179.青春の餅つき

本稿は、2020年12月26日に掲載した記事の再録です。

今から、45年前の昭和50年(1975年)、私は高校1年生でした。東京の西の郊外の新興住宅地に住んでいました。

ある日、学校で仲良しになったひろみちゃんと年末年始の話していたら、農家のひろみちゃんの家では毎年暮れになると近隣の人たちみんな大勢集まって餅つきをすると言うのです。私は、餅つきは幼稚園の行事で一度やったことはありますが、実際に生活に根ざした餅つきというのは経験がありませんでした。

私の家も大阪の祖父母の家も、お餅は暮れにお米屋さんが届けてくれていました。大きなのし餅がまだ柔らかいうちに届けられ、母が体重をのせながら包丁で縦横に切ってくれました。

もちろん鏡餅も届けられました。大きな鏡餅は、二段に重ね、その上に葉のついた橙を乗せ、三方と呼ばれる台の上に乗せて昆布を垂らして居間に据えられました。小さい鏡餅には、小さめのみかんを乗せて、まだ箱型をしていたテレビの上や、玄関などあちこちに置かれました。

それでも自分の家でお餅をつくという経験は一度もないという話をひろみちゃんにすると、じゃ、今年はうちに来て一緒にお餅つきをしない?と誘ってくれたのです。高校の学区は広く、市外から通学している生徒もたくさんいました。

私は都心部とは逆の、西の方角にある高校までバスと歩きで片道1時間以上かけて通っていましたが、ひろみちゃんの家は、高校を挟んでちょうど反対側、つまり高校よりもさらに西の方角にありました。ひろみちゃんも同じく1時間以上かけて通学していました。つまり私たちの家はバスを乗り継いで2時間半くらい離れていました。

◇ ◇ ◇

年末の29日だったと思いますが、朝早く起きて、始発の次くらいのバスに乗って、2時間半かけてひろみちゃんのお宅へ向かいました。辺りの風景がどんどん変わって、小学校の遠足の時に男子が「田舎の香水だぁ」と大騒ぎしていた芳醇な香りがあちこちから漂ってきました。

私は小学校4年生の時に、みんなで担任の先生の家に遊びに行ったときのことを思い出しました。辺りは畑ばかりで、先生のお宅には馬小屋があって、茶色い馬が2頭いて大層驚きました。バスが走っているのはそんな農村風景でした。高校の学区は広いと改めて思いました。

その日はいいお天気で、ひろみちゃんの家の付近のバス停で降りると、あらかじめバスの時間を伝えてあったのでひろみちゃんが迎えに来てくれていました。養鶏場などもある道を進んでいくと、そこは昔から大きな農家がたくさんある地区で、その中でもひときわ大きな農家がひろみちゃんの家でした。

私の家は父方の祖父も、母方の祖父も転勤族で、親戚には農家がなく、全員が街中に住んでいました。通っていたマンモス中学も桑畑の中を通っていったとはいえ街中にあったので、私にとっては初めて足を踏み入れる大きな農家でした。座敷童子が住んでいてもおかしくないような魅力的な家屋でした。

私が着いた頃には、既に餅つきは始まっていて、ひろみちゃんのご近所5、6軒の方々が集まっていました。各家庭、ご主人、奥さん、おじいさん、おばあさん、そして若者や子どもたちが大勢が出ていて、お祭りのような雰囲気でした。

母屋の他に納谷や農機具の格納庫、それに土蔵などに囲まれた広い中庭には、ゴサや筵が敷かれていて、蒸し上がったばかりの餅米が湯気を立てており、その横では、本物の臼と杵で掛け声も高らかにお餅をついていました。

白い割烹着に姉さんかぶりをしたお母さんたち皆さんに歓迎していただき、私も杵を持たせてもらって、へっぴり腰ながら餅つきの体験をさせてもらいました。臼でお餅を捏ねるおばさんの手をついてしまわないかと、そればかりヒヤヒヤしながらの餅つきでした。

つきあがったお餅は、その場でどんどん鏡餅やのし餅にしていきました。後半は、くるくる丸めて、あんこやきな粉や大根おろしでその場でいただきました。勧められるままに私もどれだけ食べたかわかりません。お正月が来る前だというのに、もう1年分のお餅を食べ尽くしたという感じでした。

父から「子どもの頃、この世で一番うまいものは餅だった」と聞いて、私には理解できないと思っていましたが、ひろみちゃんのお宅でいただいたお餅は確かにこの世で一番おいしい食べ物と言っても過言ではありませんでした。

子どもの頃のお餅は、今よりもずっとステイタスが高くて、餅と言ったらご馳走だと思っていた人は多かったように思います。「正月の餅代」という言い回しもよく耳にしました。父だけでなく、子ども時代に食べたお餅を懐かしむ声はよく耳にしました。

