阪神の「幻のエース」・中井悦雄

阪神タイガースの大卒3年目の投手、村上頌樹が今季開幕から25イニング連続無失点記録を継続中である。

今日、5月9日、甲子園球場での対東京ヤクルトスワローズ戦で先発しており、6回を無失点に抑えれば、セ・リーグタイ記録に並ぶ。

村上頌樹が追いかける記録を持つのは、同じタイガースの先輩にあたる中井悦雄である。

しかも、中井悦雄は今から50年前、1963年に、プロ初登板から31イニング連続無失点という前人未到の記録を持っている。

中井悦雄とはどんな投手だったのだろうか?

関西大を中退、阪神へ入団、背番号「18」を背負う

中井悦雄は1943年6月24日、大阪府に生まれた。
大鉄高校野球部では2年生の春にセンバツ大会に出場、1回戦でリリーフ登板を果たすが敗退。
その後、関西大学に進学するが、わずか1年で中退し、1963年に阪神タイガースに入団、背番号「18」を背負うことになる。
のちに名スカウトと言われる河西敏男が前年の藤井栄治に続き、関西大から入団させたのだ。
阪神は前年1962年に、二リーグ分立後初となるリーグ優勝を果たしたが、133試合のうち、エースの小山明が40試合に先発して27勝、村山実が38試合に先発して25勝と、チーム75勝のうち2/3を二人のエースに依存していた。翌1963年はその反動で開幕から波に乗れず、阪神は8月を終えて、首位・巨人から18ゲーム差の3位に沈んでいた。

一方、中井はウェスタン・リーグで20試合に登板すると13勝1敗、防御率1.17と無双し、最多勝、最優秀防御率、最高勝率の三冠を獲得した。

(「ウェスタンリーグでの投手三冠」は奇しくも、村山頌樹も2022年に達成している。)

すでに2連覇の望みが潰えていた阪神は、中井を一軍のマウンドで試すことにした。

鮮烈な一軍デビュー、プロ初先発で初完封勝利

中井はまず、9月7日、地元・甲子園球場での巨人戦にリリーフでプロ初登板を果たした。
阪神が0-4で迎えた9回表、敗色濃厚ではあったが、マウンドに上がった中井は、巨人の1番・柴田勲からの打順と対戦し、2番・広岡達郎、3番・王貞治から連続三振を奪った。

その後、大洋、巨人の2カードでは出番がなかったが、9月18日の甲子園球場での大洋ホエールズ戦、ダブルヘッダーの第2試合目に、中井に登板のチャンスが巡ってきた。

阪神が1-2の1点ビハインドで迎えた8回表、中井はマウンドへ送られると、4番・桑田武から始まる大洋打線に対し、無失点に抑えた。
8回裏に打順が廻ったが中井はそのまま打席に立ち、プロ初打席で、大洋の島田源太郎からヒットを放って見せた。

中井は9回表もマウンドへ上がると無失点で切り抜け、2イニングを投げ、1四球だけの無安打・無失点に抑えた。
すると、阪神打線が中井の好投に応え、4番・遠井吾郎がサヨナラ2ランホームランを放った。
チームがサヨナラ勝ちしたため、中井はプロ2試合目にして初勝利を挙げた。

すると、翌9月19日の大洋ホエールズ戦(甲子園)ではプロ初先発のマウンドに上がることになった。
阪神は2回、マイク・ソロムコが先制となるソロホームランを放つと、中井はそのわずか1点の援護を守り切った。
9回を投げ切り、被安打8本を浴びたものの、長打は二塁打1本だけで、3奪三振、四球1でプロ初完封勝利を挙げたのである。
しかも、打っても3打席に立って、2打数2安打と非凡なセンスを見せつけた。

試合後、記者に囲まれた中井はこう語った。
「おかげさまで、初めて勝利投手になった気持ちです」
「1点差だけにほんとうに苦しかった。からだはなんともないが精神がグタグタですよ。きょうはシュートがよく決まり、大洋さんがそれを打ってくれたからよかったのでしょう。」
「先発は前日に言い渡されましたが、きょう(藤本定義)監督さんから投手は6人、用意してあるからと聞かされ気が楽でした」

