【訃報】三沢淳さん/中日の「巨人キラー」下手投げエース

1970年代から1980年代にかけて中日ドラゴンズ、日本ハムファイターズで投手として活躍した三沢淳さんが3月3日、亡くなった。69歳だった。
三沢さんは中日に入団後、下手投げから繰り出すスライダーとシンカーで右打者の内角を強気に突くピッチングで、先発・リリーフにフル回転して、中日の1974年、1982年のリーグ優勝に2度、貢献、通算107勝をマークした。
生前の三沢さんの功績を振り返りたい。

無名校から甲子園春夏連続出場、都市対抗野球で優勝に貢献

三沢淳は1952年、島根県浜田市生まれ。
地元の浜田第一中学で野球を始めたが、補欠の三塁手であった。野球部の1学年下には梨田昌孝(のちに近鉄の捕手、近鉄・日本ハム・楽天の監督)がいた。

三沢は島根県立江津工業高校に進学すると、室谷良秋監督の勧めで右のアンダースローに転向した。するとエースに成長し、3年生春、1970年の第42回センバツ大会に初出場を果たした。
甲子園初戦となる2回戦・北陽(大阪)戦で敗退した(北陽は準優勝)。
続く、同年夏の大会(第52回)でも予選で三沢は52イニング連続無失点を続け、島根県勢初となる春夏連続出場を決めた。
甲子園では1回戦の鹿児島商工に先発、5安打完封勝利した。
2回戦の東邦戦(愛知)では4回に不運な当たりから4失点し、予選からの64イニング無失点がストップ、そのまま敗退した。
この年、三沢はドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受けるが、中日が保有権を有したまま、翌1971年に新日鉄広畑に入社。
同年の都市対抗野球大会では住友金属工業からの補強選手である山中正竹(のちの法政大学野球部監督、バルセロナ五輪野球監督)をリリーフして活躍、決勝でも丸善石油を相手に好投し、同僚の佐々木恭介(のちの近鉄の選手・監督)がタイムリー安打を放つなど、優勝を収めた。
三沢は16イニングを1失点という成績で、捕手の中山拓郎と共に「小野賞」を受賞した(佐々木は最優秀賞である「橋戸賞」を受賞)。
また、その秋、同僚の佐々木と共に第9回アジア野球選手権大会野球日本代表に選出され、準優勝に貢献した。
オフに与那嶺要監督率いる中日に入団、背番号「11」を着けた。

新人の4月にプロ初勝利、いきなり「巨人キラー」。2年目に二桁勝利

プロ1年目の1972年、三沢に早速、一軍デビューの機会が訪れた。
開幕6試合目となる4月16日、地元・中日球場での巨人戦、4-6と2点ビハインドの8回にプロ初登板を果たした。
プロで初めて対戦した打者となった7番・捕手の森昌彦(現在の森祇晶)から三振を奪うなど、1回をわずか9球、無失点に抑えた。
すると、その裏、中日打線が巨人先発の堀内恒夫から一挙6点を奪って逆転し、三沢はラッキーなプロ初勝利を挙げた。
その後、5月18日の巨人戦(後楽園)でプロ初先発登板を果たすが、6回3失点に抑えながら、敗戦投手に。
その後も先発登板では勝ち星に恵まれなかった。
しかし、新人で挙げた勝ち星3勝はすべて巨人戦でのリリーフ勝利で、元巨人で「打倒巨人」に燃える与那嶺監督の溜飲をおおいに下げた。


三沢の初先発勝利はプロ2年目の翌1973年4月28日、ナゴヤ球場での巨人戦、この年、自身初の三冠王となる王貞治に一発を浴びたが、3点に抑えて9回を投げ切ると、味方のサヨナラ勝ちで完投勝利を挙げた。
9月23日、対大洋ホエールズ戦(下関市営球場)では、通算320勝を挙げていた小山正明と投げ合ってプロ初完封勝利。
この年、主に救援登板でチープトップの45試合に登板して規定投球回に達し、シーズン最終試合となった10月24日の大洋戦(川崎)に先発、自身初の10勝を挙げ、防御率2.56でセ・リーグ9位に食い込んだ。

1974年、リーグ優勝に貢献、日本シリーズ初登板

1974年、三沢は本格的に先発に転向し、先発とストッパー兼用の星野仙一に次ぐ45試合に登板して、チームの勝ち頭で最多勝を獲得した松本幸行に次ぐ200イニングに登板、2年連続の二桁勝利を挙げると、巨人のV10を阻止し、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。
右打者の内角を強気に攻め、リーグトップの12死球を与えた。

