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また、山が動いた。~温かい境界線~

こんばんわ。
今日は、とても爽やかな良いお天気の日曜日でした。

今日、絶対動かないと思っていた山が、また、動いた。

病気で脚が思ったように動かなくなった主人。
もともと出不精だったけれど、常にある痛みと痺れのせいで、ほとんどの時間を家の中で過ごすようになってしまっていました。
もともとS極とN極くらい、性格も正反対の二人ではありましたが、病気の発症時期と三文字騒ぎの期間が重なり、彼は完全にテレビ脳。
将来の不安と背負っている責任、思うように動かない脚や奮い立たない心にイライラを私にぶつけないよう、常に不機嫌で、距離はどんどん離れていきました。
別れられるものなら別れたかったけれど、病人を放り出して逃げ出すわけにはいかないし、年老いた独居の義母に病人の世話をさせるのも偲びなくて、完全お手上げ問題だったので神様(神なるもの)にお任せすることにして、私はただ光に向かってはげむことに集中していました。

ウィークデーは世の中も動いているし、時々は仕事や用事で出て行くのですが、土日祝日はパーフェクトに近い確率で朝から晩まで家の中でリハビリもせず、スマホと向き合ってロクに話もしない主人の状態が、嫌でイヤで.....。

一日中家にいるから、寝てるだけの人のために、一日中食事の心配をしてスタンバっている自分も嫌でした。

それが、です!
今日、その主人が「お出かけしない?」といういう私の言葉に乗って、一緒にお出かけをしたんです!
今まで100発100中、口だけ返事で実現しなかった、
「お休みの日にお出かけする」という、たったそれだけでも凄いことなんですが、山の上にある(急な階段もある)お寺まで自分の脚でお参りに行くこともできたんです!

なんと!なんと!なんと!
信仰心のない主人が、手を合わせ、平身低頭で拝んでいる。
このお寺は、主人が手術とリハビリのために入院中に訪れたお寺で、その時持って帰ったお札(ふだ)に、「こんなもん、あてにできるか!」と「こんなもん」と言ったお札を、自分で持ち帰っておりました(苦笑)。

彼が入院中訪れた時は、本人は絶対来ることはできないな、って思っていたんです。何せ、山の上ですし、階段も多く、普通に歩くのがやっとでしたから。
でも、今日みたいないいお天気の時は、最高に見晴らしが良くて、氣が最高の場所です。

今日のタイトル画像。
これ、今日その山上のお寺から撮影したものなんですが、一昨日紹介したTOLAND VLOGさんの動画の中でSHOGENさんが話していた、「温かい境界線」みたいに見えませんか?

なんだか互いに離れ切ってしまって、二度と近づくことのない二人の距離が、少し縮まったような気がしました。
距離が縮まる、というか、両極に別れ別れになってしまっていたベクトルの向きが少しだけUターンした感じがしました。

私にしたら、動かないと思っていた山が、また、動いたんです。

実は、私、あることをしていました。
もちろん、神社仏閣に行く度に、彼の脚が良くなるよう、彼に生命力が戻るように祈ってはいましたが、それだけではないな、と思うフシがありました。
それは、むかーし、お仕事で知り合ったハワイのロミロミのサロンをされて方のワークショップで教えてもらった、自分じゃない人の代わりにその人になって祈るという方法を思い出して、それを試していたんです。
それが効いたのか、私の波動が引き寄せたのか、祈りが聞き届けられたのかはわかりません。
とにかく、今日、絶対無理だと思っていたことが起こりました。

今日お話したことのどこに、「お金」が存在しましょうか。
心の豊かさや幸せに、お金が必要ありましょうか。
私が追い求めていた願いは、近しい人の幸せだったのです。

健康でなければいくらお金があっても幸せを感じることはできません。

お金があれば幸せになれると思っている人は、健康な身体が与えられていることに気が付きません。

常々思っていることですが、人間って「不幸せの(不足)状態」にあるから、「幸せ」を感じられるし、不幸せ度が深ければ深いほど、幸せを感じる大きさも大きいのだと思うのです。

もし今、辛い中にいらっしゃるなら、自然の摂理は必ずバランスを取るようにできているから、それを信じて少し先の未来の自分のために、日々に感謝して、クサることなくただ励んでいれば、感じた辛さを覆い隠して消し去ってしまうくらいの幸せが必ずセットで用意されているということを、忘れないでほしい。

