NPBオールスターゲームで「投手で代打」第1号:別所毅彦(巨人)

NPBの「マイナビオールスターゲーム2024」は大盛り上がりの2試合となった。

7月23日、エスコンフィールドHOKKAIDOで行われた第1戦、オールセントラルが5点リードの9回表、1死一塁の場面を迎えると、6番・指名打者、タイラー・オースティンに代わり、広島の左腕投手の床田寛樹が代打で起用された。
エスコンの場内はファンからのどよめきに包まれた。

左打席に入った床田はオールパシフィックで抑え投手部門でファン投票で選出された日本ハムのクローザー、右腕の田中正義と対戦、カウント1-1から3球目、155キロの直球を引っ張り、打球は一、二塁間を破り、ライト前ヒットとなった。
全セの指揮を任されていた阪神・岡田彰布監督も采配が見事、的中し、ベンチで手を叩いて喜んでいた。

床田は今季、本業の投手ではセ・リーグ単独トップの9勝を挙げており、さらに打席でも32打数6安打、打率.188と投手にしてはまずまずの成績を残している。

山﨑福也もオールスターゲーム史上初、「DHと投手」で同時出場

この試合、全パも、地元・日本ハムから先発投手部門でファン投票で選出された左腕・山崎福也が先発マウンドを任された上に「2番・DH」で出場し、第1打席で、レフト前安打を放っていた。
投手登録の選手がオールスターゲームでDHで出場するのは、2016年の第2戦、北海道日本ハムファイターズの大谷翔平が「5番・DH」で出場して以来、史上2人目であるが、DHと投手で同時出場は、山﨑福也が史上初である(但し、山崎は本業の投手では2回に1イニング9失点というオールスターゲームワースト記録をつくってしまった)。

オールスターゲームで「投手の代打出場」は史上10人目

NPBのオールスターゲームの長い歴史で、投手が代打で起用されたのは床田が10人目、14度目である。
最多は金田正一の3度(1963年、1968年、1969年)で、続いで梶本隆夫が2度(1965年、1968年)、大谷翔平も2度(2016年、2017年)、代打で出場している(ただし、2017年の大谷翔平は投手登録ながらDH部門で選出されている)。

そのうち、安打を記録したのは1968年の梶本隆夫(阪急ブレーブス)と金田正一(読売ジャイアンツ)以来、56年ぶり3人目の快挙であった。

では、NPBのオールスターゲームで投手でありながら代打で出場した選手の第1号は誰か?


1955年 第1戦 全セントラル 別所毅彦(読売ジャイアンツ)

NPBのオールスターゲーム第1回は2リーグ分立後の翌年、1951年にスタートしている。
巨人のエースであった別所毅彦は初年度の1951年から7年連続で選出されているが、第1回のファン投票でオールセントラルの投手部門で別所が選ばれおり、阪神甲子園球場で開催された記念すべき第1戦と、後楽園球場で行われた第2戦の先発を務めている。
さらに、翌1952年の第2回オールスターゲームでも第1戦、第2戦ともに全セントラルの先発投手として別所がマウンドに上がっている。

別所は打撃のよい投手として知られ、南海ホークス在籍時代には打撃の良さを買われて、外野手や一塁手として出場することもあった。
1946年には投手として42試合に登板、19勝を挙げ、打者としても打率.253、62安打、4本塁打、44打点と野手顔負けの成績を残しており、1948年にはシーズンで42試合に登板、防御率2.05、26勝を挙げ、最高勝率のタイトルを獲得する傍ら、打者としても打率.340、4本塁打、27打点をマークしていた。

1949年シーズン前に、「別所引き抜き事件」を経て、読売ジャイアンツに移籍し、投手専任になったものの、打棒は衰えず、1950年には防御率2.55、22勝とエース級の投球をしながら、打者としても打率.344、4本塁打、28打点を記録、1951年には投げては防御率2.45、21勝、打っては打率.244、6本塁打、12打点をマークするほどの「投打二刀流」であった。
別所が1951年のシーズンに放った6本塁打は、前年の1950年に巨人の投手・藤本英雄が放った7本塁打に次ぎ、1949年の中日・服部受弘と並んで長らくNPB歴代2位であった(国鉄スワローズの金田正一が1962年に2位タイ記録、日本ハムの大谷翔平が2014年に10本塁打、2016年に22本塁打で記録更新)

別所は晴れのオールスターゲームでは、1951年の第1戦、第2戦、1952年の第1戦、1953年の第1戦で打席に立ったものの、いずれも凡退しており、4打数ノーヒットであった。

1955年7月2日、大阪球場で行われたオールスターゲーム第1戦、全セントラルが0-1と1点ビハインドで迎えた8回表、1死走者なしの場面で、3番手の金田正一(国鉄スワローズ)に打順が廻ると、全セの水原茂監督は、代打に投手の別所を指名した。
全パの4番手の荒巻淳(毎日オリオンズ)との対戦となったが、ショートゴロに倒れた。その試合、別所は投手では登板せず、代わりに杉下茂(中日ドラゴンズ)がマウンドに上がった。
この年、1955年のシーズンに、別所は7月9日 から7月31日にかけて49回1/3連続イニング無失点という当時のセ・リーグ記録をマーク、終わってみれば、23勝8敗、防御率1.33で自身初の最優秀防御率のタイトルを獲得、8年ぶり2度目となる沢村栄治賞も受賞している。

別所は1956年にもファン投票で選出されたが、1956年の第1戦で先発したものの打席には立たず、1957年も7年連続となる選出となったが、登板の機会も打席に立つ機会もなく、これが最後のオールスター選出となった。

別所のオールスターゲームでの成績は投手として9試合に登板、うち6試合で先発し、1勝2敗、防御率2.25、打者としては5打数0安打であった。

結局、別所毅彦は1961年に現役引退するまで、公式戦では投手として662試合に登板、310勝178敗、防御率2.18という成績を残す傍ら、打者としても1972打数500安打、打率.254、35本塁打、248打点という記録を残している。

投手の通算打撃成績(安打、本塁打、打点、打率、OPS)


NPBで主に投手として活躍した選手の中で、別所の通算500安打は歴代トップで(2位はビクトル・スタルヒンの446安打)、通算35本塁打は金田正一の38本塁打に次いで2位、通算248打点はビクトル・スタルヒンの252打点に次いで2位、OPS.655もダントツの1位である。

なお、別所の投手としての通算被打率は.228であり、打者としての打率は.254であるため、打者としての打率が投手としての被打率を上回っている。
これは別所ともう一人、ビクトル・スタルヒンだけである。

スタルヒンは打者として通算打率.237であり、投手としての通算被打率.213を上回っている。

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