【訃報】広島カープOB・高橋里志さん(1)/自由契約→浪人→打撃投手から20勝した男


 南海ホークス、広島カープ、日本ハムファイターズ、近鉄バファローズで活躍した高橋里志さんが1月31日、肺がんのため、広島市内の病院で亡くなった。享年72であった。豪快なワインドアップから繰り出すシュートとフォークボール、チェンジアップを武器に、NPB実働17年で309試合に登板し、通算61勝61敗、防御率は4.44だった。

 1970年代後半の広島カープは、4年連続で「20勝投手」かつ「リーグ最多勝投手」を輩出した。NPBでは他に例がないが、そのしんがりを務めたのが高橋里志さんである。
 広島カープの歴史で、シーズン20勝を挙げた投手はこれまで10人いる。長谷川良平(3度)、備前喜夫、大石清(2度)、池田英俊、安仁屋宗八、金城基泰、外木場義郎(2度)、池谷公二郎、そして9人目となったのが高橋さんである(その後、10人目として北別府学)。そして、リーグ最多勝のタイトル獲得は11人おり、長谷川、金城、外木場、池谷、そして5人目が高橋さんである(その後、6人を輩出)。

 だが、他の20勝投手たちと異なるのは、高橋さんはカープ生え抜きではないところだ。さらに、高橋さんは最初に入団した南海を一度は自由契約になり、その後、浪人を経て打撃投手として入団した広島で現役に復帰し、シーズン20勝を挙げて最多勝のタイトルを手にしたのである。その後、日本ハムに移籍した高橋さんは、二度目の「復活」を遂げ、パ・リーグでは最優秀防御率のタイトルも獲得した。
 カープの選手には代々、「高橋」姓が多く、しかも、現役では左腕の高橋昂也が、高橋さんが背負った背番号「34」を継いでいる。数奇な運命に彩られた高橋里志さんの野球人生を振り返ってみたい。

 高橋里志は1948年、福井県敦賀市に生まれた。右腕の高橋は地元の敦賀工業高校でエースとなるも、甲子園には手が届かなかった。本人曰く、「プロ野球に入るとは考えてみたこともなかった。プロ入りするまでプロの試合を観たことがなかった」という。むしろ、将来の夢は外国航路の船員だった。
 高校卒業後の就職も決まり、野球からは足を洗うはずだったが、電電公社北陸(現在のNTT西日本)の野球部に誘われ、野球を続けることになった。社会人野球に進んだものの、投手として特に目立った活躍はなかったが、鶴岡一人監督が率いる南海ホークスが高橋に目をつけていた。高橋は社会人1年目で迎えた1967年のドラフト会議で南海から4位で指名を受けた。だが、1位指名の藤原真(慶応義塾大学)も3位の横山晴久(小倉工業)も入団拒否したため、2位指名の高卒で投手の西岡三四郎(洲本実業)に次いで、高橋は実質、ドラフト「2位」の扱いだった(10位は後に通算2055安打を記録する加藤秀司である)。
 鶴岡ホークスは1966年にリーグ優勝したものの、翌1967年には4位に沈んだ。この年、かつての黄金時代を支えたベテランの杉浦忠(5勝)はリリーフに廻り、皆川睦男(17勝)、渡辺泰輔(15勝)、合田栄蔵(12勝)の3人で実質、先発ローテーションを廻していた。新人の高橋に早速、出番は廻ってきた。1968年の開幕3戦目、ダブルヘッダーの第2試合で、先発したベテランの杉浦忠が初回で早々と降板し、3点ビハインドで迎えた5回、高橋里志がマウンドに上がった。しかし、プロの洗礼を浴び、2回3失点でマウンドを降りた。一方、2位の西岡は、8月に初登板で初先発の機会を与えられ、9月にはプロ初勝利を挙げた。高橋は結局、その年、一軍では2試合の登板に留まり、監督が鶴岡から飯田徳治に代わった翌1969年も、高橋の一軍での登板はリリーフだけのわずか2試合だった。ドラフト同期の西岡は2年目にシーズン10勝を挙げ、チームトップの防御率2.44をマークした。
 プロ3年目の高橋にようやく先発の機会が巡ってきた。野村克也がプレイングマネージャーに就任した1970年の5月28日、高橋は阪急ブレーブス戦に先発登板した。初回3点のリードをもらってマウンドに上がったが、阪急の強力打線につかまると、永池徳二と石井晶にそれぞれ一発を浴び、わずか1回4失点でマウンドを降りた。この年、高橋には3度の先発のチャンスを与えられたが,いずれも勝ち星を得られなかった。
 高橋はプロ4年目の1971年、リリーフでの登板の機会は増えたが、依然、勝ち星は遠かった。比較的、バッティングのよかった高橋はプロ初勝利より先に、プロ初ヒット・初打点を記録する有り様だった。そして、シーズン終盤、9月23日の近鉄バファローズ戦(大阪球場)、ダブルヘッダーの第1試合、6-6の同点で迎えた延長10回からリリーフし、無失点に抑えると、その裏、味方がサヨナラ勝ちしたことで、ようやくプロ初勝利を挙げた。だが、結局、その年はその1勝にとどまり、一方、同期の西岡はすでに3年連続で二けた勝利を挙げ、若きエースに育ちつつあった。
 高橋はプロ5年目の1972年、ファームで11勝を挙げて最多勝となり、飛躍のきっかけをつかみかけた。ところが、持ち前の向こうっ気の強さが災いした。ふとしたことで、選手兼監督の野村克也の逆鱗に触れてしまったのである。ある真夏の暑い日、高橋がファームで登板したにもかかわらず、コーチからは何のねぎらいもなかった。好投しても一軍に呼ばれない苛立ちもあり、頭に血が上った高橋は試合中にもかかわらず、勝手に球場を後にして帰途につこうとした。ところが、たまたま、ファームの試合を視察に来ていた野村に見つかり、その場で鉄拳制裁を受けた。野村が選手に手を上げたのは生涯、3度あり、高橋がその3度目であったという。これで高橋の命運は決まった。そのシーズンオフに、24歳で南海を自由契約となった。ドラフト同期の西岡は11勝を挙げ、4年連続で二けた勝利。16勝を挙げた江本孟紀に次ぐエースになっていた。
 野村は高橋に「おまえを他の球団に欲しいかと尋ねたが、どこの球団も手を挙げなかったんや」と説明した。

