1950年、新球団・広島と大洋、1試合28安打の猛攻

広島カープの打撃陣がゴールデンウイークの最終日に、鬱憤を晴らした。

5月8日、マツダスタジアムで行われたデーゲーム、広島カープ対横浜DeNAベイスターズ戦で、広島の打者4人が「1試合4安打」を記録し、自らが持つセ・リーグ記録に並んだ。
そればかりか、広島にとって今年の「母の日」は記録づくめの一日となった。


2022年5月8日、広島、21安打17得点の猛攻

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広島は初回、DeNA先発の左腕・東克樹を攻め、2番・菊池涼介、3番・西川龍馬、5番・坂倉将吾、6番・上本崇司のシングルヒット4本で3点を奪った。

さらに3回、先頭の菊池涼介のレフト前ヒットを皮切りに、西川龍馬のレフトへの4号2ランホームラン、さらに4番・ライアン・マクブルーム、坂倉将吾、上本崇司の3連打、7番・末包昇大の犠牲フライ、8番・小園海斗のタイムリー安打で一挙、4点を挙げ、打者一巡の猛攻で7-0とした。
これで、1番の中村健人と9番・投手の遠藤淳志以外は安打を記録した。

DeNAは4回から2番手・右腕の宮國椋丞を投入したが、広島打線の勢いは止まらない。
1死から菊池涼介のこの日、3安打目となる二塁打で出塁すると、ライアン・マクブルームがレフト線を破るタイムリー二塁打で追加点を挙げ、さらに続く坂倉将吾もこの日、3安打目となるタイムリー安打をライト前に運び、9-0。

末包昇大、広島30年ぶりの「新人満塁本塁打」


続く上本崇司が死球で無死満塁とすると、末包昇大が放った打球はレフトスタンドに一直線。プロ入り初となるグランドスラム(今季2号)となって、13-0。

NPBで新人が満塁本塁打を放ったのは末包が57人目(58度目)だが、広島に限れば、1992年7月26日の大洋戦(横浜スタジアム)で町田公二郎が放って以来、実に30年ぶり2人目という快挙であった。

さらに広島打線は5回からマウンドに上がったDeNA3番手の砂田毅樹を攻め、先頭の菊池涼介がレフトへの二塁打、西川龍馬が倒れた後、マクブルームがレフトスタンドに打ち込む特大の今季3号2ランで、15-0。

DeNAは6回、3番に入った楠本泰史のセンターへのタイムリー安打でようやく1点を返し、続く4番の牧秀悟のサードゴロエラーで2点目を追加し、15-2。

それでも広島の勢いは止まらず、6回も続投した砂田毅樹から先頭の小園海斗が初球を捉えて、今季1号となるソロホームランをライトスタンドに放り込み、16-2。
2死からこの日、すでに4安打の菊池涼介が5安打目を狙ったが、投手ゴロに倒れた。

広島は7回、DeNA4番手としてマウンドに上がった右腕・入江大生からも、マクブルームがこの日、2本目となる今季4号ソロホームランをレフトスタンドに放り込んで、17-2。
マクブルームは来日初の1試合複数本塁打と4安打を記録した。

広島、57年ぶりの「1試合5イニング連続本塁打」

しかも、広島打線はこれで3回から7回まで5イニング連続でホームラン。
広島の「1試合5イニング連続ホームラン」は、1965年5月11日、石川県営兼六園球場での読売ジャイアンツ戦で1回から5回までに記録して以来、57年ぶり2度目であった。

さらに、続く坂倉将吾もライトフェンス直撃へ二塁打を放って、これまた4安打目。
続く上本崇司もライト前へ運び、この日、4安打目、チーム21安打目となるヒットを放った。

この瞬間、広島は1950年6月7日の大洋ホエールズ戦(十日市町営球場)、1994年9月10日の読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)以来となる、「1試合4安打を放った選手が4人」という自身が持つセ・リーグ記録に並んだ。

