【訃報】古葉竹識さん/①1963年のオールスターゲーム

広島カープと大洋ホエールズで監督を務めた古葉竹識さんが亡くなった。
享年85だった。

古葉毅(その後、竹識に改名)は1936年、熊本に生まれ、地元で文武両道の名門、済々黌高校の野球部に進み、2年生の春のセンバツでは三塁手のレギュラーとして出場、ベスト8入りを果たした。
その後、専修大学に進むと、社会人野球の日鉄二瀬(福岡市)の濃人渉監督(のちに中日ドラゴンズ、大毎・ロッテオリオンズで監督を歴任)に見出され、1年で大学を中退して日鉄鉱業に入社。
日鉄二瀬の野球部で、のちに中日入りする江藤慎一らと都市対抗野球に2年連続で出場した。

古葉は濃人の推薦もあり、広島カープに入団した。1958年、入団1年目のオープン戦で白石勝巳監督から俊足功打が評価された。
新人ながら開幕1軍を掴むと、それまでの遊撃手のレギュラーだった阿南潤一(のちの阿南準郎)を追いやり、4月5日の開幕戦では「2番・ショート」のスタメン起用でプロ初出場を果たした。その年の8月下旬に、骨折で離脱を余儀なくされるまで、遊撃手のレギュラーとして88試合に出場した。
入団2年目からは、前年まで金山次郎が着けていた背番号「1」を継承し、規定打席に達すると、そこから3年連続でシーズン100安打に到達した。
プロ入り6年目、1963年のシーズンは、序盤から打率2割8分から2割9分前後と好調で、古葉はオールスターゲームに監督推薦で初めて選出された。
これが、古葉の野球人生のターニングポイントになる。

1963年のオールスターゲーム

1963年の夏、古葉毅はカープで同僚の内野手・興津立雄、外野手の大和田明と共に、オールスターゲームへの切符を手にした。
オールセントラルのチームに合流すると、コーチには同郷・熊本の英雄、「打撃の神様」こと川上哲治(巨人監督)がいた。
川上は同郷の後輩、古葉に声をかけた。だが、「打撃の神様」と呼ばれ、いまや巨人の監督である川上を前に、古葉は緊張のあまり、ろくに返事もできなかったという。
だが、古葉にとって心強かったのは同じベンチに、かつての日鉄二瀬の同僚、江藤慎一(中日)もいたことだ。
江藤は緊張する古葉に「炭鉱代表(日鉄二瀬のこと)として一発、頼むぜ」と発破を懸けた。江藤の言葉に古葉は大いに奮い立った。

後楽園球場で行われたオールスターゲーム第1戦、古葉は「7番・セカンド」で初めて、”球宴”の舞台に立った。
ファン投票で、セ・リーグ二塁手部門でトップの船田正英(巨人)を差し置いて、しかも、古葉にとって「本職」のショートではないセカンドで先発起用だった(ショートは豊田泰光(国鉄)が起用された)。
試合は9回表まで4-4の同点で進み、9回裏、全セの攻撃で、近藤和彦(大洋)が、全パの稲尾和久(西鉄)からオールスターゲーム初となるサヨナラホームランを放ち、全セが先勝した。
古葉はノーヒットに終わり、途中交代したが、盗塁を一つ、決めた。
まず一つ、爪痕を残した。

そして、翌日の第2戦は前年1962年に完成したばかりの東京スタジアム(東京球場)で行われた。古葉は「8番・セカンド」で2試合連続でスタメン出場。
試合は初回から全セが6点を先制し、その裏、全パが、狭い東京スタジアムを本拠地とする大毎の四番、榎本喜八の満塁ホームランで4点を奪い、さらに長嶋茂雄と王貞治のON砲が飛び出すなど、両チーム合わせて7本塁打と打ち合いとなったが、全セが11-9で逃げ切った。2連勝である。
古葉はというと、2試合目にして、待望のオールスターゲーム初ヒットを放ち、二塁打を含む2安打・2打点を挙げた。
壮絶な空中戦の中で、古葉の2安打はあまり目立たなかったかもしれなかった。
だが、古葉の「運」はここで終わらなかった。

古葉の野球人生を変えた「好守と好打」

この年は、翌年1964年に東京五輪の開催を控えていたこともあり、オールスターゲームは3年ぶりに3試合、行われることになっていたのである。
しかも、第3戦の舞台は、オールスターゲームでは初めて明治神宮球場が選ばれた。
神宮球場は東京六大学野球を始め学生野球の「聖地」であったが、前年の1962年から、東映フライヤーズが本拠地して使用を開始したからである。

7月23日に行われた第3戦、古葉はファン投票トップの船田正英にスタメンを譲ったが、8回から二塁の守備に入った。
古葉が籍を置いていた専修大学の野球部は東都大学リーグに所属しており、春秋のリーグ戦は神宮球場を使用していたが、古葉は1年で中退しているため、神宮でリーグ戦の試合に出場したのはたった2度だけだった。

