大洋ホエールズ最後のノーヒッター・鬼頭洋
今永昇太、ノーヒットノーラン達成
52年前も「背番号21」はノーノー達成の瞬間、真顔だった。
横浜DeNAベイスターズの今永昇太(28歳)がNPB史上85人目(96度目)のノーヒットノーランを達成した。
6月7日、札幌ドームでの北海道日本ハムファイターズ戦に先発した今永は2回に清宮幸太郎に四球を与えた以外、8回までノーヒットに抑えた。
0-0で迎えた9回表、宮崎敏郎が2点タイムリー二塁打を放って待望の援護点を得て、9回、最後の打者である野村佑希をライトフライに打ち取り、快挙を達成した。
札幌ドームでは史上初のノーヒットノーランであり、チームではベイスターズの前身であるホエールズ時代を含めると、1960年の島田源太郎、1966年の佐々木吉郎、1970年の鬼頭洋に次いで4人目、実に52年ぶりの快挙である。
今永は達成の瞬間も、笑顔はなく、チームメートからの祝福にも淡々としていた。
用意された花束を受け取るとスタンドに向かってその場で360度、一周しながら高々と掲げ、一礼した。
その後、花束を抱えたままだマウンドを足で馴らしてから、勝利のハイタッチの場に加わった。
敵地でのヒーローインタビューで今永はこう語った
「この何者でもない一投手をみんなが結果に導いてくれました。」
今永昇太から遡ること52年前、ホエールズ最後のノーヒットノーランを達成したのは、今永と同じ背番号「21」を背負った左腕であった。
ただ、今永のようにエース格ではない、27歳でプロわずか3勝、本当に何者でもない一投手であった。
無名の左腕・鬼頭洋、大学中退で大洋ホエールズへ、背番号21
鬼頭洋は1943年4月18日、三重県伊勢市に生まれた。
名古屋商科大学附属高から名古屋商科大学(中退)を経て、1965年、大洋ホエールズに入団した。
三原脩率いる大洋ホエールズは1960年、球団創設初の優勝と日本一に輝いたが、その後は優勝に手が届かず、1964年は終盤、首位・阪神タイガースとの直接対決2試合のうち、1勝すれば優勝であったが、2連敗で2位に終わった。
この年、左腕の鈴木隆が救援を中心にリーグトップの70試合に登板するなどフル回転したが、鈴木はその登板過多が祟り、翌1965年は登板が激減していた。
大洋にとって左腕投手の補強が急務であったところに、まだ大学生の鬼頭洋に白羽の矢が立てられた。
大洋のスカウトである藤井勇(元阪神、大洋)が、鬼頭が所属する名古屋商科大の野球部の別の投手を視察に来ていたところ、左腕の鬼頭が目に留まったのである。
鬼頭は中央では無名の存在であったが、大学2年春のリーグ戦で対南山大学戦で6回までパーフェクト、7回にヒットを打たれたものの、1試合17奪三振の記録を持つ逸材であった。
制球に難はあったが、速球と大きな掌を活かしたフォークボールが武器だった。
鬼頭の母親は大学を3年で中退してまでのプロ入りに反対したが、鬼頭は母を説得した。
球団から鬼頭に与えられた背番号「21」は期待の表れであった。
しかし、鬼頭のプロ生活のスタートは決して順風満帆ではなかった。
入団して最初の2年は一軍での登板はなかった。
プロ入り3年目、1967年6月にようやくプロ初登板を果たした。
その年の8月7日、対阪神タイガース戦(東京スタジアム)で5回2/3を無失点に抑え、プロ初勝利を挙げたが、先発ローテーションに食い込むことはできなかった。
プロ5年目、1969年の終盤、大洋が5年ぶりのAクラス入りを争っている10月9日、鬼頭は神宮でのアトムズ戦(現・東京ヤクルトスワローズ)で9回を投げ切り、2失点でプロ初完投勝利を挙げた。
この時、鬼頭はすでに26歳になっていた。
鬼頭はブルペンで調子がよくても、マウンドに上がると別人になると評されるほど、気が弱いとされ、本人もそれを克服できないでいたのである。
米国教育リーグ派遣で刺激、左腕一人で起用増も空回り
その年、1969年のオフ、大洋は米国の教育リーグに4選手を派遣した。
そのうちの一人が鬼頭であった。
鬼頭は「技術的には学ぶところはなかった」と言うが、本場・米国の野球に触れ、闘志を前面に押し出す選手たちの態度が刺激になった。
また、自分を派遣してくれた球団に報いなければならないという気持ちが強くなった。
1970年のシーズン、大洋の投手陣に左腕が鬼頭洋だけになったことが幸いした。
鬼頭は開幕3戦目の先発として起用された。