この後、8回にもマウンドに上がった遠藤から、DeNAは柴田竜拓の二塁打と牧のライトへのタイムリー安打で1点を返し、17-3とするが反撃もここまで。

広島は終わってみれば、21安打、5本塁打、17得点という猛攻。
1番の中村健人と9番・投手の遠藤淳志は無安打に終わり、先発全員安打は逃した。
かつ、チーム最多記録である1試合28安打、22得点(両方とも前述の1950年の大洋戦)、7本塁打(過去4回)には及ばなかったものの、2020年7月11日の中日戦(ナゴヤドーム)で放った1試合23安打、19得点に次ぐ猛打で快勝した。

広島の攻撃陣は今季開幕からこの日の試合前まで、チーム打率.253こそリーグトップであったが、35試合でチーム本塁打数はわずか11本。
リーグ最多の巨人の40本と比べて、1/4程度という断トツの最下位であった。
オフに鈴木誠也が抜け、新外国人選手のマクブルームもこの日の試合前まで129打席で打率.250、本塁打わずか2本と苦しんでおり、長打力不足は深刻であった。
だが、たった1試合で、広島の今季のチーム打率は.261まで上昇し、チーム本塁打数も16本に増えた。

なお、この試合、ヒーローインタビューに呼ばれたのは、4安打を放った4人ではなく、8回3失点に抑え、今季2勝目を挙げた遠藤淳志と、新人で満塁ホームランを放った末包昇大であった。

「1試合4安打以上」が同一チームで4人以上はNPB史上4度目

NPBでは1試合4安打以上を記録した選手を4人以上、生んだチームはこれまで3チーム、5度あった。

・読売ジャイアンツ:
1948年10月16日、大陽ロビンス戦(愛知・大須球場)
・広島カープ:
1950年6月7日、大洋戦(広島・十日市町営球場)
1994年9月10日、巨人戦(東京ドーム)
・福岡ダイエーホークス(現在のソフトバンク):
2003年7月26日、オリックス戦(福岡ドーム)
2003年8月1日、オリックス戦(神戸・ヤフーBBスタジアム)

広島はこの日、3度目の達成となり、単独トップに立った。

そのうち、1試合4安打以上の打者を最も多く生んだのはダイエーで、2003年8月1日の対オリックス戦(ヤフーBBスタジアム)、フリオ・ズレータが5安打、村松有人、城島健司、井口資仁、柴原洋が4安打と、計5人が1試合4安打以上を記録している。

ダイエーはその前週、7月27日の対オリックス戦(福岡ドーム)で、城島健司が6安打、柴原洋が5安打、ペドロ・バルデス、ズレータが4安打を放ったばかりだった。

そして、広島カープにとって「1試合4安打4人」を最初に記録した試合にもベイスターズの前身、ホエールズが絡んでいた。


1950年6月7日、広島、28安打22得点

新球団・広島カープ、お膝元の広島県内の河川敷グラウンドでビジター戦?


プロ野球が二リーグに分立した最初のシーズンとなった1950年、セントラル・リーグに新たなチームが参入した。
セ・リーグに加入した新球団は大洋ホエールズ、西日本パイレーツ、国鉄スワローズ、広島カープである。
セ・リーグは既存の読売ジャイアンツ、大阪タイガース、大陽ロビンスあらため松竹ロビンスを併せて、8球団で発足した。

そして、開幕から3か月ほど経った6月7日、広島・三次(みよし)にある十日市町営球場(のちに三次市営球場)では初のプロ野球の試合となる、広島カープ対大洋ホエールズが開催されることになった。
(十日市町はその後、市町村合併を経て、「三次市」となった)

大洋はここまで26勝26敗1分けとまずまずの健闘を見せており、首位・松竹ロビンスから12ゲーム差の5位。一方、広島は16勝32敗と大きく負け越し、首位から20ゲーム差を離された7位に沈んでいた。

三次にあった十日市町営球場は1949年から河川敷につくられた野球場で、三塁側の内野席には桜堤があったため、春には桜が舞い散る下で野球を観戦することができたという。
しかも、当時はまだ完成前で、プロ野球の試合が行われるというのに、バックネットはまだなく、竹竿に網を吊るしただけの代用品だったという。

