夏が終わる、でもまた夏は来る(Mi)
そう思うしかない。
本当に今年はやるせない夏だ。というより別にやるせないのは夏だけじゃない。
新型コロナウイルスが出て、世界中で方針が定まらず、なんとなく苦しい。今年はやるせない年だ。
新型コロナウイルスが出たからこのnoteを始めたといっても過言ではない。新型コロナウイルスが発生してからじわじわとしんどくなり、現在完全に鬱だ。元々躁鬱で服薬もしてるけど、もうこの環境要因が強すぎて薬が効く効かないの問題じゃない。
実際、主治医も新型コロナウイルスで病状悪化してる人も出てきていると言っていた。逆に病状が安定してきている人もいるらしい。そういう人は新型コロナウイルスによる環境的不利よりもしんどい環境下に置かれていたんだろうなと思う。本当にお疲れさまです。
私がどうしてこんなに落ち込んでしまったのかといえば、新型コロナウイルスは私たちから「とりあえずなくても生きていけるもの」をことごとく奪っていったことに起因する気がする。結局、人間が生命を維持するためには衣食住が整って居ればとりあえず大丈夫なのだ。
マズローのピラミッドで個人的に思うこと
上のサイトから引用させていただいた画像なんだけど、医療系で働く人や学生は大体見たことがるこれは、マズローの5段階欲求というピラミッドで、人間の欲求は段階的に表れて行くんだということを表している(と思う)。
とりあえず、便利なウィキペディアさんを要約引用すれば(絶対課題とか論文でウィキペディアなんて引用しちゃだめだけど、個人的な日記だし許して!)
①生理的欲求 (Physiological needs)
生命を維持するための本能的な欲求で、食事・睡眠・排泄など。極端なまでに生活のあらゆるものを失った人間は、生理的欲求が他のどの欲求よりも最も主要な動機付けとなる。一般的な動物がこのレベルを超えることはほとんどない。しかし、人間にとってこの欲求しか見られないほどの状況は一般的ではないため、通常の健康な人間は即座に次のレベルである安全の欲求が出現する。
②安全の欲求 (Safety needs)
安全性、経済的安定性、良い健康状態の維持、良い暮らしの水準、事故の防止、保障の強固さなど、予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求。病気や不慮の事故などに対するセーフティ・ネットなども、これを満たす要因に含まれる。
③社会的欲求と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
生理的欲求と安全欲求が十分に満たされると、この欲求が現れる。
自分が社会に必要とされている、果たせる社会的役割があるという感覚。情緒的な人間関係についてや、他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚。
④承認(尊重)の欲求 (Esteem)
自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求。尊重のレベルには二つある。低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる。マズローは、この低い尊重のレベルにとどまり続けることは危険だとしている。高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。この欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じる。
⑤自己実現の欲求 (Self-actualization)
以上4つの欲求がすべて満たされたとしても、人は自分に適していることをしていない限り、すぐに新しい不満が生じて落ち着かなくなってくる。自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求。(ウィキペディア参照・要約)
という5つの欲求が存在することになる。
で、普段はこの欲求をわざと阻害してくるような環境は、まあ、人によってばらばらだけど、どこかの段階でそれを感じる人もいれば、それを感じていない人もいると思う。
だけど、今回の新型コロナウイルスが発生したことによって、大半の人たちの②安全の欲求までで強制的にストップさせられてるのを感じる。
それが上述した「なくても生きていけるものをことごとく排除」っていう意味なんだけど、じゃあ、衣食住がしっかりしていて、(ウィルス的な死亡の脅威はあれど)即死するような環境ではないから人間は満足できるかといえば否である、ということがマズローの5段階欲求を見たら分かる。②安全な欲求まで満たされたら③社会的欲求と愛の欲求に進みたがるのが人間なのだ。それはわがままとかじゃなくて欲求として動かされている。そもそも、②安全の欲求は新型コロナウイルスがいる以上クリアできない。
っていうか、こんなものを根拠に持ってこなくてもみんなしんどいでしょ?もう分かってるでしょ?