 もともとプロ野球に拘りのない高橋は、荷物をまとめて郷里の敦賀に帰った。そこからしばらく、いまでいう「ニート」として暮らしていた。自由契約から1年ほど経った頃、高橋のところに連絡が届いた。広島カープからの誘いだった。高橋が南海時代にコーチで在籍した古葉竹識がこの年からカープに復帰して、守備走塁コーチを務めていた。高橋は古葉にかわいがってもらっていた自負があった。それでてっきり、古葉からの誘いだと思っていたが、高橋が入団した後、古葉は「オレは知らん。オレがおまえを引っ張ったわけではない」と否定したという。高橋が社会人野球1年目に、目をつけていたのは南海以外に、実はカープのスカウトも狙っており、あと1年待って、ドラフトの指名をかけようかと検討していたという。
 カープで高橋に与えられた仕事は、打撃投手だった。だが、打撃投手として登板するうちに、制球力が身についていった。そして、シーズン途中で、投手として2年ぶりに現役に復帰し、久々の一軍のマウンドを踏んだ。
 翌1975年、カープはジョー・ルーツ監督が指揮を執ったが、球団フロントとの対立でわずか15試合で監督を辞任し、代わって、古葉が内部昇格でコーチから監督となった。それでもこの年、高橋に一軍登板のチャンスは与えられなかった。カープは球団創設初のリーグ優勝を果たしたが、先発ローテーションは外木場義郎(20勝)、池谷公二郎(18勝)、佐伯和司(15勝)の3人が中心となり、高橋はまだ全く蚊帳の外であった。
翌1976年、前年のリーグ優勝の反動からか、カープの一軍の先発陣に故障者が続出した。前年20勝の外木場義郎は右肩痛となり、高橋にチャンスが巡ってきた。7月29日の大洋ホエールズ戦、1点ビハインドの3回から3番手で登板すると、4回を無失点に抑えて、勝利投手になった。実にプロ初勝利以来となる、5年ぶりの勝利の味だった。その翌週の8月3日の阪神タイガース戦には5年ぶりとなる先発マウンドに登り、掛布雅之のソロホームラン一発に抑え、9回途中まで1失点と好投したが、勝ち負けはつかなかった。
 さらに、その翌週の8月7日、後楽園での巨人戦に先発した高橋は、同い年のエース、堀内恒夫と投げ合い、巨人打線を1失点に抑え、プロ初の完投勝利を記録した。そして、シーズン後半のわずか3か月で5試合を完投し、8勝をマークした。シュートとフォークボールが冴え、一昨年まで打撃投手だった男が、先発ローテーションを任されるようになったのである。
 1977年、カープの先発ローテーションはさらに苦しくなった。1975年のリーグ優勝をもたらした立役者の外木場は右肩痛が癒えず登板機会が激減し、前年10勝を挙げた佐伯は日本ハムに放出されていた。頼れるのは前年20勝で最多勝のタイトルを獲得した池谷公二郎と、高橋だけだった。
シーズン序盤、高橋は先発して好投しても打線の援護に恵まれず、6月終了時点まで6勝6敗と勝ち星も伸びなかったが、防御率は3.55とまずまずの成績だった。それで、オールスターゲームに全セントラルの指揮を執るジャイアンツ長嶋茂雄監督の推薦で初めて選出されたのである。
 7月26日、神宮球場で行われた第3戦、高橋の出番が来た。全セの先発の安田猛(ヤクルト)を継いで4回から二番手として登板した。全パから一死を取った後、代打の島谷金二(阪急)に手痛い一発を浴びた。そして迎えた打者は、浅からぬ因縁のある野村克也だった。あれから5年の月日が流れていた。一度はプロをクビになった自分がオールスターの晴れ舞台のマウンドに立っている。そして、自分をクビにした男がバッターボックスに立っている。高橋にしてみれば、野村との直接対決でリベンジのチャンスであったが、高橋は野村を四球で歩かせてしまった(結局、1回2/3を投げ、1失点に抑えた)。

