阪神・岩田稔、現役引退/プロ16年間の足跡を振り返る

阪神タイガースの左腕投手、37歳の岩田稔が現役引退を発表した。

岩田は学生時代に発症した「1型糖尿病」と付き合いながら、16年間のプロ生活を全うした。「1型糖尿病の希望の星」、それが岩田の代名詞である。

画像2

しかし、岩田のもう一つの代名詞は「無援護」だった。

岩田がプロ生活16年間で登板したのはちょうど200試合、うち先発193試合で、6回以上を投げて、自責点3点以下に抑えた「クオリティスタート(QS)」は110試合。7回以上を投げて自責点2点以下に抑えた「ハイクオリティスタート(HQS)」は67試合を数える。

だが、クオリティスタート達成の110試合で47勝36敗。
そのうち、ハイクオリティスタート達成の67試合でも33勝19敗。
通算防御率3.38(先発時は3.35)という成績を収めながら、通算60勝82敗。
負け越し、いわゆる「借金」は22だった。

岩田の先発登板時の防御率3.35、失点率3.81に対し、登板している間の援護点を1試合に換算すると、3.52点であった。
一軍での実働15シーズンのうち、1試合当たりの援護点が失点を上回ったたのは4シーズン、援護点が3点以下だったのが6シーズンあり、20試合以上の先発登板した5シーズンのうち、援護点が上回ったのは2011年(9勝)と2015年(8勝)だけである。
キャリアで唯一、10勝(10敗)に達した2008年は、1試合当たりの援護点と失点が全く同じ(3,62点)だった。

画像1


しかも、岩田は入団後、動く速球、ツーシームファーストボールでゴロを打たせる投球を真骨頂としたが、土のグラウンドである甲子園を本拠地とするタイガースとは相性が悪かったかもしれない。

それでも岩田はバックを信じて投げ続けた。
入団時、「1型糖尿病患者の希望の星になりたい」と宣言した男は、
引退に及んで「僕にとって借金22はひそかな誇り」と語った。
仲間を信じ、自分の言葉を信じて投げ続けた男が、惜しまれつつ縦縞のユニフォームを脱いだ。

岩田稔のキャリアを振り返ってみよう。

大阪桐蔭のエース、1型糖尿病を発症、腰痛で甲子園行きは叶わず

岩田稔は1983年10月31日、大阪の守口市に生まれると、小学校1年生から野球チームに所属した。中学では門真シニアに属した後、1999年に大阪桐蔭高校に入学、野球部では同級生の中村剛也(西武ライオンズ)とチームメートになった。
大阪桐蔭はわずか創部4年目の1991年の春・夏に甲子園連続出場を果たし、夏の大会(第73回)では初出場・初優勝の快挙を成し遂げていたが、その後、20年ほど甲子園からは遠ざかっていた。
1998年から指揮を執る西谷浩一監督の下、岩田は早くも2年生でエースとして頭角を現した。
しかし、2年生の冬、風邪をこじらせると、「1型糖尿病」を発症する不運に見舞われる。そして、3年生の時はエースナンバーをつけながら、腰痛で登板機会なく終わった。岩田は甲子園出場を果たすことはできなかった。

尚、その後、大阪桐蔭が甲子園に出場するのは、岩田の一学年下で、後に阪神でチームメートになる西岡剛が3年生の夏の大会(2002年、第84回)で、西谷監督は当時、コーチに配置転換になっており、西谷監督が指揮を執ってから初めて甲子園に出場するのは、2004年の春のセンバツで(但し、部員の不祥事のため西谷監督は出場自粛)、その後、甲子園常連校になるのはさらに先である。

しかも、岩田は卒業後、関西の社会人強豪チームへの内定が決まっていたが、病気を理由に内定を取り消されてしまう。
岩田を絶望が襲ったが、そんなときに励まされたのは父親の言葉と、元メジャーリーガーで巨人でも活躍したビル・ガリクソンの著書だった。
ガリクソンも糖尿病を患いながら、野球を続け、MLBドラフトで1巡目指名を受けると、7度のシーズン二桁勝利という実績を引っさげ、巨人入りし、MLB復帰後も20勝を挙げて最多勝を獲得した投手である。

関西大進学で、阪神スカウト・山口高志に見出される

捨てる神あれば、拾う神あり。
岩田は、西谷監督の母校でもある関西大学に推薦入学で進学、これが岩田の運命を変えることになる。
左腕から繰り出す150キロを超えるストレート、カーブ、スライダーが武器だったが、1型糖尿病の治療のため、インスリンを打ちながら練習を続けた。故障の影響もあり、23試合の登板、6勝に留まった。
しかし、岩田と阪神にとって幸運だったのは、当時、地元の阪神タイガースのスカウトには関西大OBである、元阪急ブレーブスの剛球右腕、山口高志がいたことだ。