金田正一監督率いるロッテオリオンズとの日本シリーズ第1戦、先発の松本幸行が2回でマウンドを降りると、三沢は二番手としてシリーズ初登板を果たし、3回を投げ、弘田澄男のソロホームランの1失点に抑えた。
結局、三沢はこのシリーズ、第1戦と第4戦にリリーフで2試合に登板し、計3回2/3を投げて1失点と好投したが、中日は2勝1敗からロッテに3連敗で敗れ、日本一には届かなかった。

3年連続二桁勝利

1975年も、松本幸行に次ぐ30試合に先発、松本、星野仙一に次いで13勝(7敗)を挙げ、3年連続で二桁勝利をマーク。
しかも、そのうち5勝を巨人戦で挙げるなど、相変わらずの「巨人キラー」ぶりを見せた。

1976年は前半戦、絶好調で、オールスターまで8勝を挙げたものの、後半に調子を崩して、後半戦でわずか1勝しか挙げられず、結局、防御率5点台で9勝どまりだったが、打撃ではプロ初本塁打を記録した。
1977年は主にリリーフに廻ったが、1978年には先発・リリーフで55試合に登板、12勝と復活を遂げた。
打つほうでも、投手にしては珍しい「右投げ左打ち」で打率.288を記録した。


1979年、巨人戦で9回2死までノーヒットノーラン、オールスター選出

三沢は1979年も、先発・リリーフでフル回転し、45試合に登板、そのうち先発は藤沢公也と並ぶチームトップタイの28試合で、13勝を挙げ、4年ぶりの二桁勝利でAクラス入りに貢献した。
投球回も2度目の200イニング超えを果たし、この時が三沢の投手としてのベストシーズンといってもよい。

特にこの年、6月8日、地元・ナゴヤ球場での巨人戦、先発した三沢は8回まで、中畑清への四球のみ、無安打で抑えた。
だが、中日打線も巨人先発の加藤初を攻めあぐね、三沢は味方の援護がなく0-0で9回表へ。
巨人は先頭、代打の左の淡口憲治が倒れ、続く9番の加藤初の代打・山本功児に対し、三沢はライトに大飛球を打たれたがフェンス手前で失速し、右翼手の田尾安志のグラブに収まり2死。
三沢はノーヒットノーランまであと一人と迫ったが、1番の中井康之の代打、柳田真宏に一、二塁間を破られ、大記録を逃した。

それでも三沢は続く2番の篠塚利夫を抑え、なんとか9回を無失点に抑えると、中日は9回裏、先頭の大島康徳の二塁打に続き、田尾安志がサヨナラタイムリー安打を放ち、三沢は1安打完封勝利を収めた。
9回2死までノーヒットに抑えながら逃したのは三沢がNPBで15人目で、2021年シーズン終了までに21人が23度あるが、0-0で投げ終えてその裏、サヨナラ勝ちを収めたのは三沢ただ一人だけである。

三沢はこの年のオールスターゲームでヤクルトの広岡達郎監督の推薦を受け、初選出された。
地元のナゴヤ球場で行われた第2戦(7月22日)では、先発したチームの先輩の星野仙一の後を継いで2番手で3回からマウンドに上がり、同じく先輩の木俣達彦とバッテリーを組み、パ・リーグの藤原満(南海)、白仁天(ロッテ)、島田誠(日本ハム)から三振を奪うなど、3回を無失点に抑え、3番手の藤沢公也に繋いだ。

さらに8月30日の巨人戦(後楽園)では5度目のシーズン10勝目を懸けて先発マウンドに上がり、巨人先発の江川卓と投げ合うと、3回には2番手の浅野啓二から自らダメ押しとなる3ランホームランを放ち、6回3失点で10勝目を挙げている。

1981年、自身初の開幕投手に

三沢はこの後も、先発ローテーションに入りながら、リリーフでも登板し、1980年は37試合に登板して8勝を挙げたが、チームは最下位に転落し、中利夫監督は辞任した。

中日は新監督に投手出身の近藤貞雄を迎えて臨んだ1981年のシーズン、三沢が自身初の開幕投手に選ばれた。敵地での後楽園球場で、藤田元司が監督に就任したばかりの巨人と対戦した。
開幕戦では、巨人のゴールデンルーキー、原辰徳が「6番・二塁」でスタメン出場したが、三沢は原のプロ初打席をセカンドフライ、2打席目をサードゴロに打ち取った。三沢は4回まで巨人打線を1失点に抑えたが、5回に代打を送られ、そのまま敗れたため、敗戦投手となった。
三沢はこの年、都裕次郎と並ぶチームトップの24試合に先発し、防御率3.35とまずまずの成績だったが、7勝10敗と勝ち星に恵まれず、チームも5位に沈んだ。

