【訃報】清川栄治さんー「左腕ワンポイントリリーフスペシャリスト」の系譜(前編)


広島カープ、近鉄バファローズで左投手として活躍した清川栄治さんが5月5日に亡くなっていたことがわかった。62歳だった。


沢村栄治にちなんで命名、同じ京都商でエース左腕に


清川栄治さんは1961年、京都府京都市に生まれた。
近所に校舎があった京都商業が生んだ大投手、沢村栄治にちなんで「栄治」と名付けられた。
身体はさほど大きくなく、しかも、幼少期に父を亡くしたが、中学生から新聞配達で家計を支え、沢村栄治と同じ私立京都商業高(現在の京都先端科学大学附属高校)へ進学、野球部に入部し高校2年夏に1978年夏の甲子園大会に出場、1回戦の県岐阜商戦で登板したが敗退した。

関西六大学野球で大活躍も、ドラフト外で広島へ

高校卒業後は、大阪商業大学へ進学、硬式野球部に入部し、関西六大学野球リーグでは大学1年春からエースとして活躍、通算49試合で当時のリーグ最多記録となる24勝8敗、防御率1.91、ベストナイン1回を受賞をしたが、ドラフトにはかからず、広島カープにドラフト外で入団した。

清川さんが新人で迎えた1984年、古葉竹識監督の下、4年ぶりのリーグ優勝を果たしたが、先発投手陣は山根和夫、北別府学、大野豊、小林誠二らの「投手王国」で、消化試合となった10月8日、広島市民球場での対読売ジャイアンツ戦で清川さんはプロ初登板を果たすも、この年、一軍での登板は1試合に終わった。

左腕の変則サイドスローに転向、ワンポイントリリーフでリーグ優勝に貢献


そこで清川さんは生き残るために、入団1年目の秋のキャンプで変則サイドスローに転向、主に左打者へのワンポイントリリーフとして頭角を現した。特に三振が取れるピッチングが魅力であった。
阿南準郎監督の下、1986年にはすべて救援で50試合に登板、5月26日、広島市民球場での対ヤクルトスワローズ戦でプロ初セーブを挙げるなど、防御率2.55で広島のリーグ優勝に貢献した。
この年は先発の北別府学が18勝を挙げてシーズンMVPを獲得し、「炎のストッパー」津田恒美が49試合に登板して22セーブを挙げたが、清川さんが前年新人王の川端順らと強力な中継ぎ陣を形成したことも優勝の要因となった。
西武ライオンズとの日本シリーズでも清川さんは第1戦、第7戦、第8戦に登板、いずれも無失点に抑えたが、日本一には届かなかった(自身最初で最後の日本シリーズ出場)。

救援登板で「完全試合」、29人連続アウト

1987年には5月16日の読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)での登板から、6月26日の対阪神タイガース戦(甲子園球場)で7番・八木裕から三振を奪い、救援登板で打者27人連続で出塁を許さず、実質、「完全試合」を達成した。
続く7月2日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)の登板では3回裏から2番手でマウンドに上がり、28人目の3番・ゲーリー、29人目の4番・落合博満を抑え、30人目となる5番・宇野勝にソロホームランを打たれてストップしたものの、打者29人連続で出塁を許さず、9回2/3をパーフェクトに抑えた(三振12個、内野ゴロ5個、内野フライ3個、外野フライ9個)。
シーズンでは41試合に登板して防御率2.13。
1イニングに出した走者の数(安打数と四球数の合計)を表す指標・WHIPを見ると、1986年は0.97、1987年も0.83と抜群の安定感を誇っていた。

1988年4月20日、広島市民球場での対読売ジャイアンツ戦でデビュー以来、106試合目の登板にしてプロ初勝利を挙げた。その後、同年5月29日、広島市民球場での対読売ジャイアンツ戦でプロ初黒星を喫するまで、プロ初登板から114試合連続敗戦なしのNPB新記録を更新した(その後、阪神・桟原将司が2009年に記録更新、現在の記録は巨人・高木京介が持つ164試合)。

近鉄に移籍、「仰木マジック」のピースに


清川さんは1991年シーズン途中で、近鉄バファローズに移籍、30試合に登板して、防御率2.25と復活、パ・リーグの左の強打者を抑えた。
「仰木マジック」と言われた仰木彬監督の下で清川さんは重宝された。
1992年5月15日、平和台球場でのダイエーホークス戦で2番手として登板したが、右打者のブーマー・ウェルズが打席に入ると一塁を守り、その後、再びマウンドに上がって最後まで投げ切りセーブを挙げたこともあった。