山口高志は関西大学の右腕エースとして数々のリーグ記録を塗り替えた後、松下電器(現パナソニック)を経て、1974年のドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受け入団した。
関西大学の先輩である上田利治監督の下、新人でいきなり12勝を挙げ新人王に輝くと、リーグ優勝を経験し、日本シリーズでも胴上げ投手となり、MVPを獲得する活躍を見せた。その後も4年連続二けた勝利をマークして、パ・リーグ4連覇、日本シリーズ3連覇に貢献した。プロ4年目からはリリーフに転向し、最優秀救援投手も受賞した。登板過多による故障で実働8年、通算50勝44セーブで終わったものの、最盛期は投球の殆どがストレートで、当時、対戦した打者たちが異口同音に「山口高志の直球がいちばん速かった」と証言するほど、剛球を投げたことで知られる。

山口は後輩の岩田の素質を見抜くと、山口は岩田の主治医と会って、話を訊いた。
ー「絶対に大丈夫です」
主治医の力強い言葉を聞いた山口は球団に岩田の獲得を強く推薦した。

地元愛を貫き、阪神を逆指名

横浜ベイスターズも岩田を獲得する意思があったが、岩田は地元球団と山口の熱意に応えた。
2005年のドラフト会議では大学生・社会人枠で阪神を逆指名、入団した。背番号は「21」。
岩田は入団会見で、「1型糖尿病患者の希望の星になりたい」と語った。

阪神最後の「関大出身」のエース

関西大は関西大学リーグが旧・関西学生野球連盟として創設されてから加盟校であり、阪神には御園生崇男、西村幸生、村山実、中井悦雄、といったエース投手が入団している。他球団では、村山実と同級生でバッテリーを組んだ捕手・上田利治や、剛球で鳴らした山口高志が阪急に入団している。
その後、関西大からプロ入りしたのは巨人から育成ドラフト指名を受けて入団した捕手・小山翔平しかいない。
すなわち、岩田は阪神の関大出身エースの系譜を継いだ最後の投手なのである。
岩田をスカウトした山口はその後、2009年から2015年まで阪神の一軍投手コーチとしてブルペン担当を務めた後、母校・関西大学の野球部に戻ってアドバイザリースタッフを務め、「第二の岩田稔」の発掘と指導を行っている。

2006年 新人でプロ初登板・初先発 10月14日 広島戦(広島市民球場)

この年、リーグ2連覇を目指す阪神で、岩田は即戦力として期待されながらも、故障がちでなかなか目が出なかった。

それでも、プロ1年目、シーズン終盤の10月14日の広島戦(広島市民球場)で初先発の機会を与えられ、広島先発の大竹寛と投げ合った。
阪神は1回、2死から3番・鳥谷がライトスタンドへ15号ソロ本塁打を放って先制する。4番・金本知憲、5番・濱中治と連打が続き、2死一、二塁から6番・喜田がタイムリー二塁打を放った。タイガース攻撃陣が、ルーキーに2点をプレゼントした。

岩田は緊張の初マウンドに上がると、初回、先頭の東出を打ち取ったが、2番の山田を走者を置いて3番の前田智徳と対峙した。
岩田は捕手の狩野恵輔のミットを目掛け、内角低めに自信を持ってストレートを投げ込んだ。
前田は狙いすましたようにフルスイングすると、打球は弾丸ライナーとなってライトスタンドに消えた。
前田に22号2ラン本塁打を浴びて、たちまち同点となった。
プロの洗礼を浴びた岩田はそこから、新井貴浩に四球を与えると、立て続けに暴投。一死三塁から廣瀬にサードゴロで勝ち越し点を許した。
2回には、鳥谷敬のエラーで4失点目。
3回を投げ、被安打は2だが、4四球、4失点でマウンドを降りた。

2007年 プロ2年目も未勝利

プロ2年目の2007年、7月12日に巨人戦(東京ドーム)での先発を任されたが、巨人の先発は同じ2005年に巨人に希望枠で入団した福田聡志。
福田はルーキーイヤーの前年、岩田よりも早く3勝を挙げていた。
岩田は巨人の強力打線に対峙し、四球4つを与えたが被安打2、1失点に抑えて、5回でマウンドを降りた。福田はそれを上回り、5回を無失点に抑えた
(試合は延長12回に阪神が4-3で勝利した)。

