【1975年7月19日】「赤ヘル旋風」が生まれた日

今日7月19日は、何の日だろうか?

広島カープファンにとっては、「カープ黄金時代の幕開けの日」である。

これは比喩でもなんでもなく、一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された、立派な「記念日」だ。
広島県広島市に本社を置き、広島東洋カープ球団公認の出版物やその他、メディアプロデュースなどを手がける、株式会社ザメディアジョンが制定したという。

では、なぜ、「7月19日」が選ばれたのか?
カープが初めてリーグ優勝を決めた日(10月15日)でも、初めて日本一を決めた日(11月4日)でもない。
だが、「7月19日」にはちゃんと理由がある。


J・ルーツ監督誕生、チームカラーは「赤」へ

1974年の広島カープは3シーズン連続の最下位に沈んだ。
全日程終了後から1週間後、10月21日、カープ球団は森永勝也監督の辞任と、打撃コーチのジョー・ルーツの監督昇格を発表した。

ルーツは1925年、米国アイオワ州生まれで、兵役後、MLBではセントルイス・ブラウンズで内野手としてわずか14試合の出場に留まったが、現役引退後、様々なスポーツのコーチを経験すると、南イリノイ大学野球部のヘッドコーチとして、カレッジベースボールの頂点に立った。
その後、MLBのクリーブランド・インディアンス(現在のガーディアンズ)の打撃コーチを務めているときに、アリゾナキャンプで渡米していたカープを指導する機会があったことが縁となり、1974年からカープの打撃コーチに就任した。

NPB初の外国人監督として就任したルーツはファイティングスピリッツを前面に押し出した指導と共に、チームに様々な意識改革をもたらした。

広島のチームカラーはそれまで紺色だったが、「闘う色は『赤』だ」と言って、帽子とヘルメットを赤字に「C」のマークに変更させた。
衣笠祥雄は「当初はすごく嫌だった」と言い、赤いヘルメットをかぶることを拒否したという。

ルーツは選手も大幅に入れ替えた。メジャーリーガーで現役引退を決めていた元ロサンゼルス・ドジャースの野手、ゲイル・ホプキンス、セントルイス・カージナルスの現役メジャーリーガーであったリッチー・シェインブラム(登録名「シェーン」)、日本ハムから「闘将」こと俊足巧打の大下剛史を獲得した。
いずれも、ルーツが自ら選んだ選手だった。
前年ドラフト3位で獲得した、高卒ルーキーの高橋慶彦には投手から野手への転向、そして、スイッチヒッターへの転向を命じた。
それまで一塁手のレギュラーであった衣笠祥雄を三塁手へとコンバートした。

カープはこうして臨んだ1975年シーズン、開幕戦のヤクルト戦ではエースの外木場義郎を立て、ルーツは監督としての初陣を飾るなど、幸先のよいスタートを切ったように見えたが、カープを想定外の事態が襲った。

ルーツ、退陣、古葉監督へ

4月27日、ダブルヘッダーで行われた甲子園球場での阪神タイガース戦、第1試合、7回まで0-0と息詰まる投手戦となった8回裏、阪神の打者・掛布雅之に対して、カープ先発・佐伯和司が投じたボールへの判定を巡って、ルーツはダグアウトを飛び出し、線審に猛抗議した。
ルーツのあまりの剣幕に、審判団はルーツに退場を命じた。
ルーツはそれまでも、度々、審判の判定に食ってかかっていた。
これは、チームの選手たちを鼓舞するための、メジャー仕込みの「演技」でもあった。
だが、今回はルーツが「故意」なのか、本当に腹の虫がおさまらなかったのか、退場の命令に従おうとしない。
ついに広島球団代表・重松良典が甲子園のグラウンドに降りて、ルーツを説得する事態に発展した。だが、これが事態を最悪なものにした。
ルーツは第2試合の開始を前に、「自分はもう指揮を執らない」と告げて球場を後にしたのである。
ルーツは自らの監督としての指揮権を侵害されたというのがその理由だった。
球団代表の重松はこれまでルーツの主張を悉く取り入れてきたが、ついに信頼関係にヒビが入り、もはや修復不可能となった。

