妹の妊娠を素直に喜べなかった自分

すこし前、妹から「妊娠した」という連絡をもらった。

前触れもなく舞い込んだLINEのその言葉に、心臓が跳ね上がったような感覚におちいる。

ついに、この日が来てしまった。

昨年、わたしは流産をした。あれからというもの、「もしも今、妹に子どもができたら、果たして自分は喜べるだろうか?」という問いが何度か頭の中をよぎった。

しかし実際のところ、妹は「仕事を頑張りたいからまだ子どもは考えていない」と言っていたから、「まあ、あったとしてもまだ先の話だ」というところに着地させていた。自分の真っ黒い部分が見える気がして、それ以上は深く考えたくなかったのかもしれない。

その「もしも」が、思ったよりも早く来てしまった。

ちょうどわたしが流産してから、1年後のことである。

そこまで考えて、わたしはとりあえず指を滑らせて「おめでとう」と送り、その後すぐに自分の黒い感情を打ち消すかのごとく明るめのスタンプを追加した。

祝福するようなイラストのスタンプが踊る画面を閉じて、スマホを置く。

妹の妊娠が嬉しい気持ち、祝いたい気持ちが皆無なわけではない。

ただ、素直に、手放しで「嬉しい」とは、喜べなかった気がする。

その時点で妹は、既にわたしが流産をした週数を超えていた。何月に出産予定だということも記されていた。わたしが超えられなかった壁を超えたのだろうと思った。

「どうしてわたしはダメだったのだろう」

心の中で決着をつけたはずだった考えが、じわじわと湧き上がる。

どうして。なぜ。何が違ったのだろうか。

◇◇◇

その時にたまたま読み進めていた脳科学者の本に、こんなようなことが書いてあった。(手元に本がないのでうろ覚えだけど…)

子どもを産めない人は生産性が低いのではない。むしろ、子どもを産めない人がいるグループは結果的に出生率が上がるという調査もある。

ここでは実際のところ同性愛者について語っていたけれど、つまりは「子どもを産めない人」は「子どもを産む人」をサポートするので、グループ全体で見ると出生率が上がったり、幸福度が上がったりする…みたいな内容だったと思う。

そうか、と思った。

もしもわたしが個人として結果的に子どもを産めなくても、ヒトという種族として大きく見ればそれは大したことではなく、むしろ子どもがいないわたしが、例えば子どもを育てる妹をサポートすることは、結果的にプラスになるのかもしれない、と。

そう考えたら、イチ個人として子どもがいるかいないか/先にできるか後にできるかなんていう問題は、あまり意味がないことなのかもしれないな、と感じた。

もちろん、気持ちの面で「どうしてわたしはうまくいかないのだろう」という気持ちがなくなったわけではない。

だけど、そんなことに振り回されていては人生がもったいないという気持ちの方がだんだんと強くなってくる。

ヒトが生きることの意味は、究極的に言えば人類がこの先も生き残るためでしかなくて、そしてそれに関しては「自分が子を産む」という選択肢以外にもできることがあって。

だとしたら、今わたしはとにかく妹をできる範囲で支えてあげるのが良いのだろうな、と。

「できる範囲」はつまり、自分がつらくならない範囲で、ということになるけれど。

◇◇◇

妹は、もうすぐ出産を控えている。

妹の妊娠出産の話をすることについて、自分の気持ちがざわつかなくなったワケではない。けれど、わたしは今「無事に生まれますように」と願っている。

だって、子どもが生まれるって奇跡なのだ。

できるのも、できてからも、ちゃんと生まれるまで、そして生まれてからも、ずっと簡単なことではないのだ。それをわたしは、よくわかっている。

一方で自分が素直に喜べなかったのも、そんなに悪いことではないと思う。

仕方ない。だって、苦しんできたのだから。そして今も悩み苦しんでいるのだから。少しぐらいそういう気持ちが湧いたって仕方ないことなのだ。

自分の気持ちを押し殺すでもなく、責めるでもなく、それらとうまく付き合っていけたら。今わたしは、そう思っている。



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