しかし、2試合連続でKOされ、すぐさま中継ぎに配置転換となる。
5月17日の中日戦、ロングリリーフでようやくシーズン初勝利を挙げた。
5月26日、先発に復帰、阪神・江夏豊と投げ合ったが、7回2失点に抑えながら敗戦投手。
翌々日の5月28日にも阪神戦で先発したが、5回3失点でまたも敗戦投手になり、また先発ローテーションから外された。
後に鬼頭はこの頃の心境をこう語っていた。
「監督、コーチに信頼されるピッチングをしようと心がけました。シーズン初めがパッとしなくて、気持ちばかりがあせって、それについていけず、カラ回りの状態だったです。」
入団5年でわずか3勝の左腕、前日に先発を言い渡され、神宮のマウンドへ
6月8日、チームが北海道遠征から東京へ帰る飛行機の中で、鬼頭は別当薫監督から翌日6月9日の神宮球場でのヤクルトアトムズ戦での先発を言い渡された。
しかし、鬼頭は半信半疑であった。
「本当に先発で投げさせてもらえるのだろうか・・・」
翌日の試合前、投手コーチの鈴木隆に呼び止められた。
かつて、鬼頭のチームメートで先輩格の左腕でもあった鈴木は鬼頭にこう言った。
「今度、変なピッチングしたらファームに落とすぞ」
これまでの鬼頭なら、「脅し」に萎縮するところだが、この日は気が引き締まった。
鬼頭にとって幸いしたのはこの日の対戦はリーグ最下位のヤクルトであったことだ。
しかも、神宮球場でのアトムズ戦は、前年、鬼頭がプロ初完投勝利を挙げた球場・対戦相手だ。
鬼頭は初回から慎重に行こうと決めた。
鬼頭は初回、ヤクルト打線を迎え、1番・福富邦夫、2番・東条文博、3番・武上四郎を3人で片づけると、2回は4番のデーブ・ロバーツ、5番・宮原務本を打ち取り、2死走者なしから6番の加藤俊夫に四球を与えたが、7番・溜池を打ち取って後続を断った。
3回も8番・大矢明彦、9番・外山義明、1番・福富を押さえて三者凡退。
4回は一死から3番・武上に四球を与えたが、4番のロバーツ、5番の宮原を打ち取った。
5回・6回は、三者凡退に抑えた。
この日、鬼頭の直球はコーナーに決まり、左打者には外角に逃げるシュート、内角に鋭く曲がるカーブで翻弄した。
しかし、味方の大洋打線も、ヤクルト先発の外山義明、2番手の藤原真から得点を奪えず、6回まで3安打に抑えられていた。
6回を終わり0-0。
鬼頭は7回のマウンドに上がると、神宮のスタンドの観客のざわめきが鬼頭の耳にも届いた。
「ノーヒットノーランを意識した」という。
しかし、意識した途端、先頭の3番・武上四郎にこの日、2つ目の四球を与えた。
迎えるは4番のロバーツ。
鬼頭はロバーツをサードゴロに打ち取ったが、武上は二塁に進む。
ここで6番・大塚徹。左腕の鬼頭は右の大塚をファームの頃から苦手にしていた。
前年、プロ初完投勝利を挙げた対戦でも2安打を許していた。
鬼頭はカウント2-2から大塚をサードゴロに打ち取った。
苦手の大塚を打ち取ったことで、さらに「その気」になった。
早稲田の近藤昭仁が、慶應の藤原真から先制タイムリーで援護
その裏の7回裏、大洋打線がついに、鬼頭の頑張りに応えた。
四球で歩いた松原を二塁に進め、2死二塁の場面で8番の近藤昭仁が打席に入った。
早稲田大学から大洋ホエールズに入団し、新人から背番号「1」を背負う近藤昭は1960年の島田源太郎、1966年の佐々木勉が完全試合を達成した試合でいずれも先発出場していた。
だが、1966年の試合で近藤は「2番・セカンド」で先発出場しながら、チャンスで廻った2打席目、早稲田大学の先輩である三原脩監督は早くも近藤に代打を送った。
その場面が近藤の脳裏によぎったかは定かでないが、対戦する投手は藤原真。
藤原は慶応義塾大学から社会人を経て1968年、ヤクルトにドラフト1位で入団した2年目の投手だ。
舞台は神宮球場。
早稲田大学出身の近藤が、慶應の若造に負けるわけにはいかない。
藤原は7歳上の近藤の雰囲気にのまれたのか、投じたシュートが甘く真ん中に入ったのを、近藤は逃さなかった。
近藤が叩いた打球は三遊間に飛び、その間に二塁走者の松原がホームを踏んだ。
貴重な援護をもらった鬼頭は8回、一転して直球で押す投球に切り替えた。
7番・溜池、8番・大矢を打ち取り、そして代打・久代義明をこの日、2個目の三振に斬って取った。
アトムズ・別所毅彦監督、ノーノ―阻止の「代打攻勢」で”勇み足”
そして9回、鬼頭はプロに入って2度目となる最終回のマウンドに向かった。
