【訃報】三宅一生さん


世界を股にかけて活躍したファッションデザイナーの三宅一生さんが8月5日、東京都内の病院で亡くなった。
84歳であった。

三宅一生さんは1938年4月22日、広島県広島市に生まれた。
7歳の時に広島への原爆投下で被爆し、小学4年生のときに骨膜炎を発症、九死に一生を得たものの、母を失った。

10代の頃、美術部に所属した三宅さんは、丹下健三が設計した「広島平和記念公園」やイサム・ノグチが設計の「平和大橋」のデザインに感銘を受けた。
服飾の道に進むか、デザインの道に進むか迷った挙句、多摩美術大学に入学。
在学中から新人デザイナーを対象とした公募のファッションコンテストである「装苑賞」で佳作を続けて受賞し、プロのデザイナーとしての一歩を踏み出す契機となった。
1965年、パリに渡り、オートクチュールを学ぶが、滞在中に「五月革命」に出くわし、その後の創作のインスピレーションを受けることになった。
ギ・ラロッシュ、ジヴァンシーでアシスタントデザイナーを経て、1969年にはニューヨークに渡り、ジェフリー・ビーンのスタジオのデザイナーを務める。
帰国後、1970年に「三宅デザイン事務所」を設立した。
翌1971年にはニューヨークで自身初の海外コレクションを発表。
1973年には初めてパリコレクションに参加した。
三宅さんは、布地をできるだけ裁ち切らず、軽やかな仕立てで布と体の間の空間を生かす「一枚の布」というコンセプトを打ち出した。

このコンセプトは、三宅さんが1978年発表した"Issey Miyake East Meets West"で結実する。
その後、1993年に発表された代表作「プリーツ・プリーズ」は、「ますます働く女性が増える時代。活動的な服こそが必要だ」との信念のもとに、伸縮性に優れ、着る人の体型を選ばず、皺を気にせず気持ちよく身体にフィットすることを目指し、洗濯も簡単、アイロン掛けも不要、持ち運びも楽という機能性も相俟って、20か国を超える国々で売上が数百万枚を超える異例の大ヒットとなった。

その後の世界的な名声は語るまでもなかろう。

Apple創業者のスティーブ・ジョブスのトレードマークとなった、黒いタートルネックも、三宅さんの手によるものだ。
2009年には、米国大統領であったバラク・オバマがプラハで行った核廃絶に関するスピーチに触発され、海外のメディアに向けて、初めて自身の被爆の体験について語ることになった。
そしてオバマ大統領の広島訪問を呼びかけ、その甲斐もあって、実際にオバマ大統領は2016年に広島訪問を実現させている。

三宅一生、ダイエーホークスの新ユニフォームのデザインを手掛ける

三宅一生さんがこうした精力的な活動を続ける最中、1989年、あるプロ野球チームが、新しいユニフォームのデザインを三宅さんに依頼した。

それは新生・「福岡ダイエーホークス」である。

1988年のシーズン中である9月14日、南海ホークスの親会社である南海電鉄は、南海ホークスを国内小売大手のダイエーへ売却すると正式に発表した。
ホークスは住み慣れた大阪球場を後にし、新本拠地となる福岡へ向かった。
新本拠地は、かつて西鉄ライオンズ、太平洋クラブ、クラウンライターが使用していた、平和台球場となった。

福岡ダイエーホークスの誕生にあたり、文字通り、「チームカラー」の一新も急務となった。
それまでホークスは伝統的に、緑を基調としたユニフォームであった。
その新しいデザイン考案に白羽の矢を立てられたのが三宅一生さんである。


そして、当時のプロ野球ファンの度肝を抜いたのが、1988年12月、ダイエーホークスの新ユニフォームのお披露目会でのことだった。

ホークスの主力選手である佐々木誠、投手の加藤伸一が登場した。
佐々木がホーム用、加藤がビジター用の新ユニフォームを纏って、颯爽と現れた。

まず、新しいユニフォームのデザインカラーには、鷹の色をイメージするブラウンと、親会社であるダイエーのコーポレートカラーであるオレンジが採用された。
そして、ユニフォームの上下にはブラウンの縦縞が入った。
正確にいえば、「ダークグレイッシュブラウン」である。
そして、パンツの横、両腕の袖、そして首回りには、太いオレンジのラインが入っている。

しかし、佐々木が被って登場したヘルメットのデザインを見て、呆気に取られた。

それがあの「ガッチャマンヘルメット」である。

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鷹の頭をモチーフにしたデザイン。
ヘルメットの中心、眉間の上は、鷹の「くちばし」をあしらったレッド、頭頂部にかけてはホワイトだが、ヘルメットの両端、耳の上あたりには、鷹の鋭い目が描かれていた。
この奇抜なデザインが、1970年代に人気を博したテレビアニメ「科学忍者隊ガッチャマン」のコスチュームに似ていたことから、すぐさま「ガッチャマンヘルメット」の愛称がついたのである。

当時、このデザインを見た私は正直、「?」であった。
だが、後年、このデザインが三宅一生さんのものと知って、自分の美的センスのなさ、そして、クリエイティビティのなさを恥じ入ったものである。

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ダイエーホークスは福岡移転の初年度となった1989年には観客動員数が125万人と、ホークス史上、初めて100万人を超えることになった。
肝心な成績も、59勝64敗、借金5の4位だが、前年の5位から一つ順位を上げた。
この年を最後に、南海ホークス黄金時代を支えたエース・杉浦忠が監督を退いた。


1990年には新たな監督して田淵幸一を招聘したが、Bクラスを脱することができなかった。

その後、1993年に根本陸夫監督が就任し、新しいドーム球場である福岡ドームが誕生、本拠地を移すと同時に、このユニフォームも役目を終えた。

その後、ホークスは王貞治監督の下、1999年には福岡移転後、初のリーグ優勝と日本一を掴む。
翌2000年、日本シリーズで長嶋巨人との「ON対決」を実現させるなど、常勝軍団への道筋が見えてきたが、2004年オフ、経営不振に陥ったダイエーは、国内携帯電話大手のソフトバンクにホークス球団を譲渡することになる。
そして、ソフトバンクホークスは2010年以降、秋山幸二・工藤公康監督の下、リーグ優勝6回、日本一7回という黄金時代を迎える。

ソフトバンクは2014年8月、ヤフオクドームで主催する、かつて福岡を本拠地にしていた埼玉西武ライオンズ戦とのカードを「福岡クラシック2014」と銘打った。
そして、ダイエーホークスの初代ユニフォームを復刻させた。

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記者会見にノリノリで登場した内川聖一はこの「ガッチャマンヘルメット」を大いに気に入ったようだった(「ガッチャマン」と内川聖一のコラボグッズも販売された)。

内川はホークスのおひざ元ともいえる大分出身で、このヘルメットが登場した時はまだ小学校低学年であった。
「目が着いていますし、スゲエなと思って見ていました。
目が4つで、ボールがよく見えますね」
小学生ながら、このデザインの新奇性とクリエイティビティを見抜いていたようだ。


三宅一生さんは「デザイナーは賛否両論出るような仕事をしたいですね」と語っていた。
プロ野球界にも、「賛否両論」を巻き起こした、ダイエーホークスの「ガッチャマンヘルメット」は、時を経て、ホークスの歴史の1ページとなり、野球界にとっても大いなる遺産となりつつある。

三宅一生さん、安らかにお眠りください。


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