noteを始める前の私
私は無職だが、「結婚してルンルン♪専業主婦ライフ♪」という無職ではない。(間接的ではあれど)普通にコロナで職を失った。医療者なのにと言われるかもしれないけど、人間働く場所を選ぶ権利はあるので、自分にできない仕事をするよりも無職を選んでいる。だから、私の無職は自分のわがままが生んでいる結果でもあるので、コロナが全部悪い!とは全然言えないんだけど、コロナが無ければ仕事を続けている可能性は大いにあった。(どうして無職になったかの詳しくは身元ばれたくないので内緒で)
なのでぶっちゃけコロナが憎い。まじで。
私は自分の性格?病状?弱さ?柄、新しいところになじむのは苦手だし、できる仕事も限られる。病棟実習を2/3落とし留年してどうにか国家資格を取ったことを思えばいかに私が能無しかが分かる。
物事の大枠をつかんだり社会制度についてとかペーパーでの勉強はすごくできるんだけどなー。個別性とか言われる実地がなー。ペーパーペーシェントの記録を書くのですらお情けで合格もらってたからなー。という私は医療者として致命的。
そんな私が働ける場所を見つけて3年程継続して働いた。このままここで働いていきたいと思っていたけどコロナはそうさせなかった。
6月には完全に無職状態になり、家で家事をする毎日だった。まだ仕事を探そうという精神状態にもならなかったし、休養が必要だった。
主治医は「好きなことして遊んだほうがいいよ」と言ったが遊ぶ場所がない。コロナのせいで。
ひたすら家にこもる毎日。しんどかった。ほんとにしんどい。
どれだけ家にネット環境があったって、やっぱり五感をフルに活用した方が心は元気になる気がする。特に私は人と話して自分の思いを話したり、他人の思いを聞いて自分にはない価値観を得たりすることに快感を得る人間だから、新型コロナウイルスによって、対人関係を遮断されていくのはとてもストレスだった。
ストレスの根源になりやすい「仕事」をしていなくてもこれなんだから、仕事してる人はよりストレスだっただろうなと思う。でも、世の中的には「仕事があるだけいい」みたいに言われるから仕事の愚痴も言いにくいだろうな、と思うと本当に社会人しっかりされてる方や学生しっかりされてる方には無職としては頭が上がりません。
制約の中での対話
一緒に交換日記をしているyumenoちゃんとnote始める前、こんな会話をした。
「例えばコロナがなければあるはずのお祭りが全部潰れて、例えばお祭りがあることで「あー、8月なんだな」っていう感覚が全部潰されてるというか・・・。今が8月なんだという実感がわかない感じがする。カレンダーを見たら8月なんだけど、実感と現実が解離してる気がする。「じゃあ、今が何月なんだ?」って言われても特に分からなくて、なんだか毎日がぼんやりしている感じがする。メリハリがないというか」
「あーね、、いつも行ってるイベントで季節感じたり、だいたい月1で誰かと遊ぶことで時の流れ感じてたりしてたのに、コロナのせいで無くなって、いまを生きてる感覚が薄くなってるて感じかぁ。半年前は普通の日常で、そのとき当たり前にあると思ってたことがコロナでこんなあっさりぶち壊れるとかさ、なんか、どう自分が頑張っても逆らえない、抗えない逆境もあるんだぁて身にしみてわかって、やる気なくなるのもある」
「自分でどうすることも出来ないことなんだから、まじで何も出来ないのは当たり前なんだけど、それ一つ一つに無意識で無力感を感じてるのかもしれない。 すごい飛躍する比喩だけど、ずうっと精神科に入院してるみたい。代わり映えのしない景色やルーチン化された日常ばかりで段々と考える能力も揺れる感性も消えていくんじゃないかと思う。 イベントなんて何もなくても仕事して家があってご飯があれば生きていけるんだけど、本当にそれは生きてるのか?生命を延ばしてるだけであって生きてるとは違うのでは?みたいな哲学(笑)ばっかり考えちゃう」