大エース・金田正一に投げ勝ち、2試合連続完封勝利

続いて中井は9月24日、甲子園球場での国鉄スワローズ戦、ダブルヘッダー第2戦でも中4日で先発を言い渡され、国鉄の大エース・金田正一と投げ合うことになった。
この年、金田は30歳を迎えていたが、チーム52勝のうち、すでに27勝を挙げ、自身6年ぶりのシーズン30勝の大台を目指していた。
阪神打線は金田を得意とする1番・吉田義男のソロホームランなどで2点を奪うと、一方の中井は国鉄打線に失点を与えない。
そして、先にマウンドを降りたのは金田のほうだった。
結局、中井はこの試合も、最後まで投げ切り、被安打7ながら長打は3番・徳武定之の二塁打1本だけに封じ、四球も4番・豊田泰光に1つ与えただけでまた無失点に抑えた。
これで2試合連続完封勝利だ。
中井は9月7日に甲子園球場でのマウンドに上がってから、かれこれ19イニング、まだ1点も失っていなかった。

プロ初先発から3試合連続完封勝利で中日のリーグ優勝の望みを砕く

さらに中井はそれから中4日、9月29日に行われた中日球場での中日ドラゴンズ戦、初めて敵地のマウンドに上がった。
中日はこの日のダブルヘッダーの第1試合前まで、首位・巨人と1.5ゲーム差の2位につけており、中日が2連勝して、巨人が敗れれば、首位が入れ替わるという大事な試合であった。

第1試合、阪神はエースの小山正明が先発すると、中日打線を7回までゼロに封じ、阪神の打撃陣が8回に0-0の均衡を破って一挙4点を挙げ、4-0で逃げ切った。

第2試合、中井が先発のマウンドに上がった。
中日の先発は門岡信行。中井とは同い年の20歳だが、高卒で入団した門岡は前年、新人ながら当時、新人記録となる53試合に登板、先発・リリーフと獅子奮迅の働きで10勝をマークしていた。
プロでの実績は門岡のほうが上である。
しかし、門岡はこの年、右肩を痛めており、シーズン未勝利と精彩を欠いていた。
門岡は3回、阪神打線に掴まり、3回途中、3失点でマウンドを降りた。
中日2番手の板東英二も4回に2点を失い、0-5となった。
一方、勢いに乗る中井だったが、この日は序盤から制球が定まらず、毎回のように走者を背負った。
そして、中井は勝利投手の権利が懸かった5回裏、最大のピンチを迎えた。
6番・河野旭輝にヒットを許し、二死まで来たものの、制球を乱し、続く9番・投手の板東に四球、1番の中利夫にも連続四球を与え、二死満塁。
ここで迎えるのは2番・高木守道。
フルカウントまで粘られたが、高木をショートゴロに打ち取った。

中日打線はここから反撃の糸口すらつかめなくなり、中井の前に凡打を繰り返した。
中井は終わってみれば、5四球を与えながら、被安打は河野旭輝に許した単打2本のみで長打はゼロ、またも無失点に抑えた。
これで中井は、新人ながらプロ初先発から3試合連続で完封勝利をマークした。
しかも、デビューから30イニング、ホームを踏ませていない。


中日の4番・江藤慎一は4打数ノーヒットに抑えられ、試合後、こう語った。
「(中井は)こわいもの知らずですよ。1-2(1ストライク2ボール)とか0-1(ノーストライク1ボール)と不利なカウントから、平気でど真ん中へ投げ込んでくる」

中日はダブルヘッダーで痛い星を落とし、巨人とのゲーム差は4に拡がった。中日の残り試合は17となり、巨人との直接対決は7試合あったが、ほぼ勝負あったと言ってよかった。

中日のリーグ優勝の夢にトドメを刺した阪神であったが、自身もAクラスを確保するのがやっとであった。
一方、10月15日、巨人が2位・中日との直接対決を制して、2年ぶりのリーグ優勝を決めた。

