天気の子とバルス。


『天気の子』やっと観た。2回観た。
というわけで、頭の中をぐるぐるしてるいろいろを書き出す。

『君の名は。』と同じようなものを見たかったわけでは決してないはずなのに、
初見では全部『君の名は。』と比べながら観てしまった。
2回目の方が純粋に楽しめた。

そういえば瀧くんと三葉が出てくる、っていうのは聞いてたけど
せいぜい街の風景の一部的なものだと思ってたのでふっっつーーに爽やかに登場してきたので(瀧ぐうううんんんんん!!!!!)と内心叫んでしまった。
三葉が出てきた時も(ウワアア三葉ーーーーーーーはよ瀧くんと再会してえええええええええええ!!!!!)とサイレント発狂した。
どんだけ前作好きやねん。

さて今作。
「えっ、あっ、そうくるのね????」となったラストで考えが止まらなくなり、パンフレットや色んな人の考察や新海監督のインタビューを見たり。

映画を観る前から、主題歌である「愛にできることはまだあるかい」はめちゃくちゃ聴いていて。

すっっっごい名曲なのは間違いないんだけど、
ただ(なんか暗いなあ)と感じていた。悲壮感や絶望が前提にある気がして。

でも映画の最後を観て、ああ、そうか。と思った。
こういう世界の歌なのか。
やばい沁みる。

結末を知ったうえで序盤の帆高のモノローグを聞くと重みが段違い。

だけど全体通して、陽菜と帆高に感情移入することはなかったかも。
登場人物にシンクロするっていうより俯瞰して見てた感じ。
(あああ〜〜〜〜〜しんどい〜〜〜〜〜)ってなったのはラブホに泊まるとこ。
あそこは しんどい of しんどい。

ところで、「雲の中って実は…」という話を聞くと
「ラピュタやな!?絶対ラピュタあるやんな!!??」となってしまうラピュタ脳なので、ラピュタオマージュかな?と感じる部分がちょいちょいありました。

彼岸(陽菜が人柱になった不思議な空間)も、シルエットだけみたらラピュタだし

彼岸から下界(?)に戻るとき帆高と陽菜が落ちていくとこは千と千尋を思い出しつつ、でも「バルスか?」と思ったり…

ってか、あ〜〜〜〜〜、
なんで帆高に感情移入できないのかわかった。
帆高はたぶん、陽菜と一緒にバルス言ってくれない。
言ってくれないというか、一緒にバルスしてるのが想像できない。

パズーはシータに「俺も一緒に(滅びの呪文を)云うよ」っつって死ぬ覚悟を見せて一緒に戦ってくれたわけで、
瀧くんも電波ジャックとか発電所爆破計画とか御神体まで突っ走っていったりとかしたのでたぶんバルスしてくれる。(希望的観測)

要するに好きな子のために危険をおかして体張ってる、っていうのが描かれてるわけで。

帆高は警察から逃げたり銃で発砲したり、ちょっと違うんだ。

鳥居のあるビルまで走ったのも、あれはがんばってるのであって好きな子のために体張ってるわけじゃないから。
ちがうから。


『天気の子』は世界の崩壊を止めるお話ではなく、世界(の均衡とか平和とか)よりも好きな子を選ぶっていうのがミソで、
監督自身も「帆高のほうがおかしくなっていく」てインタビューで言ってたからこういうかたちになったのかなあ。

あと、なるほどな~~~と思ったのが、
陽菜に投影された「理想の女性像」という解釈↓
https://voicy.jp/channel/593/54146
(2こめのチャプターで天気の子について喋ってる)

もし霜田さんが言うような、新海監督の、
あるいは男性が抱くある種の「理想の女性像」によって陽菜がつくられていったのであればあんま好きになれない。
なに考えてるかわかんないし。

河了貂みたいな子がいい。

(だいぶ治安の悪い村で育った過去を持ち、後に軍師となるハイスペ女子である)

まとめ。

いや、なんかゴチャゴチャ言ってすいませんて感じだし、「君の名はの方がよかったー」て比べるのもナンセンスだと思うんだけど、
それでもやっぱりあれだけインパクトある作品の次、ってなるといろいろと意識したり期待したり、っていうのは逃れられないなあっていう。

でもそういう期待がゴチャゴチャあったおかげで、
パンフ読もうと思ったしいろんな人の解釈や感想も見て「なるほどなー」って思って楽しめたかも!

小説版にもっと細かく描写されてるらしいのでちょっと読んでみようかなーと思ってる。

以上!
お粗末でした~。

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