しかも、この試合の主催は地元の広島カープではなく、下関に本拠地を構える大洋ホエールズであった。
創設間もない大洋は、正捕手・門前真佐人がこの土地、三次の出身であることを当て込んで、広島との試合を興行したのだ。

門前真佐人は地元・旧制広陵中から大阪タイガース契約第1号となった強肩強打の捕手であった。
この時、すでに33歳になっており、往年の力は衰えが見えていたものの、大洋の創設と共に移籍し、正捕手に返り咲いていた。
その甲斐あって、「急造」の河川敷のグラウンドには1万人もの観衆が集まった。

広島の初代監督である石本秀一も、後に「小さな大エース」と呼ばれることになる右腕、長谷川良平を先発マウンドに送って、観衆の期待に応えた。
石本は戦前、広島商業のエースとして甲子園で活躍した後、母校の監督として4度の全国制覇をを果たすなど、ノンプロでの指導実績を買われ、創設間もない大阪タイガース2代目監督を務め、タイガース球団創設初の優勝(1937年秋)、しかも2連覇(1938年春)に導いた。
そして、門前は同じ広島の先輩である石本の下で正捕手として活躍した。
石本はその後、戦中・戦後に複数のプロ野球チームの監督を務めたが、1949年、地元・広島にプロ野球チームをつくる動きがあることを知り、自らオーナーに売り込んで監督に就任したのである。この時、52歳、実に6球団目の監督就任であった。

しかし、石本が監督就任を引き受けた時点で、開幕まであと3か月にもかかわらず、選手は一人も決まっていなかった。
石本の最初の仕事は、その人脈を駆使して、選手を集めることだった。
さらに、新球団の資金集めは難航し、運営資金は想定した予算を大きく下回るものだった。
石本がなんとかかき集めた選手で頼りになりそうなのは巨人で活躍した選手兼助監督の白石勝巳くらいで、他は峠を越えたベテラン、問題児、そして未知数の新人ばかり。
新生・広島カープはまさに苦難の船出となった。

三次の英雄、門前真佐人が故郷に錦を飾る凱旋試合のはずが・・・

この試合、門前とバッテリーを組む大洋の先発・片山博は前年、急映フライヤーズで16勝を挙げたが、故郷・北九州にほど近い下関を本拠地に構える大洋ホエールズがつくられることになり、移籍を果たし、この年も先発を中心に5勝を挙げていた。
だが、この日は広島打線の餌食となった。

地元開催にも関わらずビジターで先攻の広島は1回表にまず先制点を挙げた。
そして、2回には8番の新人・紺田周三の3号ソロホームランで2-0となった。
(紺田はこのとき18歳で、安打、本塁打、盗塁などカープの最年少記録を持っている)

門前は「6番・捕手」で先発出場していたが、自らの打席が廻る前に、敵の新人にホームランを打たれてしまい、さぞ悔しかったことだろう。
すると、2回、門前は最初に廻った打席で広島の先発、右腕エースの長谷川良平からレフトへ同点2ラン本塁打(シーズン14号)を放った。
地元・三次で初のプロ野球開催となった十日市町球場のこけら落としの一発とはならなかったが、早速、故郷に錦を飾る活躍を見せた。
しかし、門前が故郷の人々の前で花を持たせてもらえたのはこの1本だけだった。
ここから広島打線が大洋バッテリーに襲いかかるのである。

片山は3回、広島2番の阪田清春に3ランホームランを浴びるなど6点を失い、この回でマウンドを降りた。
阪田はこの年、実働4年目であったが4月11日の甲子園での阪神戦で、満塁の場面でランニングホームランを放っており、これが自身初の本塁打。
この日のホームランはプロ入り2本目になるが、柵越えのホームランはプロ入り初だった。