「どこの家庭でも、手軽につきたてのもちが食べられるもちつき機ができないか」と家庭用餅つき機を最初に販売した東芝のサイトによれば、最初に農家用の餅つき機を開発したのは昭和37年(1962年)で、「蒸す」「つく」が一台でできるようになった大ヒット商品「もちっ子」を売り出したのが、昭和46年(1971年)のことでした。昭和51年(1976年)には100万台近くも売れたそうです。それほどお餅は日本人の心を捉えて離さなかったのでしょう。

子どもの頃を振り返ると、三が日は毎日お雑煮で、毎回、3つ、4つお餅を食べました。祖父など若い頃には一度に10個ぐらい食べたものだとよく話していました。三ヶ日が終わっても、火鉢の上のかけた網の上で焼き餅にして焦げたお醤油の香りのするお餅を海苔で巻いて食べたり、前日から魔法瓶の中でふやかしておいた小豆を煮て鏡開きのおぜんざいにしたり、かき餅や揚げ餅を作ってもらったりと、楽しみはいつまでも続きました。

しかしながら、当時お餅の最大の問題はカビでした。三ヶ日が過ぎてしばらくすると、のし餅には青カビが、鏡餅にはひび割れができました。母や祖母はお餅のカビは食べても毒じゃないなどといいながら、包丁でこそいでくれましたが、やはりあまり気持ちの良いものではありませんでした。

また、鏡餅のひび割れは向田邦子のドラマ「阿修羅のごとく」で、
「このひび、何かに似てない?」
「お母さんのかかとだ!」
という姉妹の会話が今も印象深く残っています。

◇ ◇ ◇

お正月にしか食べられないお餅、青カビやひび割れのお餅の問題を解消したのが、個別包装の切り餅でした。

「サトウの切り餅」の歴史について書かれたサイトを見ると、現在のサトウ食品がその前身の佐藤勘作商店だった頃に、初めてカビを防ごうと包装餅に挑戦したのは昭和38年(1963年)のことでした。しかし、当時は餅のとり粉に防腐剤を混ぜたのが食品衛生法に抵触して業界は壊滅的な打撃を被ったといいます。

しかしその後、ハム型包装、のし餅の縦横に筋を入れて簡単に割れるようにしたリテナー成型板餅など試行錯誤を繰り返し、ついに昭和48年(1973年)レトルト殺菌釜、ロータリー真空機、三連包装機、耐熱性資材を導入して半真空状態で1年間保存することができる大ヒット商品の「サトウの切り餅」を完成させました。西川峰子の「♫もちもち、も〜ちもち」というCMで大いに売れ、生産も3万トンへと飛躍的に伸びました。

その後も企業努力を続け、個別包装や鏡餅の中にシングルパックのお餅を詰めるなど、今日では災害時の非常用食品としても重宝されており、多くの家庭に普及しています。

私がひろみちゃんの家で餅つきに参加させてもらった昭和50年(1975年)は、今振り返ると、家庭でお餅をついたりお米屋さんが届けてくれていたお餅から、スーパーマーケットなどで購入する個別包装のお餅になるちょうど過渡期でした。

今もひろみちゃんのお宅では餅つきをしているのでしょうか。お互い別々の大学に進学して、年賀状の交換もいつしか途絶えてしまいました。あの日優しく私を迎え入れて、帰りには重くて持ちきれないほどのお餅のお土産を持たせてくださったおじいさんやおばあさん、そしてご両親もすっかり世代交代したことでしょう。なにしろ16歳だった私たちが61歳になっているのですから。

◇ ◇ ◇

あの日の思い出には続きがあって、ひろみちゃんのご近所の一軒に、私たちと同じ高校に通っている男子生徒がいました。彼は餅つきでも大活躍していました。そのあと彼は幼馴染のひろみちゃんに何だったか、何かを「うちに取りにおいでよ」と言い、その時が初対面だった私はまったく関係ないのにノコノコついていきました。

同学年の男子生徒の部屋に入るのは私にとってはそれが初めてで、ちょっとドキドキしました。彼の部屋はきちんと整理整頓されていて、壁には私の知らないスポーツ選手のポスターと三角のペナントが何枚も貼ってありました。私たちはお餅でお腹一杯だったので、出してくださった緑茶をいただきながら少しひと休みしていると、彼がラジカセで「なごり雪」のテープをかけてくれました。

あの日あの時、窓越しに庭の枯れ木を見つめながら、私たちは三人三様、それぞれが、自分の好きな人のことを思い浮かべながら、イルカの「なごり雪」を聴いていたと思います。私は今でも時々かかる「なごり雪」を耳にするたび、あの日のお餅つきの光景が目に浮かんできます。

<再録にあたって>
ここ何年かは、私の家では近所の和菓子屋さんに切り餅を予約して購入しています。和菓子さんのお餅は伸びが良く、スーパーのお餅とは舌触り、歯触りが違うように感じます。それでも高校生の時にひろみちゃんの家でついた、あの時のつきたてのお餅にはかないません。


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