NPB2021年オールスターゲームで、初の「申告敬遠」~過去の敬遠四球は?(その1)

NPBの2021年のオールスターゲームは、様々な「事件」が起きた。

第1戦、4-4の同点で迎えた9回表、全パシフィックのマウンドには益田直也(ロッテ)が上がった。一方、全セントラルの攻撃はゼラス・ウィーラー、坂本勇人(巨人)の連続ヒットで、無死一、二塁のチャンスをつくった。ここで、打者は中村悠平(ヤクルト)。
中村悠平はなんと、犠牲バントを決めた。
次打者の近本光司(阪神)は2019年から今年のオールスターゲームに懸けて、7打席連続安打を放っており、願ってもない勝ち越しのチャンスを迎えた。
だが、全パの工藤公康監督は主審に、近本を「申告敬遠」すると告げた。
NPBに「申告敬遠」の制度が導入されて以来、オールスターゲームで「申告敬遠」が使われたのは、これが初めてのケースとなった。
続く打者は佐野恵太(DeNA)だったが、佐野は三振に倒れる。
しかし、続く中野(阪神)が益田から押し出し四球を選び、全セは1点を勝ち越し、そのまま逃げ切った。

NPBのオールスターゲームで、「犠牲バント」が記録されるのは、1991年の第2戦(広島市民球場)で、パ・リーグの伊東勤(西武)が記録して以来で、一方、「敬遠四球」が記録されるのは、1998年の第2戦(千葉マリンスタジアム)で、パ・リーグの高木大成(西武)が記録して以来である。

では、過去のオールスターゲームで、「敬遠四球」はどのような場面で起きたのか、振り返ってみたい。



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①1963年7月24日 第3戦 神宮球場  張本勲(東映)

5-5で迎えた9回裏、全セの投手は阪神の2枚エースの一人、小山正明が2イニング目のマウンドに上がり、全パの攻撃は、大毎オリオンズの捕手、谷本稔から始まった。谷本はセンター前ヒットと口火を切ったが、続く、広瀬叔功(南海)はセンターフライで一死。続く、矢ノ浦国満(近鉄)はキャッチャーファウルフライに倒れ、二死一塁。ここで、ケント・ハドリ(南海)は小山を捕え、レフトオーバーの二塁打を放ち、二死二、三塁となった。
ここで迎える打者は、東映の張本勲。全セの藤本定義監督(阪神)はバッテリーに張本の敬遠を命じた。
これがNPBのオールスターゲーム初の「敬遠四球」となった。
続く打者は、大毎の4番打者、山内一弘。山内は「オールスター男」と言われるほど、オールスターゲームでは無類の勝負強さを発揮しており、1954年、1955年、1959年と計3度のMVPを受賞していた。場面は同点の二死満塁。もし、ここで山内がサヨナラの一打を放てば、自身4度目のオールスターゲームMVPとなる。ところが、ここは投手の小山が勝り、山内はレフトフライに倒れ、試合は延長にもつれ込んだ。

延長10回表、全パは久保征弘(近鉄)がマウンドに上がったが、全セは先頭の森昌彦(巨人)の二塁打でチャンスをつくると、古葉竹識(広島)の二塁打で勝ち越した。さらに、ここで全セの藤本定義監督は投手・小山に打席が廻ると「代打・金田正一(国鉄)」という奇手を繰り出した。
全パの水原茂監督も左の梶本隆夫(阪急)を投入した。左打席に入った金田はセカンドゴロを放ち、三塁走者が還ってさらに2点リードとなると、トドメは柴田勲のライトオーバーの三塁打で8-5となり、勝負あった。この後、藤井勇(阪神)の打席で、柴田がホームスチールを試みたが、アウトとなった。
全パの10回裏の攻撃は、全セの5番手、秋山登がマウンドに上がり、全パを三者凡退に抑え、ゲームセット。

オールスターの舞台でしのぎを削った、阪神のエース・小山正明と大毎の主砲・山内一弘であったが、そのオフ、思いもよらないサプライズが待っていた。
暮れも押し迫った12月下旬、阪神と大毎が、小山と山内の電撃トレードを発表したからだ。これは「エース」と「4番打者」による「世紀のトレード」と言われた。

②1965年7月21日 第3戦 平和台球場 ダリル・スペンサー(阪急)