1982年、逆転リーグ優勝で日本シリーズ進出、シリーズ初先発

翌1982年、近藤貞雄監督の下、中日は開幕投手の小松辰雄が開幕戦でいきなり故障、長期離脱し、苦しい投手事情であったが中日投手陣は2年目の郭源治がブレイクし、後半、強力な打線と投手陣がフル回転で猛チャージを懸け、130試合目で巨人を逆転し、8年ぶりのリーグ優勝を果たした。
三沢は郭、都裕次郎に次ぐ先発3番手として25試合に先発、8勝を挙げた。
特に10月6日からの13日間に行われた10試合で、4試合に先発、2試合では早々に降板したものの、完投勝利を含む2勝を挙げて逆転優勝に貢献した。

広岡達郎監督率いる西武ライオンズとの日本シリーズは波乱含みとなった。
第2戦、先発の都裕次郎が先頭打者の石毛宏典のピッチャー返しの打球を足に当てるアクシデントで降板、緊急登板した藤沢公也が誤算で前半で勝負が決した。
三沢は6点ビハインドながら5番手として登板、3回を無失点に抑えた。
中日はいきなり本拠地での連敗に一部のファンが怒りを爆発させる事態となった。
第3戦から戦いの場を西武球場に移し、中日が一矢を報いて1勝2敗で迎えた第4戦、近藤監督は先発を三沢に任せた。
三沢にとって、8年越しとなる自身初となるシリーズ先発登板であった。
この試合は、西武も先発に、三沢と同じ下手投げの松沼博久を起用し、「アンダースロー対決」となった。
中日が3-1と2点リードで迎え、三沢の勝利投手の権利が懸かった5回、先頭の投手・森繁和に二塁打を打たれ、さらに1番打者の石毛宏典にタイムリー二塁打を浴びて、無念の降板となったが、中日が9回に谷沢健一のソロホームランで勝ち越し、2勝2敗のタイに戻した。
第5戦は中日が先制機に打球が審判に当たって得点機を逃すなどの不運に見舞われて敗れ、2勝3敗となり、王手を懸けられた。

西武が3勝2敗と王手で迎えた第6戦は中日の本拠地のナゴヤ球場に舞台を移した。中日ファンが劣勢に興奮し、厳重な警戒態勢の中、近藤貞雄監督は負ければ終わりの大事な一戦、三沢に先発を任せると、西武は同じくアンダースローのベテラン、37歳の高橋直樹との投げ合いとなった。
0-0で迎えた3回、三沢は先頭の1番・石毛宏典を高いバウンドのサードゴロに打ち取る。ところが、この打球を三塁手のケン・モッカがバウンドを合わせ損ねて捕球エラーしたことで、そこから試合の流れが変わった。
一死後、三沢は左打席に入った3番・スティーブ・オンティベロスに内角高めを投じると、ライトスタンドにバウンドして飛び込むエンタイトル二塁打を打たれ、先制を許した。
続く4番・田淵幸一はキャッチャーへのファウルフライに打ち取ったが、中日ベンチは左打者のテリー・ウィットフィールドを敬遠し、ベテランの右打者・大田卓司との勝負を選んだ。
これが裏目となった。
三沢は2ボール・1ストライクからの4球目、外角のスライダーを投じたが大田は読んでいたかのように思いっきり引っ張った。
レフトスタンド中段に突き刺さる3ラン本塁打となり、4-0。
(大田はこの一打で、2本塁打となり、シリーズ優秀選手賞を獲得した)
その裏、三沢の打席で代打が送られ、三沢の出番は終わった。
その後、中日は高橋直樹を攻めて一挙4点を奪って同点にしたが、終盤、中日の投手陣が西武の猛攻を交わすことができず、終わってみれば、9-4の大差で敗れた。
中日はエース都裕次郎を早々に欠いたり、審判に打球が当たって得点機を逃したりする不運も重なり、1954年以来となる日本一にまたも手が届かなかった。
三沢は3試合に登板し、10回1/3を自責点3(7失点)で抑えたが、自身、これが最後の日本シリーズとなった。

中日投手では3人目の通算100勝、当時チーム歴代トップの通算先発登板数に

1982年オフ、長年投手陣を支えてきた星野仙一が現役を引退し、1983年は中日投手陣にも世代交代の波が押し寄せた。
三沢は開幕当初こそ、先発ローテーション入りし、4月24日に自身通算99勝目を挙げたが、その後、打ち込まれるようになり、防御率が6点台に落ち込んだ。
三沢は通算100勝に王手を懸けてから先発5試合で勝ち星に恵まれず、足踏みのまま、5月下旬にローテーションを外れた。
前年16勝の都裕次郎も奮わず、先発ローテーションは郭源治、小松辰雄、鈴木孝政が占めるようになった。