「無力感ねぇ。自分が頑張ったってどうにもならないことでも、自分に関係ないわけじゃない以上、自分が役に立たない、いても意味ないみたいな感じがしちゃうんだろうね。その比喩はあながち間違いでは無いと思うわ〜ご飯とお風呂だけこなして、非日常のイベントとか不意打ちの出来事とかが無くても、1日は終わるし数ヶ月も簡単に過ぎるけど、それって、生きた日々って言えないような。そんな毎日を長い間続けてたら、たぶん、自分が本当にやりたいことを考えたり、不意に起こる出来事を楽しむ気持ちも無くなっちゃうんだろうなと思う」
こういう心のもやもやした話をきちんと腹割って話せるから、yumenoちゃんと交換日記をしようと思った。
今、私が生きている世界はもやもやしていて先が見えなくて縛られてるけどほどき方が分からない制約だらけだけど、その世界で生きていて揺れる感情や湧き出る思いをなくしたくないなと思った。
もちろん私の尊敬する友人たちと実際に会って思いを語り合いたい。きっとみんなこんな非日常が日常ととってかわったんだから思ってることはいっぱいあるはずだ。
だけど、新型コロナウイルスについて解明が進んでない以上、たくさんの人と会うことはできない。新型コロナウイルスそのものも怖いけど、かかったときに100パーセント村八分にされることが怖い。旦那は「新型コロナウイルスにかかったら仕事辞めるよ」と言っていた。夫婦そろって無職は困る。
だから、妥協でnoteを始めた。とりあえずここだけでも自分の思いを伝えられる場所があればまだ私は満足ができる。
新型コロナウイルスで制約があるなら、その中でできる最大限のことをするしかないのだ。
だけど、制約をかけられている以上しんどい思いは続くし、新型コロナウイルスは憎い。きっと私だけじゃなくて大多数の人が様々な面でしんどい思いをしているんだと思う。
新型コロナウイルスって厄介だと思ってたけど
新型コロナウイルスの厄介なところは人によって不安度がまちまちなところだ。私の考えは、「正直、かかることは怖いけど、それ以上に引きこもりすぎで死ぬと思うのである程度は感染対策をして人に会ったっていい」というものだ。しかし、人にとっては「家に大切な祖父母がいるからできるだけ私も外に出ずウイルスを持ち込みたくない」と思う人だっている。
どれも正解で、どれも正解じゃない。
だって、新型コロナウイルスには未解明の部分が多すぎるから。その人の生きている環境や職業や価値観によってその人なりの正解が出てくるのが自然なことだ。
だけど、人間は1つの正解を遵守したがる。特に日本人はそういう気質が強い気がする。「画一的な同じだけ優秀なもの」を美徳としている気がする。
しかし、新型コロナウイルスにはこの「画一的な同じだけ優秀なもの」という正解がまだ見つかっていない。錯綜している。
そうなるとどうなるか。
自分の価値観で正解だと思うものが「画一的な同じだけ優秀なもの」とすり替えられる。だから、似たような考えの人たちで、「画一的でないもの」を排除しようとする動きが始まる。
普段ならもう少し理性が利く人も新型コロナウイルスのストレスで主観的に物を見ている人も増えている気がして、それがより「画一的でないもの」の排除に拍車をかけている気がする。
新型コロナウイルスがはやり始めの時は緊急事態宣言のこともあったし「家から出ないこと。ウイルスをすごく怖がること」という考えが大多数を占めた。だから「いや、諸外国と比べたら日本で新型コロナウイルスの致死率低くない?」などとウイルスに対して自分の考えより軽視している人たちを徹底的に叩いている世論があった。
現在は「新型コロナウイルスは怖いけど、感染対策をすれば経済活動していかないと社会が死ぬ。だから感染対策を徹底しよう!」という世論が個人的に強い気がする。私は外では熱中症対策でマスクつけてないのだが、あからさまに舌打ちされたりする。
(1) マスクの着用について
マスクは飛沫の拡散予防に有効で、「新しい生活様式」でも一人ひとりの方の基本的な感染対策として着用をお願いしています。ただし、マスクを着用していない場合と比べると、心拍数や呼吸数、血中二酸化炭素濃度、体感温度が上昇するなど、身体に負担がかかることがあります。
したがって、高温や多湿といった環境下でのマスク着用は、熱中症のリスクが高くなるおそれがあるので、屋外で人と十分な距離(少なくとも2m以上)が確保できる場合には、マスクをはずすようにしましょう。