岩田は8月に3度の先発の機会を与えられるが、いずれも勝利はつかなかった。プロ生活最初の2年は未勝利に終わった。

2008年3月29日 横浜戦(京セラドーム)プロ初勝利 

2008年、岩田はオープン戦の巨人戦で5回無失点と好投するなど、15イニング連続無失点。プロ3年目にようやく開幕一軍を掴んだ。

開幕2戦目、3月29日の横浜戦(京セラドーム)で、岩田は先発マウンドに上がった。
阪神は初回、4番の金本知憲のタイムリーなどで2点先制すると、岩田が6回を投げ、被安打6、5奪三振、1失点で抑えると、後を託したリリーフの渡辺亮、久保田智之が1点づづ失ったが、最後は藤川球児が9回を三者凡退で切り抜け、3-2で勝利した。
岡田監督も「(岩田に)力があるからよ。決してラッキーで勝てたわけじゃないよ」と手放しで褒めた。

2008年4月26日 巨人戦(甲子園)プロ初完投勝利 

さらに、4月5日の読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)では、プロ入り2度目となる巨人戦での先発となったが、自己最長の8回を投げ被安打4、1失点とほぼ完ぺきに封じ、藤川球児を救援を仰いだが、2勝目。

続く、4月26日の対読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)では、上原浩治と投げ合うも、6点の援護を得て、9回を投げ切り、プロ初の完投勝利を収めた。

タイガースは序盤から首位を独走、巨人とは最大13ゲーム差、7月終了時点でも9ゲーム差をつけていたが、8月以降に巨人の猛迫を受けてひっくりかえされ、10月10日、巨人が逆転でリーグ優勝を収めた。

2008年10月 プロ初のシーズン規定投球回数到達で10勝、新人王候補に

シーズン最終戦の10月12日の前日に、岡田監督が歴史的なⅤ逸の責任を取り、辞意を表明した。翌日、岩田が10勝目を懸けて中日戦(スカイマーク)の先発マウンドに上がった。
岩田は直前の2試合で5回もたずノックアウトを食らっていたが、この日は6回を1失点に抑え、「3度目の正直」でシーズン10勝に到達。
プロ入り後、最初の指揮官である恩師・岡田監督に恩返しを果たした。

2008年10月 クライマックスシリーズ初先発で好投

クライマックスシリーズでは、3位の中日とファーストステージを争ったが、1勝1敗で迎えた第3戦、岡田監督は大事な一戦の先発マウンドをまたも岩田に託す。
岩田は、新人王を争う投手・吉見一起と壮絶な投手戦を演じる。
岩田は8回まで被安打わずか1、無失点とほぼ完ぺきな投球を見せるが、阪神打線も吉見を打ち崩せない。8回裏に岩田に打席が廻り、代打・桧山進次郎を送っても実らず、試合は0-0のまま9回へ。
9回は藤川球児がマウンドに上がったが、先頭の代打・立浪和義にヒットを許すと、2死までこぎつけるものの、タイロン・ウッズに6球連続ストレート勝負を挑み、最後は左中間スタンドに特大のホームランを叩きこまれ、万事休す。阪神は岩瀬の前に三者凡退にと倒れて、0-2で敗戦し、岡田監督は有終の美を飾ることができなかった。

その年、岩田はチームでは下柳剛に次ぐ先発二番手として、規定投球回に達し、10勝10敗、防御率3.28という成績を収めた。
しかし、セ・リーグ新人王は先発・中継ぎで好投した中日の吉見一起(35試合、10勝3敗10ホールド、防御率3.23)にさらわれた。

2009年 WBC日本代表に選出、中継ぎで好投、世界一に貢献

翌年2009年にはWBCで日本代表に選ばれ、貴重な中継ぎ左腕として2試合に登板し、侍ジャパンの世界一2連覇に貢献した。
岩田を代表として選出した原辰徳監督は、
「(ペナントレースでも)岩田のボールは脅威だから。対戦する各国の脅威にもなると思うよ」と、その能力を認めていたという。

2009年 開幕前に左肩痛が発覚

しかし、世界一の喜びも束の間、岩田は帰国後に左肩痛が発覚した。
阪神はこの年から真弓明信が指揮官となる。
岩田にとって世界一の代償は大きかったが、6月10日にようやく一軍に復帰した。

2009年7月29日    横浜戦(甲子園) プロ初完封勝利 

7月29日の横浜戦(甲子園)では、プロ4年目で初完封勝利を挙げた。
この日は8-0と大量リードに守られて、散発の被安打7で抑えた。
「勝ててうれしいですけど、ケガで相当出遅れて、チームに迷惑をかけた」「もっと勝てるようにしていきたい」