 高橋は前年同様、夏場からエンジンがかかった。8月には中3日にもかかわらず、3連続完投勝利で自身初の二けた勝利に到達すると、8月20日の大洋戦では自身5連勝で13勝目を挙げ、セ・リーグのハーラーダービー、最多勝争いに名乗りを挙げた。
 優勝争いから脱落していたカープの古葉監督は、9月に入ってからも高橋をさらに積極的に起用した。高橋は先発の合間にリリーフもこなし、9月だけで先発で6試合、救援で2試合に登板した。9月23日の地元・広島でのヤクルト戦では大量リードに守られ、一人で投げ抜くと、プロ10年目で初完封勝利を挙げ、ついに白星は17勝に達した。高橋の身体は疲労で限界に達しつつあったが、競馬の競走馬が出走前に足に塗られるような薬品を大量に身体に塗り、投げ続けたという。高橋は、自分は南海を追われ、一度、「死んだ身」だと思っていた。だから、この1年で壊れてもいい。高橋の腹は座っていた。
 10月12日の巨人戦で、高橋はロングリリーフで19勝目を挙げると、最多勝争いのライバル、中日の星野仙一、鈴木孝政に1勝差をつけ、ついに高橋の「最多勝」が確定した。広島カープでは最多勝のタイトルを獲得した投手は過去に、4人しかいなかった。5年前に、南海を自由契約となり、1年の浪人、打撃投手を経て、ようやく掴んだ「勲章」だった。
 高橋はそれでもう満足していたが、監督の古葉はさらに中3日でのシーズン最終戦となる地元広島での大洋戦で、高橋に20勝目を狙わせようとした。1975年の外木場、1976年の金城、1977年の池谷と、カープは3年連続で「20勝投手」と「リーグ最多勝」を輩出していたことが、首脳陣の頭にあったのだろう。
 高橋は古葉の「親心」に応え、チーム130試合目、高橋自身、シーズン40試合目の先発マウンドに上がると、味方から早々に3点の援護をもらい、大洋打線を8回まで無失点に抑えた。9回、大洋の代打攻勢で2点を失ったが後続を締め、広島カープの投手としては10人目となるシーズン20勝を完投勝利で飾った。しかも、NPBで同一チームが4年連続で「20勝投手」と「リーグ最多勝」を輩出したケースは他にない。
 1977年のカープは最終戦でようやく51勝目(67敗)を挙げ、実にチームの4割の勝ち星を、高橋が独りで稼いでいた。しかもオールスター以降の後半3か月で13勝を荒稼ぎしたのである。先発40試合、投球回284回2/3はリーグトップで、被安打も与四球もリーグワースト。被本塁打42本は、同僚の池谷に次いでワースト2位だが、これはNPBのシーズン被本塁打記録でもワースト2位タイである。高橋は、20勝で最多勝を手にしたものの、14敗を喫し、沢村賞は18勝の小林繁(巨人)にさらわれた。まさに満身創痍のシーズンだった。

 高橋は南海、そして野村を見返してやるという気持ちが常に心にあった。
「何度もユニホームを脱ごうかと思ったが、南海を見返してやりたいというその一心でやってきた。オレみたいな投手でもやり方次第で20も勝てるんだということを証明できたのが嬉しい」
 高橋が18勝目を懸けて先発登板した巨人戦が行われていた9月28日の夜、古巣の南海ホークスでは、お家騒動が勃発していた。球団内で野村追放のクーデターが起きていたのである。
 プレイングマネージャーの野村はシーズン2試合を残して、突然、監督を解任された。南海をクビにされて新天地で20勝を挙げた投手と、南海を日本一に導いた挙句、電撃解任された監督。2か月前にオールスターの晴れ舞台で「再会」した二人の立場は、この5年で大きく変わったのだった。

 そして、高橋里志の運命を変えた男はもう一人、いた。それは不俱戴天の仇・野村とも大いなる関係を持つ男だった。
(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?