デビューからの連続無失点記録、「31イニング」で止まる

中井は間を置いて、10月17日、広島市民球場での広島カープ戦、ダブルヘッダー第1戦に先発した。
中井は4試合連続完封を狙ったが、その夢は早々に潰えた。
2回裏、5番の藤井弘にソロホームランを浴びた。
これで中井のプロ初登板から31イニング連続無失点がストップした。

金田正一が1958年に日本記録となる64回1/3連続無失点を継続していた際も、5月27日の広島市民球場での対戦でホームランで阻止したのは藤井弘であった。

阪神は4回表、3点を取って逆転に成功した。
ところが、中井は勝利投手の権利を手にする目前、5回表、打順が廻ると代打を出され、降板となった。
次の回からは、関大の先輩である村山昌史(村山実)にマウンドを譲った。
中井に勝ち負けはつかなかった。

翌日、朝刊のスポーツ欄でも、中井の、「デビューから31イニング連続無失点」という大記録は顧みられることはなかった。
前夜、南海ホークスの野村克也が大阪球場での近鉄バファローズ戦、最終打席でシーズン52号本塁打を放ち、小鶴誠(松竹ロビンス)の日本記録を破ったからだ。

中井はシーズン最終戦となった10月22日、中日球場での中日戦で、先発のマウンドに上がった。
阪神はすでにAクラス、3位を確定させていたが、69勝69敗で、この試合に勝てば勝率5割超えが懸かっていた。
中日が勝っても、順位に変動はないが、中日打線は前回の仕返しとばかり、中井に襲いかかった。
3回には投手の山中巽にヒットを打たれ、1番の高木守道にこの日、2本目となるヒットを浴びると、2番の中利夫には3ランホームラン、4番の江藤慎一にもソロホームランを食らい、中井は3回4失点で降板した。

阪神はそのまま0-6で敗れ、勝率5割を逃した。
中井もついに初黒星を喫し、デビューからの連勝も「4」で止まった。
中井はそのまま、4勝1敗、防御率1.22でシーズンを終えた。

わずか1か月半の活躍で、セ・リーグ新人王得票トップ

日本シリーズでは巨人が西鉄ライオンズを下し、2年ぶりの日本一を果たした。
シーズンオフに突入した11月8日、プロ野球コミッショナー事務局が1963年度のセ・パ両リーグの最優秀選手と新人王を発表した。

MVPにセは巨人の長嶋茂雄、パは南海の野村克也、
最優秀新人は両リーグとも「該当者なし」と発表された。

実はセ・リーグでの新人王投票の169票のうち、中井はトップの得票数、59票を得ていたのだが、「該当者なし」が110票と過半数を大きく上回ったため、規定により受賞することはできなかった。
この年はセ・パともに他に目立ったルーキーがおらず、中井はわずか1か月半の活躍でこれだけ票を集めたことが、印象度が高さを物語っていたともいえる。

飛躍を狙った1964年、期待と誤算

さらに1か月後、1963年も終わろうかという師走に、阪神タイガースに大激震が走ることになる。
12月20日の午後 、 大毎オリオンズの名物オーナー・永田雅一が東京・京橋の大映本社にて記者会見し、大毎の主力である内野手の山内一弘と阪神のエース・小山正明とのトレードが成立したと発表したのである。

阪神は1962年のリーグ優勝の立役者、村山実と並ぶ二枚看板のエースの一人である小山正明を手放したのだ。
のちに「世紀のトレード」と評されるが、この裏には、700試合連続フルイニング出場の「元祖・鉄人」こと三宅秀史の目のケガによる長期離脱と新人投手・中井悦雄の台頭があったともいえる。

東京五輪の開催が予定されていた1964年、阪神はペナントの奪還に向けて開幕から比較的、好調なスタートを切った。

中井は開幕カード3戦目となる対広島戦の先発を任された。
このことが首脳陣から中井への期待の大きさを表していた。
しかし、中井は3回途中、2失点でマウンドを降りて、敗戦投手となった。
続く3月31日の国鉄戦でも先発した中井は初回に味方のエラーで2点を失うと、3回にピンチを招き、降板。
いつしか阪神の先発ローテーションは、村山実、ジーン・バッキー、そして新外国人のピーター・バーンサイドの3人が中心となり、中井の先発の機会は減っていった。