2009年9月9日 中日戦(甲子園) 長女誕生の日に12K完封勝利

9月9日の中日戦(甲子園)では、先発マウンドに上がる前に、愛妻から長女誕生の報が届いた。
阪神の打撃陣は初回に3番・鳥谷敬の先制タイムリー二塁打、7番・林威助の走者一掃のタイムリー三塁打などで4点を奪うと、岩田はスライダーを軸に、中日打線を散発3安打、1四球に抑え、自己最多の12奪三振。
9回にあと一人で完封の場面から森野将彦にレフト線へ三塁打を打たれたが、最後はタイロン・ウッズを空振り三振に抑えて、4-0で勝利した。
シーズン5勝目を完封で飾った岩田はお立ち台で大声で叫んだ。
「頑張ったぞ!」。
「初回に4点を取ってもらって楽になった。低めに集めることができた」

岩田は序盤の出遅れでシーズン16試合の先発で7勝に留まるも、防御率2.68と安定した投球を見せた。
この年から、1種糖尿病の研究のために1勝する度に10万円を寄付するようになった。

2010年 左ひじ痛のため手術、シーズン全休

岩田は2010年も開幕前に左ひじ痛が発覚して3月に手術を受け、シーズンを全休した。

2011年 
578日ぶりに勝利投手、二桁勝利を逃す

岩田は左ひじ手術から長いリハビリを経て、2011年の開幕には間に合った。
開幕第3戦の4月14日の広島戦(甲子園)で552日ぶりの一軍復帰となる先発を果たした。そこから3連敗を喫する苦しいスタートだった。

4度目の先発となった5月5日、巨人戦(東京ドーム)では7回を投げ、アレックス・ラミレスのソロ本塁打1本に抑え、7回2死の場面では坂本勇人から三振を奪ってマウンドを降りた。

試合は阪神が2-1で逃げ切り、岩田は578日ぶりに勝ち投手になった。
ヒーローインタビューでは
「うれしい。いろんな人にお世話になった。家族が支えになった」
と声を詰まらせた。号泣だった。

結局、岩田は2011年のシーズンで25試合に先発し、そのうちクオリティスタート21試合(11試合連続を含む)、ハイクオリティスタート13試合(52%)、2度の完封勝利を記録し、防御率2.29とリーグ5位に食い込んだものの、1試合あたりの援護点がわずか2.66点と打線の援護に恵まれず、9勝13敗に終わり、自身2度目のシーズン二桁勝利を逃した。

2012年 2年連続で先発ローテーションを守るも、無援護で8勝どまり

和田豊監督就任で迎えた2012年、岩田は開幕ローテーション入りする。
横浜との開幕2戦目(京セラドーム)に先発、三浦大輔と投げ合って、6回3失点ながら、負け投手となった。
ここから岩田は開幕3連敗し、4月22日のDeNA戦(横浜)でシーズン初勝利を挙げたが、4月は1勝4敗、防御率5.24と出遅れた。
それでも、5月5日の巨人戦(甲子園)で7回1失点の好投で2勝目を挙げると、シーズンを通して25試合に先発、2年連続でローテーションを守った。

だが、岩田が登板した試合では1試合当たりの援護点は2.76点と相変わらず打線の援護に恵まれず、ハイクオリティスタート10試合(40%)を記録しながら、8勝14敗と負け越し、防御率は3.52(リーグ17位)となった。

2013年 開幕3連敗、二軍落ちで苦しいシーズンも、若林忠志賞を受賞

2013年も開幕ローテーション入りした岩田は、開幕2戦目のヤクルト戦(神宮)で7回1失点ながら、負け投手となった。
ここから3連敗を喫し、4月の防御率は4.80。
これで3年連続で、開幕から3連敗を喫するという不運に見舞われた。
5月4日のヤクルト戦(甲子園)でようやく初勝利を挙げたが、投球が安定せず、5月中旬から今度は二軍で調整を余儀なくされた。結局、このシーズンは8試合の先発に留まり、2勝5敗、防御率4.95と、一軍定着後、最悪の内容となってしまった。
ただし、糖尿病患者に対する慈善活動が評価を受け、若林忠志賞を受賞した。

2014年 952日ぶりの完投勝利。二桁勝利を逃すが、日本シリーズ進出

2014年のシーズン、岩田は4月20日のヤクルト戦に初先発すると、5回4失点(自責点2)ながらシーズン初勝利を挙げた。
続く4月26日のDeNA戦(横浜スタジアム)では9回を投げ切り、被安打4、1失点で、952日ぶりとなる完投勝利を挙げた。