自分にとっての「幸せ」がなんなのかを明確に知ること。

これは、とても重要なことだと思います。

お金持ちになること。
お金持ちのパートナーに出会えること。
キレイになること。
成功すること。
夢を思い通りに実現させること.…

世の中には、そうすることが「幸せ」と勘違いさせてしまいがちな「成功論」が溢れかえっています。
もちろん、やりたいことを叶えるためには、そして、ある程度豊かな生活をするためにはお金は必要です。
でも、それだけを追い求めても、結局、使って失って終わりです。
この世は、人を喜ばせたり、親切にしたり、幸せにしたり、人を豊かにしていたら、回りまわって自分のところに「お金」という形で入ってくるよう設計されています。
だから、たくさんお金が欲しい人は、たくさんの人から感謝されるようなことをし続ければいいのです。
例え、道端に落ちているゴミを拾うということでもいい。
とにかく、人のためにやればやるほどお金は入ってきます。
始業ギリギリに行って、終業キッカリ帰るのに、報酬に文句言ってる人を多く見かけますが、それは、お金が入って来なくて当たり前の自然の法則に従っているのです。
世の中は、「人様を喜ばせて、人様のためになって、なんぼ」という仕組みで動いているからです。

私は今、仕事はしていませんが、ビニール袋を持ち歩いていて、ここにゴミがあったらあかんよな、って思う場所のごみ拾いをするようにしています。
コンビニでトイレをお借りしたら、次の人が気持ちよく使えるようキレイに掃除してから出るようにしています。
そして、コンビニの店員さんの名札に外国の名前が書かれていたら、「どこから来たの?」と聞いて、その国の「ありがとう」を教えてもらい、そのお国の言葉で「ありがとう!」と「がんばってね!」と言って彼(彼女)たちが心からの笑顔になるよう、声掛けをしています。
(注意:自慢話をしているのではありません。世の中が少しでも良くな欲しいと思っているからやっていることです。)

自分ができる、小さなことでいいんです。
不平不満を言う時間があったら、一人でも多くの人のために、自分の時間を使う。
そうしていたら、お金は自動的に回りまわって財布の中に入ってきます。
これは、自然の法則です。

ああ、「自分の幸せがなんなのか」という話からお金の話に脱線してしまっていましたね。

私の場合は、大きくて動かないと思っていた、妹の心、主人の心を動かせたことが、自分の気持ちをこんなに幸せにするんだなぁ…と気づかせてもらいました。

今日、本殿で拝む主人の姿に、涙が出そうになりました。
いくら私が代わりに拝んでも願っても、本人がその気にならなければ、変わるものも変わらないと思っていたし、本人がその気になる、ということが私が動かないと思い込んでいた「山」だったから。

本当に嬉しい一日でした。
帰りがけ、一緒に見れた2023年、秋の夕陽。

こんな日が来るとは思っていなかったからこそ、味わえた幸せ。
これは、本当に最上なんです。
これが当たり前に見られる人には、感じられない最上の幸せ感です。
だから、不幸せは蜜の味なんです。
不幸せを辛いと感じるのではなく、不幸せ中は不幸せという状態であり、心の状態じゃない、ということ。
心は目の前の一瞬一瞬の空や風や光や、目の前にいくらでも小さな幸せを感じ続けることはできるから、人から見たとか人と比べた不幸せな状態と自分の心を切り分けて時間を過ごすことができたら、最高ですね。

全てに感謝ができる時っていうのは、辛い時期を乗り越えることができた時だから。

そして、また次の旅路が始まります。

明日、主人はまた私をがっかりさせるかもしれない。
それでも、いい。
絶対無理と思っている山でも動くんだ、って、私に希望を感じさせてくれたから。
私は、毎日希望を捨てずに祈り続けるよ。

私の大海の一滴のような経験が、誰かの救いになったり、励みになったり、明日への希望になったりしたら、おばさん、今日まで生きてきたかいがあったってものです。

今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。
明日からまたお仕事の人は、一週間がんばってね。
心から、目の前の仕事を楽しんで、誰かを幸せにして、時々空を見上げて、時々気持ちのいい風を感じてね。

ほな、また明日!










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