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物語『逆再生で気付く愛』

今日も残業。
パソコンの電源を落とし、立ち上がろうと足に力を入れた矢先に電話が鳴った。反射的に受話器を取ってしまう。

「お電話ありがとうございます」

就活の軸を聞かれて、人に寄り添う仕事がしたいと一点の曇りもなく答えた私は、お客様を第一に考え、相手の望みを叶えることができると思って接客業についた。でも、時には”できない”としっかり伝えて納得してもらうことも、仕事なのだと知った。

自分が多少無理をすれば叶えられることや、当日のメンバー次第では対応できることもある。だけど、それを継続できなければ意味がない。

サービスという形のないものを売っているからこそ、いつでも誰にでも応えられなければ不公平になってしまう。善意で受けてしまった1度の特例が、お客様の当たり前レベルを引き上げ、スタッフに負担をかけてしまうのだ。

電話口で「それくらい、いいじゃない」とイラつくお客様に同意するのは簡単だ。

私だって目の前のお客様を笑顔にしたいし、喜んでもらいたい。でも、お客様と同じくらい一緒に働くスタッフも大切。

そんな葛藤を繰り返しながら、あっという間に数年が経った。

”理想と現実”という言葉が頭をよぎる。それぞれの様子を見ながら、バランスをとって立ちまわる私は、ちゃんと社会人に見えているのだろうか。

「ふぅ・・・」
「ため息出てますよ!」

電話が終わってうつむく私の両肩を、ポンと叩く手。振り返ると、後輩のしおりがニコッと笑った。

「大丈夫。ありがとう」
「もー、先輩。あんまり頑張りすぎないでくださいよ」

しおりは人懐っこく、あっけらかんとしているようで、周りをよく見ている子。飲みの席で彼女をとても信頼していることを伝えると、先輩みたいになりたくて頑張ってるんですよ、とくすぐったそうに笑っていた。私が先輩らしくあろうと頑張れるのは、彼女がいてくれるからだ。

出口に向かいながら、振り返る。

「しおりちゃんは、まだ帰れなさそう?」
「1つ仕上げたいものあるので、これだけやっちゃいたくて。19時には必ず帰りますね」

残業時間を気にする私を安心させるように微笑むしおりに手を振り、会社を後にした。

無意識にスマホのメッセージを開きかけ、時間だけを確認して鞄に戻す。何も考えずとも動く足に任せて、プラットホームまで向かう。スーツを着た人たちが作る列に、ぼんやりと流れ着いた。
毎日がこの繰り返しだ。

「今から行くね」

”いつものカフェ”でお気に入りのコーヒーと文庫本を片手に待つ彼は、もういない。休日が違う私たちは、なんとなく待ち合わせを決めてカフェでのんびり過ごした後、その日の空気感で何パターンかのルートを辿る。

休日の予定も、どちらの家に行くかも、全てが流れるように決まっていて、お互いに何も言わなくてもいるのが当たり前。
そうやって積み重ねた時間は、気付かないうちに少しずつ少しずつずれていて、ある日バランスを崩した。

決定的な何かがあったわけでもなく、ある日当たり前のように終わった。

別れた理由はわからないけど、意固地で疲れが溜まると頭が固くなる私を、彼が支えてくれていたことはわかった。コップがいっぱいになる前に、彼が少しずつ水を抜いてくれていたことを。

今でも時々考える。
何が、いけなかったんだろうと。

でも、彼と別れて、人は思ってるより強いことも知った。彼がいなくなってから、私は自分の性格を自覚し、自分でどうにかできるようになった。

電車を待っていた私は、人波に逆行してカフェに向かう。久々にチャイが飲みたい。

「いらっしゃいませ」

いつもの席を癖で確認してしまう。
知らない誰かがパソコンを開いて、一心不乱にキーボードを叩いているのが見えた。

そういえば、1人で店に入るのは初めてだと気付いてメニューを眺めていると、声をかけられる。

「いつもご来店ありがとうございます。何になさいますか?チャイがお好きでしたら、新作もおすすめですよ」
「え?」

私は思わず顔をあげた。
TANAKAというネームプレートをつけた彼の顔を見たのは、初めてだった。

いつも、注文窓口に立つと間髪入れずに注文し、席に鞄を置いて飲み物を受け取る。そこに店員がいることも、他にメニューがあることもいつからか考えなくなっていた。

私が初めてチャイを飲んだのはここだった。
初めて連れてきてもらった時、彼に合わせてコーヒーを頼んだけれど、私には苦すぎた。2度目に行った時、ちょっと通ぶりたくて頼んでみたのがチャイ。スパイスのきいた独特の香りと味は、その温度と共に疲れた体に染みわたる。

「私、思ったより疲れてるんだ…」
「え?」
「あ、すみません…じゃあ、その新作いただけますか?」
「かしこまりました。いつも通りマグカップでよろしいですか?」
「え?あ、はい」
「では、カードをこちらにどうぞ…お飲み物はあちらからお渡しさせていただきます。ごゆっくりお過ごしください」

田中さんの流れるような対応に戸惑う。
私がいつもチャイを頼むことも、マグカップで出してもらうことも、支払いをカードですることも、全て把握してくれていた。それなのに、私は田中さんの顔すら覚えてはいなかった。

今まで当たり前にできていたことは、もしかしたら周りの誰かが私に合わせてくれていただけだったのかもしれない。

彼と出会った頃、私は人と長く一緒にいるのが苦手だった。半日一緒にいるだけで疲れて話したくなくなるのに、彼だけは1日中いても平気だった。
過ごす時間が長くなるにつれ、何も言わなくても伝わることが増えていった。

でも、田中さんがそうしてくれているように、私の様子を見て合わせてくれていたのだとしたら?

ぼんやりとした思い出の輪郭が、少しずつ明確になっていく。

彼との待ち合わせが決まるのは、いつも電話だった。稀に私から電話をすると、必ず翌日がカフェの日になった。そして、私が言ったことすら覚えていないお店やイベントを調べて、連れて行ってくれた。

1つ思い出すと、いろんな会話の断片がフラッシュバックする。あれもこれも私のためだったことに、気付けなかったなんて…

私は彼の思いやりや気遣いを当たり前にして、ただの風景にしてしまっていた。その優しさに甘えて、胡座をかいて、無自覚に彼を振り回して。

でも、彼がそうして私を愛してくれたから、私は自分らしくいられるようになったのだと思う。そういえば、友達と定期的に旅行に行くようになったのも、彼と付き合ってからだった。

確認のできない彼の本心と、伝えることのできない自分の想いに向き合う。

彼は最後、どんな顔をしていたんだっけ…

窓際のカウンター席に座って、駅の構内を行き交う人々を眺める。目に留まるのは、彼に似たスーツ姿。

どうして一緒にいる時に、せめて最後の瞬間までに気付けなかったんだろう。

「好きだったなぁ…」

思わずこぼれた言葉を飲み込むように、新作のチャイを一口飲むと、フルーツの甘い香りがふわっと広がる。その甘みは罪悪感や後悔で冷たくなった心を、じんわり温め、緩めてくれた。

ペーパーナプキンを取ろうと席を立つと、先程の田中さんと目が合う。小さく会釈をすると、にこりと微笑んでくれた。

席に戻った私は、マグカップの温かさを両手で感じながら、彼への感謝とこれからの幸せを心から願った。

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