ここから波に乗ると、5試合連続クオリティスタートと安定し、7月には先発した5試合すべてでクオリティスタート、うち4試合でハイクオリティスタートを記録し、4勝1敗、防御率1.25で自身初の月間MVPを受賞した。

岩田は8月20日に9勝目を挙げ、2度目のシーズン二桁勝利はほぼ確実かと思われたが、再び打線の援護に恵まれない登板が続き、シーズン終了まで岩田が先発登板した6試合で援護点はわずか7点だけだった。
特に9月23日のDeNA戦は、久保康友との投手戦になり、岩田は8回無失点に抑え、1-0で9回のマウンドを呉 昇桓(オ・スンファン)に譲ったが、呉がブランコにサヨナラ2ランを浴び、勝ち星が消えた。
続くシーズン最終登板となった9月30日のDeNA戦(甲子園)は、また久保との投げ合いとなり、今度は双方譲らず、8回表まで0-0のまま。阪神は8回裏に岩田に代打・新井貴浩を送ったが、勝ち越すことができず、10勝目の勝ち星は得られなかった(試合は阪神が延長10回裏、ゴメスのサヨナラタイムリー安打で勝利した)。
結局、9勝を挙げてから登板した6試合で1勝も挙げることができず、9勝8敗に終わり、防御率2.54は、巨人の菅野智之の2.33に及ばず、リーグ2位に泣いた。
しかし、岩田の奮闘もあり、ペナントレースで阪神は2シーズン連続で2位という成績を収めた。
クライマックスシリーズのファイナルステージでは、リーグ優勝の巨人との戦いとなった。
岩田は第2戦に先発して、7回2失点と好投、勝利投手となった。
チームは巨人に4連勝で、逆転での日本シリーズ進出に貢献した。

2014年日本シリーズで初先発、好投

岩田が初めて経験する日本シリーズは、福岡ソフトバンクホークスとの対戦となった。阪神が1勝2敗で迎えた第4戦、岩田は先発した。
後に同僚となる中田賢一と投げ合うと、7回2失点で勝ち負けはつかなかったが、好投した。
しかし、この試合でサヨナラ負けを喫すると、続く第5戦も阪神が敗れ、4勝1敗で敗退、1985年以来の日本一はならなかった。

2015年 自己最多の27先発、4季ぶり完封勝利を含む8勝

タイガースが創設80周年を迎えた2015年、岩田は開幕ローテーション入りした。開幕2戦の中日戦ではバルデスと投げ合い、またも8回無失点に抑えるが援護がなかった。
シーズン初勝利は4試合目の4月29日のヤクルト戦(甲子園)だった。
ヒーローインタビューで岩田は
「三者凡退が一度もなく、情けないピッチングだった」
「必ず報われると思って頑張りました。80周年ですし、必ず優勝します」

5月5日の中日戦では、山井大介との投げ合いとなり、1-1で迎えた6回、二死満塁で打席を迎えたが、和田豊監督は岩田に代打を送らなかった。
すると、岩田は山井のスライダーを捕えると打球がライト線を抜け、転々とする間に、走者3人がホームを駆け抜け、走者一掃の3点タイムリー三塁打となった。
これで「こどもの日」の登板では3戦3勝(2011年、2012年、2015年)。
試合後、3児の父である岩田は「もっともっと、甲子園に来てください!」と幼いファンにも呼びかけた。

5月27日、交流戦の初戦となった楽天戦では、故郷・守口市の5学年下の後輩、塩見貴洋との投げ合いとなったが、9回を投げ切り、被安打3、10奪三振で零封。4季ぶりの完封勝利を挙げた。

岩田は相変わらず援護に恵まれないものの、自己最多タイとなる27試合に先発し、自己最多の170回1/3を投げ、リーグ12位の防御率3.22という成績を残したが、8勝10敗と負け越した。

阪神は先発の4本柱、藤浪晋太郎が14勝、能見篤史が11勝、ランディ・メッセンジャーが9勝を挙げ、福原忍が33ホールドで最優秀中継ぎ投手、呉が41セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得したが、二桁本塁打が福留孝介の20本塁打、ゴメスの17本塁打に留まり、打線が奮わず、3位に終わった。
和田豊監督は退任した。岩田の恩人である一軍投手コーチの山口高志も、ブルペン担当で救援投手陣の不調の責任を取り、退団した。