その2日後、4月29日、広島球団は遠征先の名古屋で記者会見を開き、ルーツが同席した上で退団が発表された。
後任には、39歳になったばかりの一軍守備走塁コーチの古葉竹識が就任することになった。
ルーツは、カープと日本のプロ野球に「嵐」を巻き起こし、ペナントレースわずか15試合(6勝8敗1分け)を指揮しただけで、故郷の米国へと帰って行った。

カープはルーツが退任直後、6連勝と波に乗りかけたが、5月を終えて20勝17敗。
6月は6連敗を喫したものの、2度の4連勝で勝ち越し、6月を終えて32勝26敗5引分けで一度は首位に立った。
だが、7月、オールスターゲーム前の前半戦終了時点で3位。
首位の中日まで2ゲーム差という位置につけていた。

昨年までカープの「指定席」だった最下位には、この年から指揮を執ることになった長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツが沈んでいた。

オールスターゲームで大躍動

カープ勢、5人選出

この年のオールスターゲームにはカープから5人の選手が選出された。
投手は監督推薦で、外木場義郎(6回目)、池谷公二郎(初)、野手ではファン投票で二塁手部門で大下剛史(5回目)、三塁手部門で衣笠祥雄(3回目)、外野手部門では山本浩二(3回目)がファン投票で選出された。

オールセントラルを率いるのは前年、川上巨人のV10を阻止した中日の与那嶺要監督。
その与那嶺監督は、甲子園での初戦、山本浩二をセの「3番・センター」に抜擢した。
山本浩二は地元・広島生まれ、法政大学出身の28歳でプロ7年目のシーズンを迎え、オールスターゲーム前までに打率.320、17本塁打。
同級生の衣笠も、打率.308、11本塁打と共にチームを牽引していた。
カープは5連敗で迎えた6月19日の試合から、古葉監督は山本を衣笠に代わって4番に抜擢していた。そこから10試合で7勝2敗1引き分けと、カープは吹き返し始めた。

オールスターゲーム第1戦、オールセントラルの4番・王貞治(巨人)、そして、法政大学時代の同級生である5番・田淵幸一(阪神)とクリーンアップを組んだ山本は初回、第1打席から、与那嶺監督の抜擢に応えた。
オールパシフィック先発の太田幸司(近鉄)は甲子園のアイドルであったが、この年は前半戦、好調で文句なしのファン投票で選出。
想い出の「聖地」に凱旋登板のはずであった。
しかし、大田は先頭の若松勉(ヤクルト)にセンター前ヒット、2番の藤田平(阪神)にライトオーバーの三塁打を浴びて、いきなり失点。
そして、無死三塁で打席に入った山本は太田からレフトスタンドに突き刺さるホームランを放ったのである。

太田は4番・王をセカンドフライ、5番・田淵をサードゴロに打ち取ったところで、二死走者無しで迎えたのは6番の衣笠祥雄。
衣笠は「(山本)浩二が打ったから、オレも打っておかないと」と振り返るが、
太田が投じた高めのボール球を上からたたきつけると、ライナーになったグングン伸びた打球は、再びレフトスタンドへ。
衣笠が三塁を廻る時、三塁コーチャーボックスに立っていたのは憧れの長嶋茂雄だった。二人はがっちり握手を交わした。
あっという間に、4-0。

山本浩二、オールスター20年ぶりの2打席連発

これで終わらない。
2回裏、一死一、三塁で打席に立った山本は、今度はパ・リーグを代表するエース、下手投げの山田久志(阪急)と相まみえた。
すると、山本はまた甲子園のレフトスタンドにホームランを叩き込んだ。
オールスターでの2打席連発は1955年の西沢道夫(中日ドラゴンズ)以来、実に20年ぶりだった。

