震災とわたし

本当はもっと前にあげようと思ったんだけど
書き終わらず諦めていたところに
昨日の地震があったので
やっぱり載せることにしました。
すごく長いです。

3月11日

岩手に住む私にとって大きな出来事があった日。

何年間か自分は被災者ではないと思っていた。
家族を失ったわけでもなく
家を失ったわけでもない
わたしなんかが『被災者』を
名乗ってはいけないと感じていた。
自分より辛い状況の人が周りにたくさんいて
私なんかが「つらい」とは言えなかったし
むしろ大きな被害にあった人たちを
応援する立場だったし応援していた。

だから当時は地震の被害や津波の映像を見ても
「大変だなあ」とどこか他人事に思えて
あまり感情がなかったような気がする。

社会人になって震災のことを話した時
突然、恐怖や悲しみが込み上げて
涙が出るようになった。

それほど怖い思いをしたわけではないけれど
当時、高校生だった私の心に
それなりに傷を残していたと気付いた。
今、自分の経験をここに書くことで
あの時の自分の気持ちと向き合いたい。
そして誰かの為になってほしい。


高校2年生の春休み。
午後からの部活のために電車を待っていた。
電車を待つ駅のホームでカラスが
狂ったように鳴いていたのが気持ち悪かった。
憂鬱な気分で電車に乗ったが
携帯でゲームをし、約1時間半の通学をした。

学校に着くと年度末だからか珍しく顧問がおらず部員6人だけで練習を進めることになった。
練習場所は古い体育館。


そして14時46分

初期微動と後にものすごい揺れが起きた。
地震だと気付いてすぐに
体育館の横の鉄扉を開けた。
他の部員を扉の近くに集めて座らせたが
揺れが凄く、鉄扉が勝手に動いた。
必死で扉を押さえながら避難口の確保した。
揺れの中、他の部員は叫んで泣いていた。
扉を押さえながら外の様子を見ていた。
止めてあった車が縦に弾んでいた。
自動販売機が倒れそうだった。
その状況に笑ってしまったのを覚えている。

揺れの体感は1分くらい。
揺れが収まり顧問がやってきた。
揺れのせいか体育館の窓が全て空いていた。
顧問も動揺していたのか
「片付けをしなさい」
「早く体育館から出なさい」
「窓を閉めなさい」
「いつまで残ってるの!早く出なさい!」
と二転三転していた。

体育館から出ると学校にいた人たちが
みんな外に出て集まっていた。
「怖かったね」「びっくりした」
「親と連絡取れない」「メールならいける」
なんてみんな呑気に雑談していた。
先生が携帯のワンセグでニュースを見ていて
覗き込むと黒い水が町に流れている所だった。
私「地震なのに洪水ですか?」
先『津波だよ』
私「津波?これどこですか?」
先『これ岩手だよ。◆◆市。』
私「岩手?てことは〇〇町とか?」
先『そうだよ。岩手の沿岸全部。』

ここでようやく事の大きさを理解した。
〇〇町は私の祖母が住む町。
少しへらへらしていた自分が恥ずかしくなった。

家族の安否確認をメールでした。
母から返信がきた。
「お父さんは職場で無事。
お姉ちゃんとは連絡取れた。
おばあちゃんは連絡が取れない。」

その頃のうちの家族は
みんなバラバラの場所にいて
私は自宅から北に約50km離れた高校
父は自宅から南に約20km離れた職場
姉は大学生で宮城県仙台市に一人暮らし
祖母は岩手の沿岸住みという
そこそこ最悪な状況だった。

祖母のことも心配だったが
電車が止まっているという情報が入った。

電車通学をしている友達も多かったので
みんなでどうするか考えていた。

バスは動いているから
とりあえず駅に行ってみようか。
これまでの地震なら夜には電車が動いたし。

そんな話になっていった。

そんな時、1人の男の先生が
「桃春さん、お家◇◇市だよね。
電車止まってるし送っていくよ。
私の自宅もそこなんだ。」

絶対に送ってもらったほうがよかった
だけど高校生の頃の私の考えは浅く
なんとかなると思っていた。
むしろ知らない先生の車に乗ることが嫌だった。大丈夫、と言って断り、何人かで駅に向かった。