そして、中井のシーズン初勝利は4月30日の国鉄戦まで待たなければならなかった。
5月12日、中日球場での中日戦では先発したものの、1回、マーシャルに先制の2ランホームラン、4回には高木守道にソロホームランを浴び、この回限りでマウンドを降りた。

そして、この登板が中井にとってタイガースのユニフォームを着て最後の先発登板になるとは誰も思っても見なかっただろう。

投手生命を変えるアクシデントでリーグ優勝に貢献できず

この登板後、中井をアクシデントが襲う。
阪神電鉄・甲子園線の踏切を渡る途中、線路の上で載っていた自転車を転倒させて右肩を打撲したのだ。
この不慮のケガによって中井は長期離脱を余儀なくされることになる。

阪神はこの年、山内一弘の補強が当り、主に4番打者として31本塁打・94打点と長打力不足を埋め、投げてはバッキーがリーグトップとなる29勝という大車輪の活躍、またエースの村山実が22勝を挙げて復活したことにより、シーズン終盤、大洋ホエールズとのデッドヒートを制して、130試合目で優勝を決め、2年ぶりのセ・リーグ制覇を果たした。
しかし、前年終盤の活躍でおおいに期待された中井は80勝のうち、たった1勝分の貢献しかできなかった。

翌年1965年、中井は復帰後初となる登板を果たしたものの、登板はその1試合だけ。
リリーフとしても登板機会はなく、シーズン終了後、自由契約となった。
鮮烈なデビューを果たしてからわずか2年後の出来事であった。

その後、中井は翌1966年のシーズンオフに、阪神と再契約にこぎつける。
背番号は「46」。
背番号「18」は阪神の初代ドラフト1位であると投手・石床幹雄の手に渡っていた。
そして、再契約の喜びも束の間、中井は1967年、1968年と一軍で登板がないまま、オフに西鉄ライオンズにトレードとなった。
背番号は「19」。
阪神入団から6年、25歳になっていた。

「捨てる神あれば拾う神あり」西鉄ライオンズへの移籍

中井にとって新天地は、縁もゆかりもない福岡の地だった。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。
それでも、中井がリリーフとして登板する機会が増えた。
先発が崩れた後の第二先発やビハインドでの中継ぎという起用であったが、中井がこんなに出番を得たことは阪神時代にもなかった。
1969年のシーズン、31試合に登板し、0勝3敗、防御率3.75であったが、そのうち先発登板が2度あった。
8月12日、小倉球場での東急フライヤーズ戦では、中井は西鉄ライオンズ移籍後、初の先発マウンドに上がった。
1964年5月12日以来、実に5年ぶりの先発登板であった。
さらに8月28日、大阪球場での南海ホークス戦にも先発の機会に恵まれた。
6回途中まで2失点と好投したが、味方の援護がなく、5年ぶりの先発勝利はならなかった。

しかも、1969年のシーズン終盤、球史に残る大事件が露見し、西鉄ライオンズを襲う。
俗に言う「黒い霧事件」である。
これにより、西鉄ライオンズは主力選手が大量に離脱を余儀なくされた。
その中には、18勝を挙げたエース、池永正明も含まれていた。

「黒い霧事件」後の弱体化したチームを支え6年ぶりの勝利

西鉄は1969年のオフに、大投手・稲尾和久が現役引退し、監督に就任した。
稲尾監督にとっては「黒い霧事件」で弱体化したチームの再建という重い課題を託された船出であったが、皮肉にも中井にとっては追い風であった。

オフに背番号「11」に変更となった中井は、1970年のシーズンに入っても、開幕からリリーフで起用された。
中井はリリーフで好投を続けているうちに、首脳陣からの信用を増していった。