ヤクルトベンチにいる別所毅彦監督は自らも投手としてノーヒットノーランを達成しているが、食らうわけにはいかない。
別所は代打攻勢に打って出た。
まず先頭の代打・城戸則文を送ったが、鬼頭は城戸から三振を奪った。
「あと二人」
鬼頭は自らに言い聞かせた。
続いて2番・東条に代わり、別所監督が送ったのは代打・丸山完二。
ノーヒットノーランをなんとしてでも避けたい別所監督だったが、これは勇み足だった。
俊足の東条はこの年の開幕からレギュラーに定着し、これまで全試合出場をしていたが、鬼頭はファーム時代、コツコツと当ててくる東條を苦手としていた。
だが、別所監督もそんなことは知る由もない。
(東条はこの年、130試合全試合出場を果たし、自身初の盗塁王を獲得した)
代打・丸山の当たりはファーストゴロ。これが高いバウンドになった。
一塁手の中塚政幸がゴロを掴むと、鬼頭はベースカバーのために一塁にダッシュ。
丸山は30歳になっていたが、若い頃は俊足で鳴らしていた。
鬼頭は中塚からトスを受け、必死の形相で一塁ベースに走り込んだ。
間一髪、鬼頭の足が、丸山の足に勝った。
これで2死。
残る関門は、今日、2四球を与えている3番・武上四郎だ。
武上は「ケンカ四郎」の異名をとる男で、前年21本塁打を放ち、今季もここまでチーム唯一の打率3割超えを記録していた。
鬼頭がこの日、投じた113球目、右打席の武上はコンパクトに捉えた。
打球は再び、一塁方向へ。
しかも、今度はライナー。
しかし、次の瞬間、武上の打球は一塁手・中塚のミットに収まっていた。
ノーヒットノーラン。
NPB史上18人目、20度目の快挙をやってのけた気弱な27歳の若武者に笑顔はなかった。
嬉しいというより安堵のほうが大きかった。
試合後、鬼頭は興奮醒めやらない様子で、
「大事なときポカばかりやってましたのでこの試合に先発させてくれた監督さん(別当薫)に感謝してます。」と言った。
試合前に「脅し」をかけた鈴木コーチは「これで自信をも持ってくれたら」と期待を込めた。
ノーヒットノーラン達成から別人のような活躍でオールスターへ
その期待通り、鬼頭は先発ローテーションの柱となった。
鬼頭はそれまで1勝5敗だったが、この日を境にオールスターまで6勝1敗と別人に生まれ変わったように好投した。
そして、鬼頭は監督推薦でオールスターゲームにも選出された。
つい1か月前まで、ファームに落とされることに慄いていた投手が夢舞台に立つことになったのである。
それを自ら祝うように鬼頭は7月14日、川崎球場での中日ドラゴンズ戦で被安打4、無失点に抑え、自身2度目の完封勝利を挙げた。
そのシーズン、鬼頭は終わってみれば、13勝(12敗)を挙げ、リーグ最多勝を獲得した平松政次の25勝に次ぎ、山下律夫と並んでチーム2位タイの勝ち星を挙げた。
翌1971年、鬼頭は先発ローテーションに入り、リーグ10位の防御率2.42の成績を残したものの、打線の援護に恵まれず、7勝12敗に終わった。
1972年も先発要員ではあったが、わずか3勝。
小山正明の交換相手でロッテへ、1年で出戻り、解雇
1972年オフ、大洋は、ロッテの39歳の大ベテラン、通算316勝の小山正明の獲得を画策し、その交換要員に選ばれたのが22歳の外野手・安田泰一と29歳の鬼頭であった。
鬼頭はロッテでも中継ぎ中心に登板したが精彩を欠き、1年で大洋に出戻った。
1974年はわずか1勝に終わると、1975年は開幕前に左肘痛となり、結局、一軍登板はなかった。
そして、その年のオフ、鬼頭は整理通告を受けた。
このオフ、就任したばかりの秋山登・新監督は一部の主力選手をトレード要員に挙げたが、中部オーナーの猛反対にあい、やむなく年俸の高い鬼頭らを構想外にするということで決まった。
球団の一方的な解雇通告に、鬼頭は絞り出した。
「年俸ダウンを覚悟で契約の話かと思ってきたら、いきなり解雇通告。何と答えたらいいかわからなかった。春先のオープン戦で左肘をまたこわし、ほとんど戦力にならなかったから、ひょっとしたらーと思ったことはあった。でもまだ投げられる自信はあったので、そんな気持ちを強く否定して来年にかけていたんです」
プロ初勝利から8年、ノーヒットノーランからわずか5年後の出来事であった。
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