の時に病気にかかったのを心配した無学な女中の親切心で気づかないうちに洗礼を授けられ、6歳になったある日、当地の異端審問官を務めるドミニコ会士の命でローマに連れ去られてユダヤ教徒・ムスリムの子弟を対象とする強制改宗教育機関に放りこまれます。エドガルドは適応して司祭養成教育を受けるようになるのですが、彼を取り戻すための両親と家族の絶望的な奮闘が始まります。
イタリア独立戦争による教皇領の消失と教皇権の失墜の過程や、世俗国家における世俗法と教会法の問題も織り込んでかつデタッチメントのある正攻法の史劇で、物語には確かな手触りがあります。
反近代主義の害悪と「生きている中世」を温存しようとする力の恐ろしさというじつに現代的な問題がじわじわとにじみだすナラティヴが巧みです。
ナストロ・ダルジェント賞で7部門受賞も納得です。

現代要素と調性音楽を巧みに組み合わせた音楽がまず良い、家庭でのユダヤ教の祈りの情景と19世紀の教皇庁のセンチメンタルで歯の痛くなりそうに甘い音楽(少年聖歌隊とカストラートが甘ったれた声で歌う)の対比もきちんと描けている。

家族ものとしても堅実な語り口です。
父サロモーネ(通称モモロ:ファウスト・ルッソ)がエドガルド(少年期:エネア・サラ、成長後:レオナルド・マルテーゼ)を取り戻すために毅然と友人知人のネットワークを駆使してヨーロッパとアメリカのユダヤ教徒世論に訴え、イタリア独立戦争の結果世俗法で教会人を裁けるようになるとかつて息子をローマ送りにした元異端審問官を告訴して法廷に出る姿にはユーモアと悲哀すらにじむ。法廷劇場面の尺も充分配されています。ナンニ・モレッティ作品に出てくる悲哀のにじむおじさんが好きなかたぜひご覧になってください。
母マリアンナ(バルバラ・ロンギ)が4世紀頃の壁画の目の大きい女性像のようなくっきりとした面構えで眼に愛情と意志を力を籠めてともらせる表情もとても良い。母親の臨終の床にかけつけて「うんでくれてありがとう」と洗礼を強要しようとする修道服姿の息子をベッドに横になったまま強いまなざしでにらみつけ、「私はユダヤ教徒として産まれてきたからユダヤ教徒として死ぬ」と毅然と息を引き取る場面も。あっぱれです。


放り込まれた環境に順応した結果、最初こそ同輩と心を通わせたり礼拝堂の磔刑像の釘を抜く夢を見ていたものの、しだいに怯えた子どもになり、教条主義的な司祭に育ってしまったエドガルド。
エネア・サラとレオナルド・マルテーゼの抑えた演技からは、自分ではどうにもならないことをのみこまされて順応するしかなかった子どもが自由な精神の発露や人間性を心の奥底に押し込めて自分を育ててくれた組織の犬になるさまが伝わります。洗脳教育の結果として原家族と対座しても心の通わない、絶対的な他者になってしまう状況がしっかりと描きこまれています。

パオロ・ピエロボンがピウス9世を怪演しています。多分に利己的な暴君気質と貴族の子弟の愛嬌でもって世の中を渡ってきたのであろうなと思わせる俗物に描かれています。ユダヤ教徒とムスリムの子どもを人質にとって強制改宗させ、教育を仕込んで司祭に育てる過程でにこやかに「私がきみたちのほんとうのお父さんだよ」とパターナリスティックな洗脳にいそしむ姿も、イタリア独立戦争で教皇庁の旗色がわるくなるとどんどん迷信深さをむき出しにし、教皇領を失って反近代主義に舵を切り他者の追従と服従をますます要求するに至る姿も場当たり的に愛想のいい裸の王様ふうです。なんとなく愛嬌と俗っぽさでどうにかしてきたのだろうけれど観衆は騙されないぞ……!と思えてしまう。
1878年のサン・ロレンツォ・フオーリ・デ・ムーラ教会へのピウス9世遺骸移葬のさいの暴動もきちんと描きこまれている。「裏切り者!」「こんな教皇など、テヴェレ川へ放り込んでしまえ!」と群衆の中から声が上がり、ここでエドガルドがはじめて「パパ様」への反抗的挙動に出るところも見逃せません。

父性をめぐるドラマとしてもよくできていて、時代と政治に翻弄されながら家族と暮らす尊厳を求めてたちあがるユダヤ教徒の父たち兄たちの姿と、偽善的なセンチメンタリズムに染まったヴァティカンの司祭たちが作る擬似家族の不自然なホモソーシャリティの対比の描写には唸らされます。
「洗礼志願者の家」に集められて特権意識を植え付けられた「異教徒」の子どもたちが教皇を「おとうさん」とする擬似家族から逃げ出せないように追い込まれて教育係の司祭にじつに天真爛漫にすら見える態度で従順に応えるさまにも現在のカトリック教会の児童虐待問題につながるものをみる思いがします。

スティーヴン・スピルバーグが撮りたくてとうとう撮れなかった題材とのこと、大いにうなずけます。マイノリティも市民も犠牲にして「生きている中世」の延命を図る権力者の姿や、追い詰められて権力の犬に育て上げられる子供の姿は、どの宗教の人も紛糾せずに見られる異文化衝突ハートフルストーリーじたてにはどうやってもなりえない話題です。

近代に背を向けて生き延びようとする覇権宗教の暴力性と、時代と政治に巻き込まれてなお尊厳を求めて生き抜こうとする人々を堅実に描く良作です。
学生諸君にもカルロ・ギンズブルクの読者の皆さんにもおすすめします。

なお、イエズス会アメリカ管区刊行のリベラル系メディア『America』に本作の評が出ています(この記事が出た時点ではアメリカでのロードショー公開予定は未定とのこと)。さらにピウス9世列福の背景にある超保守主義者への目配せについての論評が出ています。『ヴァティカンのエクソシスト』の評もでしたが、『America』の記事はデタッチメントがきいていて必要な情報を伝えてくれるので、教会と距離のある人にとっても安心して読めます。


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