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3月11日のこと、そのあとのこと、いまのこと

11年前の自分の話

11年前の3月11日は、海外旅行に行っていました。大学1年生の終わりの春休み、初めての海外旅行でした。たしか5日間の日程で、震災の翌朝、帰国する予定でした。震災の日の夕方、日本で大きな地震があったらしいよ、という話を聞きました。夜になると、少し整理された情報が入ってくるようになりました。大きな地震があって、大きな津波が来て、たくさん人が亡くなっている。原発が停止している。飛行機は全てとまっていて明日は帰国できないかもしれない……。

その頃はまっていたhillsongのstillを夜聴いていました。一緒に旅行をしていた親しかった友人が教えてくれた曲で、よく聴いていました。
「荒れ狂う海をこえて……」
津波でたくさんの人が亡くなっている……。朝までほとんど眠れませんでした。

(stillを聴くと、自分の中では震災に結びつき、当時のことを思い出し、津波の映像が頭の中で再生されます。震災の夜、海外で一緒にいたけれど今はもう連絡が取れない友人のことも。元気に過ごしていたらいいな。)

翌朝、自分が搭乗する予定だった飛行機から運行再開となり、帰国しました。搭乗口には朝刊が置いてあり、一面には水の中で燃える家々の写真がありました。それは津波の中で発生した火災の写真でしたが、その時点では、日本の写真だとは思いもよりませんでした。
成田空港から自宅までは電車で1時間ほど。その日は5時間かけて帰宅しました。空港で休んでいる人がたくさんいて、電車は最初から最後まで満員。あちこちのディスプレイには津波の映像が映っていました。このあたりからやっと、本当に大変なことが起こったのだと感じ始めました。

東京の大学に通っていましたが、4月は休校。ゴールデンウィーク明けから大学が再開しました。同じクラスに仙台出身の子がいましたが、大学には来ていたし、震災のことは特に何も話していませんでした。何年か後に、家が流されてなくなってしまったこと、大家族だけれど全員無事だったこと、飼い犬が死んでしまった話を聞くことになりました。

311のあとの大学生活の話

大学は、哲学科に通っていました。人文系で原子力問題を扱う先生がいて、結局卒論の指導教授をお願いすることになりました。
卒論については、テーマや研究する人物を設定するというより、戦争や原子力といった、現実に起きている/あるけれど、答えが出ないというか、どうにもならないけれど答えを出さないといけないこと、それについてどう考えたらいいのか、何を語るべきか、といったことに関心がありました。
そのあとは、もっと現実的な場面でその思想が生きないかと考えて、政治学・外交専門の先生のもとで学びましたが、なかなかうまくいかず、中途半端な形で終わってしまいました。

現場に行った話

震災の後、母が毎年東北へボランティアに行くようになりました。
数年前、ボランティアで知り合ったという友人のところに行くから、一緒に仙台に行こうと誘われ、旅行気分で一緒に行きました。
母の友人という方は被災地を案内してくださって、自分の経験や調べたことを教えてくれました。また、南三陸町のホテルに泊まり、母が予約していた語り部ツアーに参加しました。津波の遺構をまわり、被災した方たちのお話を聞きました。

たくさん泣きました。日常が消えた瞬間、隣にいた人がいなくなってしまった瞬間。どこか遠くで大きな地震があって、たくさん亡くなったと、なんとなく情報を目にしてなんとなく考えの中にはあったことが、急に自分のことのように感じられて、悲しみでいっぱいになりました。

論文上や、ゼミの議論の中ではいろいろ考えたり、あれこれ言い合ったりしたわけですが、現場に行くこと、経験者の話を聞くことの大切さを感じました。私は、「人間的な」感情や考えなしに、ただ学問的なことを言うのは違う気がする、と思いました。

いまの話

もうあなたがイメージするような「戦争」は起きない、武器を持って相手国を攻め込むなんてことは今時もうないよ、と、大学で散々言われたことを最近よく思い出します。たしかに、とそのときは思いました。でもいま、突然起こった戦争で、たくさんの人が亡くなっている……。
自分が中途半端に置いてきた論文を思い返し、どう考えたらいいのか、いま私は何を語るべきかということを、また考えています。

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