第3戦は、全パの高倉照幸(西鉄)の先制ホームランで幕を開けたが、その後、全セ・全パの投手陣が踏ん張り、終盤まで1-0で進んだ。8回、全セは近藤昭仁(大洋)が、全パの3番手の田中調(東映)からソロホームランを放って、試合を1-1の振り出しに戻した。
そこから膠着状態が続き、延長戦に突入したが、それでも均衡は破れず14回まで進んだ。全パは14回裏の攻撃となり、全セの6番手、柿本実(中日)がマウンドに上がった。柿本は前日、西宮球場での第2戦でリリーフとして1イニング、15球を投げていたが、この日、延長戦が長引いたことで、柿本の地元・福岡市の平和台球場での登板のチャンスが廻ってきたのである。
ところが、柿本は先頭の土井正博(近鉄)に四球を与えてしまう。ここで全パの鶴岡一人監督(南海)は、山本八郎(近鉄)に送りバントを命じた。山本は東映から近鉄に移籍1年目でオールスターに2度目の選出をされたが、東映時代は開幕4番を打つほどの中距離打者であった。山本はファーストにきっちり犠牲バントを決め、一死二塁。
ここで打者はダリル・スペンサー(阪急)が打席に入った。スペンサーはこの試合の5日前、7月16日の近鉄戦(西京極球場)でNPB史上23人目となるサイクル安打を達成するほど、打撃好調であった。ここで、全セの藤本定義監督(阪神)は2年前と同様、敬遠四球という選択をした。次打者は吉沢岳男(近鉄)
吉沢は近鉄に移籍する前に中日に在籍していた捕手で、実は、1961年に1年だけ柿本とバッテリーを組んだことがあり、しかも、柿本のプロ初勝利(1961年9月21日の巨人戦)で先発マスクを被ったのは2年先輩の吉沢だった。
その後、柿本は1962年にシーズン20勝を挙げて大ブレイクを果たした。一方、吉沢は打撃があまり芳しくない捕手で、1959年には野手として47打席連続無安打という不名誉なセ・リーグ記録もつくっていたが、前の打席で全セの5番手、ジーン・バッキ―(阪神)からセンター前にヒットを放っていた。オールスターゲームの晴れ舞台の土壇場で「元バッテリー」対決となったが、いまや中日の大エースになった柿本の前に、吉沢はファーストゴロに倒れた。
続く打者は、前田益穂(東京オリオンズ)。前田はこの年、オールスター初出場だが、前々年の1963年まで在籍していたのはやはり中日で、しかも、前田が中日在籍時代の1962年9月16日のダブルヘッダー第2戦でサイクル安打を達成したときに、勝利投手になったのは、マウンド上の柿本実だった。柿本はその年、自身初の20勝を挙げており、前田のサイクル安打が、柿本の20勝をアシストしていたという、これまら「元同僚」同士の対決となった。
しかし、ここも柿本に軍配が上がり、前田はファーストフライに倒れると、延長14回、1-1の引き分けに終わった。柿本は地元開催のオールスターゲームでサヨナラ負けという不名誉な結果を回避することができた。

20勝、21勝、15勝と順風満帆だった柿本だが、この年は9勝どまりで、オフに阪急にトレードされ、1967年からは阪神に移籍するが、最優秀防御率、2年連続シーズン20勝を挙げた中日時代の輝きを取り戻すことはできず、地元で登板したオールスターが最後の選出となった。

一方、オールスターゲーム史上2度目となる敬遠をされたスペンサーは、この年、南海の野村克也と打撃主要3部門のタイトルを争ったが、南海のみならず、外国人選手にタイトルを獲らせまいとするパ・リーグチームの執拗な四球攻めに遭った。シーズン終盤を迎えた10月3日の南海戦で、スペンサーは敬遠四球で勝負を避ける南海に抗議の意を込めて、バットをさかさまに持って打席に入ったが、それでも敬遠された。さらに追い打ちをかけるように、スペンサーは交通事故に巻き込まれて欠場を余儀なくされ、結局、野村克也の三冠王を許すことになった。

③1968年7月25日 第3戦 西宮球場 デイブ・ロバーツ(サンケイ)