2016年 著書出版も、シーズン未勝利に終わる

2016年は岩田にとって正念場のシーズンとなった。
監督が金本知憲に変わって初めてのシーズンとなった公式戦開幕日(3月25日)には、自身初の著書「やらな、しゃーない! 1型糖尿病と不屈の左腕」を発売した。

開幕5番手となった3月30日のヤクルト戦(神宮)、シーズン初先発で6回途中7失点KOされると、そこから3連敗でまたもシーズン開幕から3連敗し、4月下旬に登録抹消された。
9月にようやく一軍に再昇格したが、不慣れな中継ぎで結果を残せず、新人・2年目以来となるシーズン未勝利(0勝3敗)で終えた。

2017年 676日ぶりに勝利投手、1000投球回達成

2017年、「初心に帰って、引退覚悟で頑張っていく」。春季キャンプから積極的に投げ込み、首脳陣からの評価は悪くなかったが、結局、若手の先発陣との競争に敗れ、開幕二軍でスタートした。、二軍で好投を続けた。
「一番いいときの投球フォームに戻すこと」。
防御率がリーグ2位だった2014年の投げ方を参考に、右ひざを深く曲げて捕手のサインをのぞき込むスタイルにし、投球のテンポを上げた。
二軍で好投を続け、ひたすらチャンスを待った。

後半戦の7月27日、チーム88試合目となるDeNA戦でシーズン初先発登板を果たす。
先頭打者や投手への四球、暴投、ボークも出た。それでも、5回2失点に抑えると大量リードに守られ、676日ぶりに勝利投手となった。
試合後、岩田は、
「力みがすごかった。ダメなら(現役が)終わってしまうんじゃないかという不安もあった」と語った。
「5回しか投げられず悔しい」と反省の弁を口にした。
次の先発となった8月3日の広島戦(マツダスタジアム)では、NPB史上348人目となる1000投球回数も達成した。
結局、10試合の先発で3勝2敗、防御率4.25という成績だった。

2018年 好投するもシーズン未勝利

2018年、またも開幕二軍スタートとなった。
一軍での初先発は6月28日の横浜戦で、6回途中まで1失点(自責点0)に抑える好投も、藤川球児が6番・桑原に一発を浴び、同点に追いつかれる。

8月19日のヤクルト戦(神宮)では2回までホームラン2本を浴びて3失点と苦しい立ち上がりとなり、3回には先頭の青木宣親にはストレートが抜けて当頭部付近への死球とみなされ、危険球退場となった。

10月2日、広島戦(マツダスタジアム)では今季5度目の先発。
首位の広島を相手に5回まで無安打、7奪三振に抑える快投を見せるも、広島先発のクリス・ジョンソンに抑え込まれる。
岩田は6回、先頭の丸佳浩に104球目をセンターバックスクリーン左に運ばれ、先制のソロ本塁打を被弾。
0-1とリードを許したまま、岩田は7回を被安打3、8奪三振、1失点で降板した。シーズン4敗目を喫した。

本拠地最終戦となった10月10日、岩田はDeNA戦に先発し、シーズン初勝利を狙った。
6回まで1失点に抑えるも、援護がなく、6回の打席で代打を送られた。
岩田の代打、中谷がレフトスタンドに叩き込んで、同点に追いつき、岩田の負けは消えた。続く7回に陽川のタイムリーで勝ち越して、勝利したものの、岩田は6度の先発登板で、防御率3.23ながら、2016年以来となるシーズン未勝利(0勝4敗)で終わった。
チームも2001年以来の最下位に沈んだ。

2019年 先発ローテーションに復帰、4季ぶりの交流戦勝利も後半離脱

監督が矢野に代わり、開幕二軍スタートとなったが、開幕からファームでの好投が認められた。
4月18日のヤクルト戦(神宮)でシーズン初先発を果たすと、大量13点の援護に守られ、4季ぶりの完投勝利を挙げた(そして、現役最後の完投勝利となった)。
インタビューで「あんまり昔すぎて、あんまり覚えてないんで、結構前ですね。恥ずかしいですね。まだまだここからです。」
この登板から岩田は久しぶりに、シーズン序盤から先発ローテーション入りした。

6月22日、交流戦の西武戦では、甲子園という舞台で大阪桐蔭の同級生である中村剛也と10年ぶりの対戦となった。
2回、中村は岩田から先制となる12号ソロ本塁打を放った。中村が岩田からホームランを打つのは、通算397本目にして初めてで、これで本塁打を打った投手の数を230人目とし、巨人・阿部慎之介に並ぶ最多となった。
2度目の対戦となった4回の第2打席では、今度は左翼スタンド中段に飛ばす特大ホームランを放ち(通算398本塁打目)、中村に軍配が上がった。
だが、岩田は6回を中村のソロ本塁打2本の2失点で凌いだ末に、交流戦では4年ぶりの勝利を記録した。