マスクを着用する場合には、強い負荷の作業や運動は避け、のどが渇いていなくてもこまめに水分補給を心がけましょう。また、周囲の人との距離を十分にとれる場所で、マスクを一時的にはずして休憩することも必要です。
外出時は暑い日や時間帯を避け、涼しい服装を心がけましょう。
(厚生労働省)https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_coronanettyuu.html
「こうやって厚生省も言ってるじゃん?」と私は思うけど、やっぱり大多数はそうじゃないのかもしれないし、もしくは、「厚生省の文章読んで外ではマスクしない勢」と「感染対策は徹底するべきだからマスクは必須勢」が拮抗してるのかもしれない。
拮抗していたとしても、やっぱり自分の考えが「画一的で正解だ」と思うから他の考えを「悪」として排除しようとするのかなと思う。
だって、例えば外を歩いていて、マスクしてフェイスシールドしてゴム手袋してガウン着てる人が前から歩いて来たら私ならぎょっとしてしまう。
だけど、その人の新型コロナウイルスに対する正解はそれなのだ。
私から「や、それは違うっしょwww」とは言えない。だって、まだ誰も新型コロナウイルスに対する正解を知らない。数か月後にはそのぎょっとしてしまった行動が世間の正解になることだってあり得るのだから。
結局怖いのはウイルスじゃなくて人では?
って思ってしまうよね。
教育水準が高かったり、丁寧だったり、日本人のいいところだと思う。そのいいところは国民全員が「一つの正解」に向かって切磋琢磨する、という気質が作り上げているのもなんとなくわかる。でも、それだけに頼るとすごく危ういんじゃないかって思う。
そういう気質が強いからこそ、その空間の「画一的」ではない人を悪としていじめとかがあるんだろうなと感じている。
今まで何度だっていじめで死んだニュースが出るけど、その時は「かわいそうだね」「いじめはだめだ」とみんなが画一的に言うけど、じゃあ、なんでいじめが起きるの?っていうところを腰を据えて話し合ってるところってあんまり見ない。ひたすら「いじめはだめなものだ!」ということを正解にしてみんなを同じ方向に向かせようとする。
それ、社会からの私たちに対する「いじめ」じゃない?と私は思ってしまう。
もちろん、いじめはだめだけど、そこに対して多面的に考えていかなければいけないんじゃないかと思う。
いじめてしまう子の心理ーひいてはそれにつながる価値観を作り上げる環境。そういうところを変容させていかなければ「いじめはだめなものだ!」と大多数で少数を叩く構図は変わらなくて、結局違う人が「いじめ」の対象になっていくんじゃないか?と思ってしまう。
今回の新型コロナウイルスによって、そういう「画一的な同じだけ優秀なもの」=「正解」という考えだけに頼ることがいかに脆いかということをまざまざと見せつけられている気がする。
パンデミックが起きると、起きる前後で世界中で生活様式が変わっていくらしい。今出ている新しい生活様式、コロナが終わったらなくなってほしいものも、残ってほしいものもいろいろあるけど、今まで主流だった「正解がないことに無理やり正解を作ってのけ者を叩く」という社会の構図は変わっていってほしいなと思う。
この考え方が変容すれば、いじめとかって自然と減っていかないかな。
「私は○○が正解だと思うけど、あなたは××が正解だと思うのね」という相互理解がいじめを減らしてくれないかなと思っている。
「みんな同じ正解に向かって努力する」「それぞれの正解を否定せずに受け入れる」これのバランスをとってより生きやすい人間関係が作っていければいいのになって思う。
本当に今年はやるせない夏だ。だけど、来年も夏は来る。来年の夏が今よりも良くなっているのか悪くなっているのかなんて誰にも分からないけれど、少しでも大多数の人が生きやすくなっている世界に変わりつつあればいいなと思う。
結論、コロナ憎いけど希望を持って生きるしかないな
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