4-4の同点で迎えた延長11回表、全パのマウンドは、東映の若きエース、森安敏明、一方、全セの攻撃は、王貞治(巨人)から始まる好打順であった。王はファーストへの内野安打で出塁すると、続く打者は長嶋茂雄。
しかし、長嶋はピッチャーゴロ、江藤慎一もピッチャーフライに倒れ、二死となった。ここで打者はデイブ・ロバーツ(サンケイ)。ロバーツはMLBのピッツバーグ・パイレーツからサンケイに移籍2年目にして、オールスターゲーム前までにリーグ4位の20本塁打を放ち、監督推薦で選出された。
全パの西本幸雄監督は、ロバーツとの勝負を避けることを選択した。続く打者は一枝修平(中日)。一枝はプロ3年目の1966年、セ・リーグ遊撃手部門で初のベストナインに選出され、この年はファン投票2位であったが、ファン投票1位の黒江透修(巨人)を凌ぐ、9本塁打、33打点を挙げており、全セの川上哲治監督(巨人)は一枝を監督推薦で選出し、一枝は初のオールスター出場となった。
第1戦、第2戦、一枝は黒江を差し置いて先発出場したものの、1打席づつで途中交代したが、地元・大阪にほど近い西宮球場で第3戦も先発、第1打席についに待望のオールスター初ヒット、第4打席目もヒットを放って、フル出場を果たしていた。第5打席は同点となった9回2死に廻り、一打出れば勝ち越しのチャンスであったが、ここは鈴木啓示(近鉄)の前にピッチャーゴロに倒れた。
第6打席に入った一枝は、ここでタイムリーを放ち、塁上の同級生、王貞治を本塁に迎え入れることができれば、再びMVPを引き寄せることができる。
対する森安は岡山・関西高校から高卒で東映のドラフト1位指名を受け、プロ初登板・初先発・初完封勝利を挙げると、新人から3年連続で二桁勝利をマークし、3年連続でオールスターに選出されている、21歳のエースである。かくして、一枝がMVPを懸けた、森安との勝負はレフトフライに倒れ、全セは勝ち越しのチャンスが潰えた。
その裏、全セは島田源太郎(大洋)が2イニング目のマウンドに上がった。全パは一死後に、野村克也(南海)のレフトオーバーの二塁打でサヨナラのチャンスを迎えた。オールスターゲーム初指揮で2連敗の西本幸雄監督は、3連敗だけはどうしても避けたかった。全パのベンチに野手が残っていない中、鈍足の野村に替えて、苦肉の策で、第1戦に先発して3回を無失点に抑えた投手の池永正明(西鉄)を代走に送った。まさに総力戦である。
続く、基満男(西鉄)が三振で二死となったものの、小池兼司(南海)が打席に入った。
南海の遊撃手でレギュラーを張っていた小池はこの年、5年連続となるオールスターゲーム出場となった。この日は途中出場の7回に、一時、逆転となる3ランホームランを全セ・江夏豊(阪神)から放っていた。だが、その後、味方のエラーで同点に追いつかれ、一度は手中に収めかけたMVPが逃げていった。
守る全セからすれば、一塁が空いており、小池を歩かせるという選択肢もあったが、次打者の船田和英(西鉄)も、この日、ソロホームランとヒットを放っていることもあり、全セの川上哲治監督は動かなかった。
小池は島田のストレートを叩くと、打球は三遊間に飛び、それを追ったサード長嶋のグラブをかすめた。そのボールがセンター方向に転々とする中、代走の池永正明が小躍りしながら、サヨナラのホームイン。
この瞬間、小池にとっては2度目の「殊勲打」となって、3安打4打点、文句なしのMVPとなった。小池と一枝、二人の「遊撃手」の明暗はここに別れた。

この試合、森安は一枝のMVPを阻止し、一枝はMVPのチャンスを2度も逃し、小池は一度、逃したMVPを自分の手で取り戻したが、この3人が再びオールスターゲームに選出されることはなかった。

森安は、この試合でサヨナラのホームを踏んだ池永と共に、野球賭博に絡む八百長疑惑、「黒い霧事件」に連座したとして、1970年に永久追放処分を受けた。森安本人は無実を主張していたが、処分は解除されないまま、1998年に50歳の若さで亡くなった。
小池はこの年、自身唯一の全試合出場を果たしたが、その後、成績が下降、一枝はその後、近鉄、阪神と渡り歩くが、この年の打撃成績がピークで、最初で最後のオールスター出場となった。









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