一軍では8月上旬まで先発ローテーションを守ったが、8月4日の広島戦で2回7失点KO(自責点5)を食らい、二軍で再調整となった。

結局、岩田はこの年、14試合の登板で7度のクオリティスタートを記録、3勝4敗、防御率4.52という成績を残したが、8月中旬以降は一軍での登板機会はなかった。年俸も現状維持の3800万円となり、次のシーズンは捲土重来を期すはずだった。

2020年 新型コロナウイルス感染拡大の中、454日ぶりに勝利投手

しかし、2020年、新型コロナウイルスの感染が拡大した。
1型糖尿病患者の岩田にとって、感染すれば重症化のリスクが懸念された。
それでも二軍で懸命の調整を続けた。
初登板は、開幕から3か月経過した9月21日、甲子園でのデイゲームのDeNA戦となった。実に414日ぶりとなる一軍での登板となった。

岩田は1回、いきなり1死満塁のピンチを招くが、宮崎をサードゴロ、併殺打に抑えた。その後、4回、先頭・オースティンに右中間への7号ソロを被弾。5回には先頭・柴田にレフト前に安打を許すと、バントを試みていた投手の京山にまさかの四球。1死二、三塁から梶谷のセンター前のタイムリー安打とソトのセンターへの犠牲フライで追加点を許した。

9月下旬、チーム内で新型コロナウイルスへの集団感染が発覚した。
このピンチを救ったのが岩田だった。「特例2020」で10月1日に前倒しで登録され、その日の中日戦、シーズン初勝利を期して、岩田が先発マウンドに上がった。ブルペンには、岩貞祐太も、岩崎優もいない。

両先発の岩田もロドリゲスも3回までパーフェクトに抑える投球。岩田は4、5回に得点圏に走者を進められるも、粘りの投球で後続を打ち取り無失点。一方、ロドリゲスは2四球を出すも5回まで1安打投球で、両軍無得点のまま6回へ。

阪神は6回裏2死二、三塁のチャンスをつくると、ロドリゲスの暴投で1点を先制した。ロドリゲスは被安打2、10奪三振に抑えながら、ここで降板。
さらに阪神は7回には代わった福から、この日、ケガから復帰したばかりの梅野隆太郎が5号ソロ本塁打を放って、2点目を挙げた。
岩田は7回、先頭にヒットを許すも、併殺で凌いだ。二死から高橋周平にピッチャー強襲の内野安打を打たれたところで降板となったが、ジョン・エドワーズが後続を断ち、無失点。8回から藤浪晋太郎が160キロを連発して2奪三振、9回はスアレスが3人で締めて、4投手の継投で逃げ切った。
岩田は6回2/3、被安打4、5奪三振、無四球で、ゴロアウト12個と「らしい」投球で、ついに嬉しい今季初勝利を挙げた。
実に454日ぶりの一軍勝利だった。

ヒーローインタビューは、岩田と梅野のバッテリーだった。
岩田は「ホッとしてます。ちょっと恥ずかしいんですけども」と前置きし、
「僕はバッタバッタ三振を取るピッチャーじゃない。バックの方に守ってもらってアウトを取っていくという投手。それができてよかった」
「消えそうで消えない(油性)マジックみたいなものが岩田稔と思っているんで、頑張ったいけたら」

その1年後、2021年10月1日、岩田は引退会見に臨んだ。奇しくも、1年前の勝利が現役最後の勝利となった。

10月25日、岩田は国内FA権利を取得したが、権利行使をせず、残留を選んだ。

2021年 中継ぎ転向、キャリア200試合登板も現役引退を決断

岩田はプロ16年目のシーズンを迎える今年、1月に新型コロナウィルスの陽性反応が発覚した。症状はなかったが、隔離によって自主トレも遅れた。
しかも、この感染によって、岩田はプロとして前向きになれなくなったのを感じたという。

それでも、二軍キャンプに参加した。左肩は日によって状態が変わった。
開幕も二軍でスタートし、開幕当初はファームで先発でマウンドに上がっていたが、6月からは中継ぎに転向した。
これまで一軍での登板197試合のうち、救援はわずか4試合だけ。
だが、岩田は二軍戦で6試合連続で中継ぎで登板して無失点と新境地を開いた。
タイガース一軍は開幕からセ・リーグの首位をひた走っており、岩田は慣れた先発投手というスタイルを捨ててでも、中継ぎとして戦力になりたいという一心だったであろう。