広島・石本監督の下で同じ釜の飯を食っていた、大洋・林-門前のバッテリー

大洋が2-8で迎えた4回、大洋の2番手として右腕・林直明がマウンドに上がった。
林直明はプロ野球選手だった兄・林安夫(朝日軍)を戦争で亡くすと、自らも1946年、地元の中部日本(現・中日ドラゴンズ)に入団した。
ところが、プロ初登板・初先発となった同年4月29日、後楽園球場でのセネタース戦で先頭打者から5者連続で四球を与えてしまい、結局、1イニング6四球を与えるワースト記録をつくってしまった。この不名誉な記録は両方ともいまだにNPB記録である。

林はその後、戦中、西鉄軍の監督を辞めて浪人の身であった石本秀一に請われて、門前らと共に国民リーグ・結城ブレーブス(茨城)に参加すると、1948年、石本がシーズン途中で金星スターズの二軍監督に就任すると同時に、林も金星に入団した。
林はいきなり初先発で完封勝利を挙げると、9勝1敗の好成績を残した。

つまり、門前、林は石本監督の下でいわば、同じ釜の飯を食った者同士なのである。

この日、林も精彩を欠いていた。
4回はなんとか無失点に抑えたものの、5回には広島の3番・樋笠一夫の8号本塁打などで4失点。
広島はこの回で早くも投手の長谷川良平も含め、先発全員安打の15安打を記録すると、12-2と大量リード。
その後、林は立ち直り、登板3イニング目となった7回は先頭の4番・辻井弘はセカンドゴロ、5番・岩本章をセンターフライと、たった2球で二死を取った。
広島打線は大量リードもあって、早打ちしようとしたのだろう。
そして、6番の坂井豊司も初球を打ってサードライナー。
たった3球でスリーアウトチェンジ、と思われた。
ところが、大洋の三塁手・宮崎剛がこれを落球したのである。
ここから林の苦行がまた始まった。

大洋・林直明、1イニング10失点のセ・リーグワースト記録、、、でも自責点ゼロ

広島打線は再び、火が点いたように容赦ない攻撃を林に畳みかけた。
林は投げても投げてもアウトが取れない。
白石勝巳、岩本剛、そしてプロ生活でわずか1本塁打の坂井豊志にまでホームランを浴びるなど、3本のホームランを含む8連打で一挙、10点を奪われた。
しかも、大洋・中島治康監督はもはや捨て試合と踏んだのか、林に投手交代を告げることはなかった。
林が食らった「一人の投手が1イニング10失点」というのは、72年経った今もセ・リーグワースト記録となっている。
林にとって唯一の救いは、二死走者なしから味方の失策で始まった失点であったため、この回の自責点がゼロであったという点だけだった。

広島、1試合28安打・22得点、毎回安打に先発全員が複数安打、全員得点、全員打点

終わってみれば、22-2。
この試合で広島が放った1試合28安打は72年経ったいまでも、セ・リーグ記録である。
広島は投手の長谷川良平も含めて、先発メンバーの全員が複数安打を放っていた。
1試合4安打を放ったのが1番・白石勝巳、2番・阪田清春、4番・辻井弘、5番・岩本章の4人、同じく3安打が7番の田中成豪、8番の紺田周三の2人、同じく2安打が3番の樋笠一夫、6番の坂井豊司、9番・投手の長谷川良平、という具合だった。
(NPBで先発メンバー全員が複数安打を記録したのは現在まで9度ある)
それどころか、毎回安打、かつ先発メンバー全員が打点と得点を記録するという凄まじいものだった。

22失点を食らった大洋・片山博と林直明、その後の投手人生

大洋の先発・片山博は3イニングを投げ、被安打10、8失点。
そして、4回から登板した林直明は6イニングを投げ、18安打を浴び、14失点しながら、最後まで投げ抜いた。
しかも、林は1948年のシーズン途中、金星スターズから大陽ロビンスに移籍しており、読売ジャイアンツが10月16日の大陽ロビンス戦(愛知・大須球場)で1試合4安打以上の選手を4人、生んだ試合で4番手として登板して5安打を打たれていた。
奇しくも、2度も不名誉な記録に関わることとなったのである。

