楽天の「累計538勝投手カルテット」が目指す「通算100勝投手カルテット」、過去の達成チームは?(その2)

 

 前回の記事では、東北楽天イーグルスの投手陣に今季、「累計通算538勝投手カルテット」が誕生したことを取り上げた。

田中将大(32歳):通算177勝(楽天99勝、ヤンキース78勝)
涌井秀章(34歳):通算144勝(西武85勝、ロッテ48勝、楽天11勝)
岸孝之(36歳): 通算132勝(西武103勝、楽天29勝)
則本昴大(30歳):通算85勝(楽天のみ)

 では、NPBで過去に、楽天の投手カルテットを上回る勝利数を挙げたカルテットや、「通算100勝投手カルテット」は存在したのだろうか? 

 第2回目では、NPB史上最強ともいえる「投手カルテット」を取り上げたい。

阪急ブレーブス(1971年、1972年)

 NPB史上、最強の投手陣を抱えたのは、1970年代前半の阪急ブレーブスだといってよい。

 1971年、西本幸雄監督が率いる阪急ブレーブスは9年目を迎え、ついに4度目となるリーグ優勝を80勝39敗(11分)という断トツの成績で果たした。そのうち、68勝を稼いだのが、梶本隆夫(1935年生、当時36歳)、米田哲也(1938年生、当時33歳)、石井茂雄(1939年生、当時32歳)、足立光宏(1940年生、当時31歳)、山田久志(1948年生、当時23歳)の5人である。

 この5人の1971年シーズン開幕当時の勝利数、その年の勝利数、シーズン終了時点の勝利数を順に並べると、


米田哲也 286勝+14勝= 300勝
梶本隆夫 243勝+6勝=  249勝
石井茂雄 131勝+7勝= 138勝
足立光宏 99勝+19勝= 118勝
山田久志 10勝+22勝=  32勝

 足立が1971年4月18日の西鉄ライオンズ戦(西宮)でシーズン初勝利を挙げ、通算100勝に到達したことで、米田、梶本、石井、足立の「通算100勝投手カルテット」が誕生した。しかも、1971年シーズン終了時点で、この4人だけでも累計805勝である。

 さらに特筆すべきは、これら4人の通算勝利は全て阪急ブレーブスの投手として挙げた勝ち星である。


 しかも、1971年のシーズンは山田がパ・リーグの最優秀防御率、リーグ2位に足立が入るなど、盤石の先発ローテーションを形成した。しかし、これだけの先発陣を以ってしても、4度目となる巨人との日本シリーズは4勝1敗でまたも敗れ去った。1勝1敗で迎えた第3戦に、1-0で完封寸前だった山田が9回裏2死から王貞治に逆転3ランホームランを浴びて、巨人がそこから3連勝したからである。


 翌1972年も、阪急は80勝48敗1分で、パ・リーグ連覇を果たした。


 前述の5人の1972年シーズン開幕当時の勝利数、その年の勝利数、シーズン終了時点の勝利数を順に並べると


米田哲也 300勝+10勝=310勝
梶本隆夫 249勝+2勝= 251勝
石井茂雄 138勝+5勝= 143勝
足立光宏 118勝+16勝= 134勝
山田久志  32勝+20勝= 52勝

 梶本、石井は二けた勝利を逃したが、米田は16年連続、足立は2年連続6度目、山田も3年連続の二けた勝利、しかも山田は2年連続の20勝を挙げた。
 山田を含めずに、通算100勝超えの4人の投手だけで累計838勝を数えた。


 しかしながら、日本シリーズに進んだ西本監督率いるブレーブスは、2年連続で巨人と戦ったが、またしても敗れ去った。巨人はこの年、シーズン26勝の堀内恒夫が初戦から先発とリリーフで4試合連続登板してMVPを獲得し、阪急は勢いを封じられた。
 それでも、この2年間は、阪急ブレーブスがチーム史上、もっとも強い投手陣を擁した時期と言ってよい。


 しかしながら、阪急屈指の「通算100勝カルテット」はこの年で解体された。石井茂雄が金銭トレードで、太平洋クラブライオンズに移籍したからである。


 パ・リーグに前期・後期制が導入された翌1973年、阪急は35歳の米田が復活の15勝、山田も15勝を挙げ、若手の戸田、水谷、竹村が台頭したが、退団した石井茂雄の穴は埋まらず、38歳の梶本も3勝止まり(この年限りで引退)で、後期優勝を果たしたものの、前期優勝の南海にプレーオフで敗れた。西本監督は自身2度目のリーグ3連覇を逃し、阪急の監督を辞任した(後任の監督は、コーチの上田利治が就任した。西本は辞任後即、近鉄バファローズの監督に就任した)。


 西本の阪急での11年間の監督生活のうち、5度のリーグ優勝をもたらしたのは、投手陣では生え抜きの米田哲也、梶本隆夫、石井茂雄、足立光宏の「通算100勝・累計800勝超カルテット」と、山田久志の活躍にあったといっても過言ではない。

 だが、西本はこの強力投手陣を以ってしても、日本シリーズで5度、挑んだ巨人に敗れ去った。西本幸雄が「悲運の名将」と呼ばれた所以でもあるが、阪急ブレースが上田利治監督の下、球団創設初の日本一に輝くのはその2年後の1975年、宿敵・巨人を破るのはその翌年の1976年である。

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