その後も左のワンポイントリリーフとして堅実に成績を残すと、1997年4月16日、大阪ドームでの対福岡ダイエーホークス戦、7回表2死から2番手で救援登板して、424試合連続で救援登板を果たし、角三男(読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズ)の持っていたNPB記録を更新した。

デビューから438試合すべて救援登板で引退


清川さんは1998年に古巣の広島に復帰したが、同年8月9日、福山市民球場での対横浜ベイスターズ戦での救援登板(通算438試合目)を最後に一軍の公式戦での登板はなく、オフに現役を引退した。
清川さんがプロ15年間で登板した438試合はすべて救援登板で、通算13勝12敗10セーブ、防御率2.94。
364イニングを投げて、375奪三振、奪三振率は9.27で、被打率は.222、WHIPは1.12であった。
現役引退後は広島、オリックス、西武で投手コーチを務め、社会人野球の日立製作所でも投手コーチを務めた。
2024年は西武に復帰し、投手育成アドバイザーに就任していたが、かねてから闘病を続けていた。


清川栄治さんは、1970年代から80年代にかけて西武ライオンズで活躍した同じ左腕サイドスローの永射保さん(故人)と同様に、左打者へのワンポイントリリーバーの代表格のような存在だった。
だが、永射さんは18年のプロ野球生活で通算606試合登板のうち、先発も40試合、完投も9試合あり、清川さんのように、デビューから引退までここまでキャリアのすべてをワンポイントリリーフに振り切った「スペシャリスト」はなかなか存在しなかった。
では、清川さんがつくった「連続試合救援登板」の記録保持者はどんな投手たちだったか、振り返ってみよう。

「連続救援登板記録」保持者たち

 角三男(角盈男、角光雄)  423試合

角三男は左投げの投手として米子工業高校から社会人の三菱重工三原を経て、1976年ドラフト会議で、読売ジャイアンツから3位指名を受け、都市対抗野球出場後、ドラフト期限ぎりぎりに入団した。
1978年4月4日、横浜スタジアムの初の公式戦、対大洋ホエールズ戦の7回からマウンドに上がり、プロ初登板。
実質、新人ながら60試合に登板、5勝7敗7セーブで、セ・リーグの新人王を受賞した。
その後、リリーバーに定着したもの、制球難に陥り、1979年6月3日、対阪神タイガース戦で、「3者連続押し出し四球」という、セ・リーグ初の不名誉な記録(当時)をつくったが、オフの「地獄の伊東キャンプ」でサイドスローに転向して復活。
1980年にはリーグ最多の56試合に登板、79イニングに登板して、110奪三振をマーク、1981年、8勝5敗20セーブで、セ・リーグの「最優秀救援投手」のタイトルを獲得し、リーグ優勝、日本一に貢献した。
その後も、鹿取義隆らと「勝利の方程式」を築いた。

1979年7月16日、ナゴヤ球場での対中日ドラゴンズ戦で先発登板したのを最後に、同年7月26日、甲子園球場での対阪神タイガース戦でリリーフ登板してから、423試合連続で救援登板が続いたが、1989年に入ると、藤田元司監督の下で先発完投型の投手起用システムが確立されたこともあり、一軍で登板機会がなくなり、1979年6月30日、トレード期限間近で日本ハムに無償トレードで移籍。
日本ハムの近藤貞雄監督が、巨人の藤田元司監督に強く依頼して移籍が実現した。

日本ハムでは先発投手として起用され、移籍4日後、7月4日の北九州市民球場でのダイエーホークス戦に10年ぶりに先発登板し、8月15日、対ロッテオリオンズ戦ではプロ入り12年目にして初完投勝利を挙げた。

1992年に野村克也監督に請われてヤクルトに移籍し、46試合に登板したが、そのオフに36歳で現役引退。
通算618試合のうち、575試合に救援登板し、38勝60敗99セーブ、防御率3.06。
角の423試合連続救援登板は、1997年に清川栄治に抜かれるまでNPB記録であった。

 橋本武広 547試合


橋本武広は青森・七戸高校、東京農業大学、プリンスホテルを経て、1989年のドラフト会議で、西武ライオンズから3位指名を受け入団。
当初は左腕の先発要員として期待されたが、一軍では思うように結果を出せず、1993年オフに、秋山幸二、渡辺智男、内山智之との交換トレードで佐々木誠、村田勝喜と共に西武ライオンズに移籍したことが転機となった。

