栗山巧(西武)、NPB通算2000安打達成/過去のライオンズ選手の達成は?

埼玉西武ライオンズの外野手、栗山巧(38歳)が、9月4日の楽天戦(楽天生命パーク)で、NPB史上54人目となる通算2000安打を達成した。

栗山は、通算2000安打まで残り2本として、自身38歳の誕生日となる9月3日を迎え、その日の楽天戦(楽天生命パーク)に「6番・レフト」で先発出場したが(通算2040試合目)、3打席目を終えてノーヒット。
そして、4-4の同点で迎えた9回表、1死一塁の場面で打席に立つと、楽天の宋家豪からライトへのヒットを放った。これが栗山にとってNPB通算1999安打目となった。
その後、西武は栗山のつなぎの一打もあり、呉念庭の勝ち越しタイムリーを呼び込むなど、この回、一挙4点で試合を決した。
この後、栗山に打席は廻らず、2000安打達成は今日の楽天戦に持ち越しとなった。

今日9月4日のデーゲームの楽天戦、栗山は「6番・指名打者」で出場するも、3打席まではノーヒットに倒れた。試合も、西武が8回を終わって、3-8と5点ビハインドで苦しい展開となった。迎えた9回、1死走者なしの場面で栗山に4打席目が廻り、楽天4番手、元ライオンズの同僚の牧田和久との対戦となった。
栗山は、牧田が投じた1-2からの4球目の外角球を叩き、レフトへ運んだ。
この瞬間、栗山巧にとって、自身2000本目の安打が記録された。
派手なアクションもなく、いつものように淡々と一塁ベースに到達した栗山に、西武のチームメートたちを始め、球場のあちこちからは惜しみない拍手。
同僚の源田壮亮から、通算2000安打達成記念プレートを渡され、栗山はそれを一塁ベース付近でいろいろな方向に向けて、高々と掲げた。
そして、楽天を代表し、元同僚の後輩、炭谷銀仁朗から花束を渡され、笑みがこぼれると、ヘルメットを脱いで、楽天ベンチに一礼。
続いて、チームからは同級生の中村剛也が栗山に花束を渡した。
そこからはクールな栗山も相好を崩し放しとなった。

西武は9回、栗山の反撃の口火を切る安打で、山川穂高の17号2ランホームランが飛び出すなど、3点差まで迫ったが、結局、5-8で敗れ、栗山のメモリアルデーを勝利で飾ることはできなかった。

これまで、NPB通算2000安打を達成したのは栗山を含め54人いるが(日米通算2000安打達成者を除く)、栗山は年齢では29番目、試合数では40番目、そして、ライオンズの選手としては、1983年の山崎裕之(通算2081安打)以来、38年ぶり4人目となり、しかも、ライオンズ生え抜き選手としての達成は、西鉄ライオンズを始め前身を含めても初の偉業である。

画像1

1999安打を達成してから2000安打までにもっとも打席を要したのは、2008年の金本知憲(当時、阪神)の19打席(18打席ノーヒット)であるが、18打席を要した2番目の選手は二人おり、そのうち一人は、栗山にとって「ライオンズ」の先輩である(もう一人は、巨人の柴田勲)。

江藤慎一

江藤慎一は熊本商業・野球部で「4番・捕手」として活躍するも、甲子園出場を果たせず、高校卒業後、社会人野球の日鉄二瀬の濃人渉監督の門を叩き、テスト入団した。

江藤はのちに南海入りする古葉竹識と共に、濃人渉の指導を受け、正捕手に成長、1958年秋の日本産業野球大会で日鉄二瀬を優勝に導くと、1959年に中日ドラゴンズに入団。一塁手に転向すると、新人から全試合出場を果たし、打率.281、139安打、84打点、15本塁打を放ったが、新人王は大卒新人で31本塁打の桑田武(大洋)にさらわれ、獲得できなかった。
江藤はその後、6年連続でシーズン全試合出場を果たすと共に、1964年には自身初のセ・リーグ首位打者を獲得すると、翌1965年にも2年連続で首位打者に輝いた。連続試合出場は809試合まで続いた。