衣笠祥雄も2打席連発で、オールスター史上初の快挙


まだ終わらない。
山田は王をファーストフライ、田淵をセカンドフライに打ち取って、その回を凌いだが、
続く3回、山田が2イニング目のマウンドに上がると、迎えるは先頭打者の衣笠。
すると、今度は衣笠がまたレフトスタンドに2本目のソロホームランをたたき込んだのだ。
オールスターゲームで同じ試合で同じチームの2人が2打席連続本塁打を放ったのは史上初の快挙であった。

山本浩二はこの試合、4打数3安打、2本塁打・5打点の大活躍。
1試合9塁打は当時、オールスターでの最多タイ記録となった。
衣笠祥雄も4打数2安打、2本塁打・2打点。
投げても、先発の江夏豊(阪神)を受けて4回から登板した外木場義郎が3回を無失点、そして、最後は前年までカープに所属していた阪神の安仁屋宗八が同じく3回を無失点に抑えた。
試合は8-0でオールセントラルがオールパシフィックに圧勝した。
セントラルの8得点のうち7点は山本と衣笠がたたき出したものだったが、安打数と打点の差で、山本がMVPに輝いた。

ちょうど甲子園のスタンドにある放送席には、大阪・朝日放送(ABC)のゲスト解説者として、広島カープ元監督の根本陸夫が座っていた。
山本も衣笠も、根本が監督時代、ヘッドコーチの関根潤三と共に、時に厳しく、手塩に掛けて育てた選手たちだった。

そして、次の日、全国紙の朝刊のスポーツ欄には「赤ヘル旋風」「赤ヘル族猛威」の見出しが躍った。
「長嶋なき全セの新星」と山本浩二を評する新聞もあった。
まさにカープの選手たちの活躍を「全国区」に知らしめたのだった。

オールスター後、再び首位へ、悲願の初優勝

カープナインは、山本・衣笠の活躍で勇気をもらったのか、ペナントレースでも他のチームを圧倒し始めた。

カープは8月、13勝9敗と勝ち越し、8月下旬には再び首位に立った。
9月は4連勝と6連勝で、13勝3敗と大きく勝ち越した。
迎えた10月15日、後楽園球場での対巨人戦、1-0で迎えた9回、ルーツが三顧の礼で招聘したホプキンスがトドメとなる32号3ランホームランを放って、4-0で勝利。
広島カープは球団創設以来、26年目にして、ついに悲願のセ・リーグ初優勝を達成したのだった。

この試合で、先発した外木場義郎が1968年以来となる自身2度目の20勝に到達、同級生でドラフト1位コンビの池谷公二郎が18勝、佐伯和司が15勝。
そして、主砲の山本浩二は全130試合に出場して、打率.319で自身初のタイトルとなる首位打者、さらに30本塁打、84打点で、ベストナイン外野手部門、そして、シーズンMVPも掌中に収めたのであった。
ホプキンスもリーグ3位タイの33本塁打、リーグ2位の91打点とMVPに匹敵する活躍を見せ、衣笠も5年連続の全試合出場、打率.276、21本塁打、71打点で、それまで長嶋茂雄の指定席になっていた、セ・リーグのベストナイン・三塁手部門を初受賞した。
日本ハムから移籍した大下剛史もほぼリードオフマンとして常時出場し、44盗塁で自身初の盗塁王のタイトルを獲得、そしてベストナインとダイヤモンドグラブ賞の二塁手部門でダブル受賞を果たした。

日本シリーズは、元カープの上田利治が率いる阪急ブレーブスに0勝4敗2引き分けで敗れ、カープの悲願の日本一は1979年まで持ち越される。
だが、1975年は、まさに強い「赤ヘル」軍団が誕生したメモリアルな1年であった。

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