駅に着くと沢山の人が集まっていた。
だけどお店は全て閉まっていて
いつもの駅の様子と違った。
一応改札近くまで行くと
「運行の目処は立っていません」
みたいなことが書いてあった。
みんなで親に連絡して友達のほとんどは
すぐに迎えが来て帰っていった。

私は父が迎えに来ることになった。
高速道路が使えないから
約70kmある道のりを下道で来ることになった。


17時

日が落ちて、寒さが増してきた。
残ったのはジャージ1枚しか着ていない
野球部のマネージャーと私。
私は服を4、5枚着ていたので上着を貸した。
すごく仲がいいわけでもないので
会話が続かず苦しかった。

18時

野球部のマネージャーの迎えが来た。
一人になった。
毎日のように使う駅なのに
知らない人しかいなかった。
騒がしくて落ち着かない空気。
誰かを探していたり途方に暮れていたり
怒っていたり悲しんでいたりした。
不安で不安で仕方なかった。
そんな中、携帯の電池が残り20%になった。
電池が切れると親とも連絡が取れなくなる。
さらに不安になった。

ただずっと立っていたのでどこかに座りたくて
いつも歩く道をうろうろしていたら
駅ビルの中に降りていく階段を見つけた。
少しでも喧騒から離れたくて
誰もいない階段に座り、好きな音楽を聞いた。
不安で押し潰されそうだった。
大丈夫、大丈夫と自分を励まして待った。


すると突然

「おーい!そこの人ー!聞こえるー?おーい!」

階段の上の方から大きな声がした。
男の人の声だ。
私に話しかけているのかなあと思いつつ
変な人に絡まれたのかと思って
下を向いたままじっとしていた。

「そこに座ってる人ですよー!
そんなところにいると危ないよー!
聞こえてますかー!
…あ、あの子、イヤホンしてる。
音楽聞いてて声が聞こえないんだわ。
ああいう子が建物に潰れて死ぬんだよね。
死んでも知らないからね。(大きめの声)」

正確な内容は忘れたけどそんな言葉を言われた。
私は片耳イヤホン派なので全部聞こえていた。

お父さんと無事に会えるのか
家は大丈夫なのか
お姉ちゃんは何もなかったか
おばあちゃんは無事なのか
そんな不安が頭の中でいっぱいだった私には
苦しくなって泣きそうになった。
何も反応しなかった私も悪いとは思うけど
声の掛け方ってものがあると思う。
孤独に耐えながらひたすら父を待った。

19時過ぎ

ようやく父が迎えにきてくれた。
泣きそうだった。車が暖かかった。
街は停電で真っ暗で信号が動いていなかった。
父が車線を間違えて逆走しそうになった。


21時頃

家に着いた。
うちにはラジオも懐中電灯もなく
大きなろうそくで明かりをとっていた。
母にも無事に会えたが
姉とは連絡が途絶えたこと
おばあちゃんはわからないことを伝えられた。
この日は無事に帰れたことの安心感が大きく
後のことは覚えていない。


まだまだ続くけど、一旦おわり。


みんなは家族と
「どこに避難するか」
「もしも遠くにいた時は…」
「どうやって連絡を取るか」
をきちんと考えておいてね。
私は後から母に
「学校が避難所なのになんで待たなかったの」
と小言を言われました。

あと避難訓練は大事。
どれだけ実践に生かせるかは自分次第。
私は先生から言われた
「避難口の確保」と「頭を守る」
をしっかり実践できた。

バッテリー問題はちゃんと考えたほうがいい。

寒さ対策は暑さ対策より念入りに。

家に避難グッズはちゃんと用意しておく。

車にガソリンを入れておく。

日頃からお風呂に水を溜めておく。

そして、直後はやっぱりみんな不安。
声の掛け方、話す内容など
お互いに考えられるといいなあと思う。

次はお姉ちゃんの話と
おばあちゃんの話をいつかします。



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