8月11日、地元・ナゴヤ球場でのヤクルト戦、通算100勝目を懸けた先発マウンドに上がった三沢はヤクルト打線を7回まで2失点(自責点1)に抑え、小松辰雄のリリーフを仰いだが、1点差で逃げ切り、100勝目を挙げた。
NPBでは83人目の快挙だが、中日の投手が在籍中だけで通算100勝を挙げたのは杉下茂(211勝)、星野仙一(146勝)、服部受弘(112勝)に次いで当時、5番目という大記録である(現在は9位)。
また、8月21日の阪神戦に先発して、中日の投手としては星野仙一の先発登板243試合を超えて最多となった(現在は山本昌の514試合、川上憲伸の259試合に次いで3位)。
しかし、この年、三沢はわずか4勝に終わった。
1984年、山内一弘新監督の下で、チームは2位に躍進したが、32歳を迎えた三沢の先発機会はおろかリリーフでの登板も減り、投球回数もプロ入り最低となると、オフに日本ハムに金銭トレードで移籍となった。

NPB史上56人目の500試合登板

1985年のシーズン、高田繁新監督が率いる日本ハムファイターズで、三沢はリリーフとして起用された。
5月9日、後楽園球場での南海戦で4回途中から2番手としてロングリリーフし、パ・リーグ移籍後、初勝利を挙げた。
10月16日の近鉄戦(藤井寺球場)では、2番手で救援登板して自身500試合登板を果たした。
同じ中学の後輩でもある梨田昌孝とはバッテリーを組むことはなかったが、三沢がパ・リーグに移籍したことで、公式戦で打者・梨田との対戦は実現した。
この年、15試合の登板でわずか1勝だけではあったが、防御率は2.06と、当時、打高投低のパ・リーグで大健闘を見せた。

現役最終登板、最後の対戦打者はルーキーの清原和博

三沢は日本ハムに移籍して2年目となった1986年、8月25日の平和台球場での西武戦で3番手として登板したのが現役最後の登板となった。

3-1と2点リードで迎えた7回2死の場面でマウンドに上がった三沢は、かつて1982年の日本シリーズで手痛い本塁打を打たれた大田卓司との対戦となった。
しかし、三沢は大田に2点タイムリー安打を浴び、同点に追いつかれた
(大田はこの年のオフ、現役を引退した)。
続く打席にはゴールデンルーキー、まだ19歳になったばかりの清原和博。
この日、17号ホームランを放っていたが、三沢は清原を三振に斬って取り、マウンドを降りた。

三沢はこのオフ、34歳で現役を引退した。

通算505試合登板、107勝、巨人戦通算23勝

三沢淳のNPBでの投手成績は、通算505試合登板、うち先発は253試合で107勝106敗6セーブ。
防御率3.81 投球回は1860回1/3。
NPBで通算500試合登板に到達しているのは、現役の石川雅規(ヤクルト)らを含め103人しかいない。

中日での成績は実働13年間で485試合に登板(中日投手歴代7位)、うち先発253試合(同3位)、105勝(同9位)105敗(同3位)。
投球回は1816回2/3(同6位)。
そのうち巨人戦の通算成績は23勝23敗。
中日の投手としては、①山本昌(43勝44敗)、②杉下茂(38勝43敗)、③星野仙一(35勝31敗)、④川上憲伸(24勝20敗)に次いで5番目の勝ち星である。
V9時代の巨人に強く、1970-1980年代のドラゴンズを支えたエースだった。
三沢は背番号「11」を13年、背負い、その後は川上憲伸、小笠原慎之介らに引き継がれた。

現役引退後はテレビ出演に議員活動

三沢は現役引退後、地元の民放テレビの野球解説者や情報番組に出演した。特に日本テレビ系の平日朝の長寿番組である「ズームイン!!朝!」で前日のプロ野球の試合結果を紹介する「プロ野球イレコミ情報」では、系列の中京テレビからドラゴンズOBとして中継でレギュラー出演した。

1996年には衆議院議員選挙に愛知4区から出馬、当選し、1期4年、務めた。
1999年には、当時の小渕恵三首相が訪米して、MLBのシカゴ・カブスの本拠地であるリグリー・フィールドでの公式戦で、始球式を務める予定が入っていたため、三沢が投球を指導したこともあった。

三沢淳さん、安らかにお眠りください。


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