江藤はさらに、新人から11年連続でシーズン100安打以上、20本塁打以上、60打点以上をマークし、中日を代表する野手となっていたが、1969年のシーズンに水原茂監督と折り合いが悪くなり、トレード要員となる。だが、江藤はトレード勧告を拒否したことで、一時は任意引退扱いで退団となった。
だが、日鉄二瀬の恩師である濃人渉がロッテ監督に就任することで、ロッテへの移籍の道が開かれた。1970年6月、シーズン途中でロッテに移籍した。

江藤はロッテ2年目の1971年には開幕から4番として安打を重ねた。パ・リーグを代表するアベレージヒッターの張本勲や加藤秀司らを抑え、10月6日の誕生日に6年ぶりの首位打者を確定させると、これがNPB史上初、「セ・パ両リーグでの首位打者獲得」の偉業達成となった。
たが、喜びも束の間、その翌日、江藤は大洋ホエールズへの移籍を通告された。江藤の恩師の濃人監督が、7月に起きた放棄試合と成績不振の責任を取らされたことから、江藤も一蓮托生となったのだった。

江藤は大洋でも主軸ととして3シーズン活躍したが、2000安打まであと61本と迫ったところで、地元・九州の太平洋クラブライオンズへプレイングマネージャー(兼任監督)として招聘された。
江藤は前任の稲尾和久・前監督による守備中心の野球から、豪快な打撃中心のチームへとライオンズを変貌させ、それが奏功した。

江藤は選手として6月1日の古巣・ロッテ戦で、NPB史上初となる12球団から本塁打という記録をつくると、8月には通算1999安打目を放って、2000安打に王手をかける。

だが、ここから記念の1本がなかなか出ない。14打席ノーヒットが続き、迎えた9月6日、近鉄戦(藤井寺球場)で「6番・指名打者」で出場した江藤は3打席ノーヒットで、9回の打席を迎えた。1999安打目を放ってからついに17打席連続ノーヒット。1-1の同点の場面、江藤は近鉄先発の柳田豊の投じたボールを振りぬくと、打球はライト線へ。これが二塁打となり、江藤はNPB史上9人目となるNPB通算2000安打を達成した。江藤は生え抜きではないが、ライオンズの選手が2000安打を達成するのは、前身の西鉄ライオンズを含めても、初の快挙となった。
江藤は自らに代走を送って、ベンチへ退いた。

その年、江藤は監督としても、ライオンズをAクラスに導いたが、経営状態が悪化していた太平洋クラブのフロントは江藤を監督から解任し、選手兼打撃コーチへの就任を打診するが、最終的に江藤はこれを拒否して退団。
金田正一率いるロッテが江藤の獲得に乗り出し、江藤は4シーズンぶりにロッテに復帰した。

ロッテに移籍した江藤は38歳で迎えた1976年のシーズン、4月はチームトップの4本塁打を放つなど、好調な出だしだったが、6月に右肘の古傷が再発、思うような打撃ができなくなっていた。8月13日の古巣・太平洋戦(平和台)に先発でフル出場し、自身通算2074安打目となる二塁打を放つと、翌8月14日の先発出場が現役最後となり、波乱万丈の野球人生にピリオドを打った。

江藤は闘志をむき出しにして一見、豪快、人間関係は不器用なところもあったが、打撃では緻密な研究を欠かさなかった。その研究熱心な苦労人を野球の神様は見捨てなかった。

江藤が達成した「両リーグで首位打者獲得」は、その後、張本勲(東映・日拓・日本ハム、巨人、ロッテ)や落合博満(ロッテ、中日、巨人、日本ハム)が挑戦したが、あと一歩で果たせず、内川聖一(ヤクルト)が2008年に横浜、2011年にソフトバンクの両チームで達成したが、いまだにその二人だけである。

江藤慎一の年度別成績

画像2






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?