そして、岩田は7月に一軍昇格を果たした。
中継ぎ左腕の岩貞が不調に陥り、その穴を埋める期待をされた。
今季初登板は、7月7日、ヤクルト戦(神宮)で、1点を勝ち越された直後、8回1死二塁で、2016年9月15日以来となる、約5年ぶりとなる中継ぎ登板を果たした。
だが、2学年上の左打者の2番・青木宣親の打席で暴投してピンチを広げ、5球目には死球を与えてしまった。岩田はここで降板した(失点はつかず)。

その後、7月10日の甲子園での巨人戦、1-8と大量リードを許した9回、4番手としてマウンドに上がると、1歳年上の中島裕之を三振、同じく1学年上の亀井善行をセンターフライに抑えた。

7月13日のDeNA戦(甲子園)、記念すべきプロ200試合登板でも救援でマウンドに上がった。
1-8と大量リードの9回、1回、被安打1、無失点に抑えた。先頭の宮本を三振に打ち取ると、最後は新人の牧秀悟をサードゴロに打ち取った。

その後、登板機会がなく、7月15日に登録抹消となり、再び二軍へ。
タイガース二軍はファーム新記録となる18連勝もあり、9月24日、ウェスタンリーグ優勝を決めたが、それを見届けた後、9月29日、岩田は球団に引退の意思を伝えた。

引退会見と引退セレモニー

10月1日、西宮市内のホテルに集まった報道陣を前に、岩田はマイクに向かって思いを語った。
「気持ちの方が昔ほど燃えてくるようなものがなくなってきて、自分の気持ちに負けたというか、そのタイミングで引退の方を決意しました」
「この気持ちでタイガースのユニホームを着てプレーをするのは失礼だと思ったので。ユニホームを脱ぐことに決めました」

岩田の引退セレモニーは、今季本拠地最終戦である10月26日の試合後に予定された。

その日、タイガースはリーグ優勝の望みをかけて、シーズン最終戦となる中日戦に臨んだ。
試合開始前には、岩田が愛する3人の子供たち、一男二女がグラウンドに現れた。
岩田の長男がピッチャー、岩田が捕手役となり親子バッテリーを組み、打席には長女、審判に次女が務め、始球式を務めた。
同じ病気を抱えてJリーグでプレーする、ヴィッセル神戸のMFセルジ・サンペールも登場した。サンペールも岩田の奮闘に背中を押された一人だった。

タイガースは最多勝エース・青柳晃洋を擁し、一戦必勝を期したが、序盤からリードを許し、劣勢だった。9回裏二死、最後の打者である大山悠輔が凡打に倒れ、0-4で敗れた。その瞬間、阪神は2005年以来のリーグ優勝を逃した。

その後、最終戦セレモニーを経て、岩田の引退セレモニーへと移った。
岩田がマウンドに立った。
内野席のスタンドには恩師・西谷監督の姿もあった。

甲子園のバックスクリーンのオーロラビジョンには、岩田のこれまでの功績に続き、岩田に勇気と希望をもらったという1型糖尿病患者の皆さんからのビデオメッセ―ジが次々と流された。
岩田はそれをじっと見上げて聴き入った。

岩田がなかなか勝てない時、ファンからは心無い声もあったという。
それでも、甲子園の大歓声を聞けば、応援してくれる人がいるのか身に沁みた。

岩田はマイクに向かって、感謝のスピーチを述べた。
家族へ感謝を述べるときには、また声を詰まらせた。
「応援してくれるファン、僕にとってはみんな“big family”です」
甲子園のマウンドでそう言い切れる岩田はどこまでも懐が深い男であった。

挨拶の後、岩田にはラストピッチの舞台が用意された。
最後のボールを受けるのは梅野隆太郎。岩田が先発した193試合のうち、53試合で先発マスクを被り、最多のバッテリーを組んだのは梅野だった。
甲子園で現役最後の勝利をホームランでアシストしてくれたのも、一緒にお立ち台に上がったのも、梅野だった。
「イワタ」コールが沸き起こる中、梅野のミットに最後のボールを投げ込んだ。
チームメートから花束を受け取った後、岩田を見出したスカウトである山口高志も花束を持って駆け付けた。

この日、阪神は16年ぶりのリーグ優勝は逃したが、日本シリーズ進出、そして36年ぶりの日本一の可能性は残されている。
岩田はチームメートたちに「一緒にビールかけ交ぜてくれ」と伝えたという。
岩田はもはやマウンドでチームの力にはなれないが、今度はチームが岩田を喜ばせる番ではないだろうか。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?