オールスターゲーム明けの7月25日、小倉球場での近鉄バファローズ戦、西鉄が2-3と1点ビハインドで迎えた8回に、中井が2番手としてマウンドに上がった。
中井が1回を無失点に抑えると、その裏、西鉄打線が一挙、3点を奪って逆転、そのまま勝利した。
中井にとって1964年4月30日以来、実に6年ぶりに味わう勝利の味であった。

そして、7月30日、阪急西宮球場での阪急ブレーブス戦で、このシーズンで初めて先発マウンドに上がった。
中井は4回1失点で降板し、勝ち負けはつかなかったものの、先発ローテーションの谷間を埋める好投だった。

8月18日、小倉球場で行われた近鉄戦、1-1で迎えた9回表二死から登板し、永淵洋三を抑えると、その裏、竹之内雅史が近鉄先発・鈴木啓二からサヨナラホームランを放ち、中井にシーズン2勝目が転がり込んだ。

さらに、8月29日、阪急西宮球場で行われた対阪急ブレーブス戦で、中井は4回途中からリリーフし、7回に味方の2本のホームランで勝ち越すと、最後まで投げ抜き、3勝目を挙げた。
6年間も勝てなかった投手が、たった2週間で3勝も手にしたのである。

1970年のシーズン、終わってみれば、中井はリリーフとしてチームトップの41試合に登板、85回2/3を投げて防御率3.24とまずまずの成績を残した。
弱体化して最下位に沈んだライオンズの投手陣を支えた。

現役引退、コーチとして古巣復帰、突然の訃報

翌1971年のシーズンが始まると、西鉄は4月こそ勝ち越して、首位から1.5ゲーム差につけていたが、5月になると、投打ともにチーム力のなさが露呈し、11連敗を喫するなど、最下位に転落した。

このシーズンも、中井はリリーフとしてマウンドに立ち続けた。
28歳になって3日後の6月26日、地元・平和台球場でのロッテオリオンズ戦、4-2と2点リードの7回から場面でリリーフ登板し、代打・榎本喜八の一発だけに抑え、3回を投げ切った。
これが中井にとって現役最後の勝利であった。

8月26日、西京極球場での首位・阪急ブレーブス戦、0-4と4点ビハインドの3回から中井はマウンドに上がった。前日に続く連投だった。
阪急の4番・長池徳二、5番・森本潔は打ち取ったものの、エラーで出塁を許し、そこから連打を浴びた。
投手の山田久志にまでタイムリー二塁打を浴び、5失点KOされた。
この後、シーズン終了まで中井の出番はなかった。
シーズン終了と同時に、中井は28歳で現役を引退した。

野球界から一旦、離れて会社員生活を送っていた中井だが、1979年、古巣・阪神の二軍投手コーチ補佐として復帰を果たした。
ペナントレースも夏の甲子園大会で、和歌山・箕島高校が史上初の春夏連覇を果たしたまだ余韻が醒めぬ8月23日、またも中井を悲劇が襲う。
心不全で帰らぬ人となったのだ。享年36だった。

阪神の一軍は「死のロード」で東京に遠征中だったが、その日の夜、神宮球場で行われたヤクルトスワローズ戦を戦うと、阪神先発・江本孟紀が7回を3失点に抑え、9-6で勝利を収めた。
その2日後、しめやかに行われた葬儀では、選手を代表して江本を始め、藤田平、上田二朗が出席した。

野球の女神に翻弄された男

中井悦雄の現役時代の投手成績は109試合に登板し、9勝6敗。防御率3.33。なぜか、「3」と「3の倍数」に縁がある野球人生だった。
最初に背負った背番号は「18」、コーチとして背負った番号は「75」。
投手として3完投・3完封は最初の先発登板から3試合ですべて記録したものだ。
打者としてもプロ入りから3打数連続の3安打。
そして、デビューから31イニング連続無失点は60年間、いまだ破れられていない。

そこから、交通事故、自由契約、現役復帰、移籍、6年ぶりの勝利。
野球の女神に翻弄され、浮き沈みの多い、苦労に満ちた野球人生であった。







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