【1936年9月25日】巨人・沢村栄治、日本プロ野球最初のノーヒットノーラン達成


読売ジャイアンツの戸郷翔征が阪神甲子園球場でノーヒットノーランの偉業を達成した。

NPB公式戦でのノーヒットノーラン達成は通算101度目、89人目であるが、読売ジャイアンツの投手が甲子園球場で阪神タイガースを相手にノーヒットノーランを達成したのは、1936年の沢村栄治以来、88年ぶりの快挙である。

しかも、日本プロ野球最初のノーヒットノーランであった。
沢村栄治の快投を振り返ってみよう。

米国遠征帰りの巨人軍、1936年9月、「地獄の茂林寺」で生まれ変わる


1936年、東京巨人軍は米国遠征を終え、7月に「連盟結成記念第1回全日本野球選手権試合」に参加した。
この大会は7チームによるトーナメント戦で、東京、大阪、名古屋に分かれて開催されたが、米国遠征帰りの巨人は精細を欠き、終わってみれば2勝5敗という惨憺たる結果であった。
特に米国遠征で活躍した沢村栄治は全盛期の投球が失われ、かつ沢村は信頼を寄せていた初代監督・三宅大輔がチームを去り、阪急軍の初代監督に就任したことから、
「あの人(三宅)がおらんのなら、もう野球なんかやりとうない。一緒に阪急に行きたい気分や」
と言い放ったという。

そこで、藤本定義監督は巨人を立て直すため、一計を案じ、群馬県館林市の茂林寺に籠り、選手たちを鍛錬することにした。
これがいわゆる、「地獄の茂林寺」の特訓である。
茂林寺近くの分福球場で藤本定義監督、選手兼助監督の三原脩が、野手たちに「千本ノック」を浴びせるうちに、沢村ら反目していた投手陣も猛練習に加わるようになった。
この特訓によって巨人の選手たちは再び戦う集団へと生まれ変わった。

1936年秋、日本職業野球、初のリーグ戦開催

1936年9月、日本職業野球連盟が初めてとなる長期の公式戦を開催することになった。日本職業野球連盟に加盟する全7チームが参加し、現在のペナントレースとは異なり、東京、大阪、名古屋、兵庫に分かれ、リーグ戦とトーナメント戦が混在する6つの短期シリーズを開催、それぞれのシリーズでの優勝チームに勝ち点を与え、最終的に6つのシリーズで得た合計の勝ち点が最も多いチームを優勝とする、という規定であった。

9月18日、まずは阪神甲子園球場に職業野球7チームが集結し、総当たりのリーグ戦が開催されることになった。

その初戦、巨人は名古屋金鯱軍と対戦、先発に沢村栄治を立てると、沢村は名古屋金鯱軍打線を3安打散発、9奪三振で完封、4-0で快勝した。

続く9月23日に行われた第2戦、巨人は阪急軍と対戦した。
巨人は先発に前川八郎を立てたが、4回から沢村が救援登板した。
沢村は敬愛する三宅大輔率いる阪急軍に奮い立つと、強力な阪急打線に2点を奪われたが、次々と三振を奪った。
巨人は1-2と1点リードされた9回表、伊藤健太郎、前川八郎、林清一の3連続タイムリーで一挙3点を挙げ、4-2と勝ち越しに成功し、沢村が9回まで投げ切って勝利を挙げた。
沢村は6イニングを投げて、11奪三振と圧巻の投球であった。

翌日9月24日、巨人は対名古屋軍戦では青芝憲一、前川八郎の投手リレーで1-1の同点のまま延長戦に突入したが、延長10回に名古屋が勝ち越しの1点を挙げ、1-2と敗れた。