ただし、1週間ほど前の5月31日、市川国府台球場で行われた東急フライヤーズ対毎日オリオンズ戦で、東急の2番手投手・伊藤万喜三が1試合18失点(6イニング)という記録をつくっており、林は「1試合最多失点記録」という不名誉な記録まではまぬかれた。

それでも、片山も林も決して2線級の投手では終わらなかった。
片山はこの年、14勝を挙げると、1953年には石本が率いる広島に移籍した。
しかも、大洋でバッテリーを組んだ門前真佐人が地元・広島に一足先に移籍していた。
片山も石本監督の下で、門前と同じ釜の飯を食うことになったのである
(ただし、石本はこの年、5月4日に監督を辞任することになる)
片山はすでに投手生活の晩年に差し掛かっていたが、制球力を武器に、セ・リーグ歴代2位となる50イニング連続無四球を記録すると同時に、NPB記録となる4試合連続完投・無四球試合という記録をつくった(また、牽制球の名手としても知られていた)。

一方、林はこの年から1952年まで3年連続で二桁勝利を挙げ、片山と共に大洋のエースとなる。
だが、1952年シーズン途中から勝ち運がなくなり、1953年は0勝8敗、1954年も8月まで0勝10敗と足掛け3年で当時のNPB記録となる18連敗を記録。
8月15日の先発登板でやっと勝利投手となり、ようやく連敗を止めたが、それは因縁のあった広島戦(京都・西京極球場)だった。
林の恩師、石本は前年のシーズン途中にカープを去り、監督は白石勝巳に代わっていたが、相手投手はやはり長谷川良平と投げ合ったものだった。
そして、これが林にとって現役最後の勝利となった。

新球団・大洋も屈辱の4か月後、負けじと1試合28安打・28得点のセ・リーグ記録

一方、球団創設早々、不名誉な記録をつくってしまった大洋だが、その4か月後、1950年10月17日に中日ドラゴンズ戦(静岡県営草薙球場)で、その鬱憤を晴らすかのように打線が大爆発した。

中日の投手陣7人から28安打を放ち、28得点を奪って、28-5で快勝したのだ。


このとき大洋が放った1試合チーム28安打は、広島に並ぶセ・リーグタイ記録である。
そして、1試合チーム28得点も、いまだにセ・リーグ記録である。

この試合で大洋は1試合3安打以上を放った選手を7人も出しており、前述の門前真佐人も3安打、1本塁打を放ってその一人に名を連ねている。
中日は3番手として杉下茂がマウンドに上がったが、門前にホームランを打たれるなど、2回を投げて被安打5、4失点を許し、勢いを止めることができなかった。

1950年発足の新球団・広島と大洋のその後

この年、セ・リーグの初代覇者は、松竹ロビンスであった(第1回日本シリーズで毎日オリオンズに敗退、日本一は逃す)。
新球団の大洋ホエールズはシーズン最終試合で勝利して、なんとか勝ち越し、セ・リーグ8球団のうち、5位に入る大健闘を見せた。

一方、同じ新球団の広島カープは初年度、シーズン終盤に13連敗(チームワースト記録)を喫するなど、リーグ最下位の8位に沈み、苦難のスタートとなった。

特に広島はオフに経営難から大洋との合併案も決まりかけていたが、土壇場になって撤回した。石本監督自ら資金集めに奔走し、広島市民や企業を中心とした後援会や「樽募金」による支援でなんとか命を繋いだ。

この後、大洋は松竹ロビンスと合併し、1954年から6年連続リーグ最下位の屈辱を味わうが、創設11年目の1960年、三原脩・新監督の下、初のセ・リーグ優勝、日本一を果たす。

広島はその後も創設以来、18年連続Bクラスの後、1968年に根本陸夫監督の下で初のAクラスとなる3位となるが、リーグ優勝は1975年まで、そして悲願の日本一は1979年まで待たなければならかなった。

<参考文献>


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