試合は全セントラルが2-0と2点リードで迎えた8回、代打で登場したマーシャル(中日)の3ランホームランで5-0と突き放した。
これで勝負あったかと思われたが、8回裏、ついに全パシフィックの打棒が爆発した。
全パは全セの3番手・河村保彦(中日)を攻め、一死二、三塁のチャンスをつくると、張本勲(東映)のレフトへのタイムリー安打で1点を還す。
さらに、二死から二、三塁の場面で山内一弘(大毎)のレフトオーバーの3ランホームランで1点差に迫ると、続く、山本八郎(近鉄)が同じくレフトスタンドに叩き込んだ。
全パはこの回、張本のタイムリー安打、山内・山本の連続ホームランで、一挙5点を奪って同点に追いついたのである。
ここで全セの藤本定義監督(阪神)は堪らず4番手に自軍のエース、小山正明(阪神)を投入するが、さらに全パは二死から土井正博、小玉明利(ともに近鉄)が連続ヒットで、一、三塁のチャンスをつくる。
ここで打席に谷本稔(大毎)を迎えたところで、全パの水原茂監督(東映)が動いた。一塁走者の小玉がスタートを切って、二盗を試みる。
全セの捕手の森昌彦(巨人)は捕球するや否や素早く、立ち上がる。
だが、森は一瞬、三塁走者の土井を目で見て牽制してから二塁に送球したため、ボールが高めに浮いてしまった。
それを見た三塁走者・土井はホームに向かって絶好のスタートを切る。
絶妙なダブルスチールである。

全パの勝ち越しか、と思われた瞬間、セカンドの古葉が二塁のカバーに入る。そして、古葉は走りながら、森の送球をカットした。
古葉は左手でボールを掴むや、素早く右手に持ち替えた。
ジャンピングスローでバックホーム。
タイミングはセーフだったが、捕手の森が、滑り込んでくる土井のスパイクをブロックしてタッチ。判定は「アウト」。
スリーアウト・チェンジ。
これで全パは勝ち越しのチャンスを逃した。
試合後、「あれはセーフじゃないか」という外野の声に、森は「文句なしにアウト」と言い切った。
森と古葉、普段、同じチームでプレーしていない者同士にもかかわらず、土壇場で見せた見事な連携プレーだった。

全パは9回裏、再びマウンドに上がった小山正明を攻めて、二死満塁という好機をつくる。打席には、前の打席で3ランを放った山内一弘。
すると、山内は小山の投球を捕え、打球は再びレフトへ。
スタンドに向かって伸びていく。しかし、今度はスタンドまで届かず、左翼手の国松(巨人)のグラブに吸い込まれた。延長戦に突入である。

5-5の同点で迎えた10回表、全パのマウンドには久保征弘(近鉄)が上がった。全セの攻撃は、8回にナイスブロックで勝ち越しを防いだ森昌彦からだった。すると、森は久保の内角のスライダーを叩いて、ライト線に二塁打を放つ。試合後、森は「いい感じで打てた」と自賛した。
一死後、森が三塁に進むと、続く豊田泰光(国鉄)が四球を選び、一、三塁のチャンスとなる。
ここで、8回から途中出場の古葉がこの日、初めて打席へ立つ。
試合後、古葉は「(この打席は)最初から右を狙っていた」と語った。
古葉は久保が投じた内角へのシュートを叩いた。
古葉の打球はライトに向かって飛ぶ。そして、ライト線にポトリと落ちるヒットになり、三塁走者の森が悠々と勝ち越しのホームを踏んだ。
ここで全パは6番手の梶本隆夫(阪急)にスイッチしたが、全セはさらに、代打・金田正一(国鉄)のセカンドゴロで1点を追加した。
トドメは柴田勲(巨人)がライトオーバーの三塁打を放ち、古葉がこの回3点目となるホームを踏んで、全セが8-5でダメ押しした(その後、柴田はホームスチールを狙い、タッチアウト)。
全セは延長10回裏、5番手・秋山登(大洋)が全パを三者凡退に抑えた。
両チーム22安打の打ち合いを制し、全セは3連勝。

第3戦の試合後、表彰選手の発表となった。
MVPは勿論、好守でピンチを救い、殊勲打を放った古葉である。
古葉には副賞としてテープレコーダーが贈られた。
古葉はそのテープレコーダーを大事に抱えながら、報道陣にこう語った。
「(自分が出場した試合の観客席に)こんなに人が入ったのは初めてだし、一生の思い出になるでしょう」

それまで、地方球団でバイプレーヤーとしての存在にすぎなかった古葉に初めて、まばゆいスポットライトが当たった夜となった。

1963年のオールスターゲームの舞台で野球人生が変わった古葉毅と、それを演出した森昌彦。
この二人、その後、奇しくも二人とも名前を変えた。
そして、二人とも指揮官となった。
古葉竹識は1984年に広島の監督として、森祇晶(まさあき)は1986年に西武の監督として日本シリーズを制覇する。
だが、古葉は1985年オフに広島の監督を退任し、森は1986年に西武の監督に就任するため、二人が指揮官として日本シリーズの舞台で直接対決することはなかった。

オールスターゲーム明け、首位打者争いで長嶋茂雄との一騎打ちに

この年、古葉にとってオールスターゲームでの活躍が大きな自信につながったのか、オールスターゲーム明けの7月下旬から、さらにヒットを量産するようになる。
オールスター休みに入る前、古葉の打率は.291(3本塁打)であった。それが8月終了時点で、.322にまで上昇するのである(本塁打は5本)。
新聞のスポーツ面に掲載された、セ・リーグの「打撃十傑」には、首位打者争いトップの「長嶋茂雄」の下に、「古葉毅」の名前が載るようになった。

長嶋茂雄も、2歳下の古葉も同じ1958年にプロ野球の世界に入った。
だが、長嶋はすでに球界を代表するスーパースターの地位をほしいままにしていた。
古葉は静かに闘志を燃やしていた。

(つづく)



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