甲子園シリーズで、巨人とタイガースが激突

そして、9月25日、阪神甲子園球場で、シリーズ決勝戦となる巨人対タイガース戦が行われた。

タイガースはここまでの3試合、藤井勇、景浦将らが打棒を見せつけ、打率.342、32得点と圧倒的な打力を誇っていた。
投手陣も若林忠志、御園生崇男、投打二刀流の藤村富美男、景浦将と層が厚かった。

タイガース先発は若林忠志、巨人先発は沢村栄治。

ハワイ出身、28歳の若林忠志は多彩な変化球を駆使し、制球のよさで巨人打線を抑えると、一方、19歳の沢村栄治は自慢の剛速球と大きく曲がって落ちるドロップでタイガース打線をねじ伏せた。
二人の快投で、スコアボードには8回まで両チームともゼロが並んだ。
特に沢村は四球で走者を出すものの、タイガース打線にヒットすら許さなかった。
「投の沢村、打の景浦」と沢村とライバル関係にあったタイガースの5番・景浦将もこの日は沢村の前に2三振と奮わなかった。

0-0で迎えた9回表、巨人は若林から6番・伊藤健太郎が四球を選ぶと、7番・捕手の中山武がバントで送り、1死二塁。
ここで8番・投手の沢村が打った当たりはショートゴロ。
ところが、タイガースの遊撃手、名手・岡田宗芳が痛恨のエラーを犯し、巨人に1死一、三塁という願ってもないチャンスが訪れた。

ここで「9番・センター」の林清一に代わって、代打が告げられ、右打席に山本栄一郎が立った。

山本はこのとき、34歳と、巨人軍の選手の中はもっとも年長者であった。
巨人軍の総監督の浅沼誉夫は45歳であったが、実質的に初代監督を務めた32歳の藤本定義よりも年上であった。
山本は若手選手に技術を指導しつつ、控えのメンバーとして代打・守備固めという役割をこなしていた。

右打席に立った山本は若林の投球を右に流し打った。
これが一、二塁間を破り、三塁から伊藤が本塁に生還、1-0と巨人と沢村に貴重な先制点をもたらした。

9回裏、沢村はタイガース打線を2死と追い込む。
続く、4番の小島利男はレフトへの飛球を放った。
だが、殊勲のホームを踏んだ左翼手の伊藤健太郎のグラブに打球が吸い込まれ、ゲームセット。
沢村はタイガース打線から7奪三振、4四球を与えたが、ヒットは1本も許さなかった。

こうして巨人は職業野球連盟初のリーグ戦、甲子園シリーズを制して勝ち点1を得た。
そして、沢村栄治は日本プロ野球初の「無安打無得点試合」、ノーヒットノーランを達成した。

なお、この時、最後の打者となった小島は1950年に球界に復帰、西日本パイレーツで選手兼任監督となった。
1950年6月28日、青森市営球場で行われた巨人対西日本戦で、巨人の藤本英雄にプロ野球史上初の「完全試合」を許した時は、9回二死の場面で代打として出場、空振り三振し、またもや最後の打者となった。

1936年秋季大会は巨人とタイガースが洲崎球場3連戦で優勝決定戦


結局、1936年秋の大会は、巨人が勝ち点2.5点、タイガースも勝ち点2.5点を挙げて並んだため、12月9日、のちに伝説となる洲崎球場での3連戦に持ち込まれることになった。
初戦は巨人が先勝、2戦目はタイガースが勝ち、迎えた3戦目、またも沢村が3連投でタイガース打線に立ちはだかり、4-2で勝利を挙げ、巨人が初のリーグ優勝を手にした。

沢村栄治、3度のノーヒットノーラン達成

沢村栄治は翌1937年にも5月1日、洲崎球場で行われた対大阪タイガース戦で史上2度目のノーヒットノーランを達成した。

さらに1940年7月6日、阪急西宮球場での対名古屋軍戦で、自身3度目のノーヒットノーランを達成した(史上8度目)。

NPBでノーヒットノーランを3度、達成した投手は、沢村栄治と広島カープの外木場義郎だけである。


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