西武に移籍後、1994年のシーズンは主に左打者に対するワンポイントリリーフでの登板が増え、奪三振数がイニング数を超えた。
1995年にはパ・リーグ最多となる58試合に登板、防御率1.94の好成績をマークし、そこから7年連続でシーズン50試合以上の登板を継続した。
1997年にはリーグ最多となる68試合に登板して、防御率1.68、パ・リーグの最多ホールド王(25ホールド)を獲得した。
東尾修監督の下、パ・リーグ2連覇の優勝決定試合となった1998年10月7日、西武ドームでの対近鉄バファローズ戦のダブルヘッダー第2試合で3点リードの9回表にマウンドに上がり、無失点に抑えて初の胴上げ投手を経験した。

2001年5月5日、日本ハム戦に9回から登板し、清川栄治を抜いて439試合連続救援のNPB新記録を樹立した。
その後、2002年途中に阪神タイガースに移籍、2003年にはロッテに移籍したが、オフに39歳で現役引退した。
通算560試合に登板、うち救援登板は547試合(482回2/3)で12勝20敗20セーブ、防御率3.71。

 藤田宗一 600試合(デビューから全試合救援登板)

藤田宗一は京都出身、長崎県・島原中央高校野球部では甲子園出場に届かなかったが、社会人野球の強豪・西濃運輸硬式野球部に入部。
1996年の日本選手権では決勝まで進み、5試合全てに救援登板し3勝、防御率1.00で準優勝に貢献、敢闘賞を受賞すると、翌1997年も都市対抗野球でのベスト8入りに貢献し、1997年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから3位で指名されて入団。

1998年4月4日の大阪近鉄バファローズ戦で、救援でプロ初登板。4月11日の西武ライオンズ戦で初セーブ、5月4日の西武戦でプロ初勝利を記録した。

7月7日、ロッテがNPBワースト新記録となる17連敗が懸かったオリックス・ブルーウェーブ戦に2人目として救援登板、同点で迎えた延長12回に自身が出塁させた走者を残した状況で降板し、後続で登板した近藤芳久がサヨナラ満塁本塁打を打たれたため、藤田が敗戦投手となった。
新人ながら56試合の登板で6勝4敗7セーブ、防御率2.17の好成績であったが、パ・リーグ新人王のタイトルは入団4年目の西武の野手・小関竜也にさらわれた。
1999年、2000年とパ・リーグ最多となる登板数を記録、入団から5年連続でシーズン50試合登板を果たし、2000年にはパ・リーグの最多ホールド王のタイトルも獲得した。

2005年は薮田安彦、小林雅英とともに「勝利の方程式」である”YFK”の一翼を担い、33歳の誕生日を迎えた10月17日、ソフトバンクホークスとのプレーオフ第2ステージ第5戦でリーグ優勝を決めた試合で勝利投手になるなど、45試合に登板して1勝4敗、防御率2.56の成績を残し、ロッテの31年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献した。2006年第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出され、初代優勝メンバーとなった。

2007年は5月3日にNPB史上79人目の通算500試合登板を達成し、プロ初登板から500試合連続救援登板はNPB史上初の快挙、6月20日には連続救援登板が512試合連続となり、パ・リーグ新記録を樹立した。
しかし、同年は極度の不振と左肩の故障も相まって二軍落ち、オフには球団から戦力外通告を受けたが、現役続行を選び、読売ジャイアンツに移籍。

2008年4月5日の対阪神タイガース戦で登板し、当時のNPB記録となる527試合連続救援登板を達成したが、2009年は登板機会が減り、2010年は一軍登板が無く、オフに自身2度目の戦力外通告を受けたが、現役続行を希望。
NPB12球団合同トライアウトを経て、福岡ソフトバンクホークスと育成契約、支配下登録された。同年10月22日、シーズン最終戦となったQVCマリンスタジアムでの古巣のロッテ戦で通算600試合登板を達成したが敗戦投手となり、オフに3度目の戦力外通告を受けた。

2012年は、BCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスに選手兼任投手コーチ補佐として入団、オフに現役を引退した。
通算600試合(454イニング)で、19勝21敗8セーブ、77ホールド、防御率3.89。

(つづく)

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