067.白鳥の湖

今年は多くの人々にとって苦難の一年となりましたが、舞台芸術関係者の方々にとっても大変な一年でした。私はバレエが好きなので、今年も劇場でのバレエの公演を楽しみにしていましたが、コジョカルとポルーニン、パリ・オペラ座の「ジゼル」を観ただけで、チケットを購入していたほとんどの公演が残念ながらキャンセルとなってしました。

今年は、モーリス・ベジャール・バレエ団が来日して、ベートーヴェン生誕250年祭を祝う「第九交響曲」や、「バレエ・フォー・ライフ」それに「ボレロ」、オペラ座VSロイヤルの夢の共演〈バレエ・スプリーム〉、それにボリショイバレエ団の「白鳥の湖」「スパルタカス」などを楽しみにしていましたが、すべて公演中止となりました。いずれも何度も観た演目ですが、それでも楽しみでした。

再度の仕切り直しも試みられましたが、欧州のバレエ団の来日公演は難しく、関係者の努力も虚しく、結局すべて中止となってしまいました。それでも、私たち観客には払戻しがありますが、バレエ団の団員、演奏するオーケストラの方々、興行主などは大変な思いをされたことと、心よりお見舞い申し上げます。私もわずかながらの寄付を致しましたが、一日も早く元のようなバレエの公演が再開されることを祈ってやみません。

私は子どもの頃からバレエが大好きで、小さい頃は大きくなったらバレリーナかピアニストになりたいと思っていました。成長するにつれて、結局、どちらもただの観客となってしまいましたが、それでも観客としてバレエやピアノに触れることができるのは実に幸せなことだと感じています。

◇ ◇ ◇

昭和40年(1965年)頃、私は近くの公民館で土曜日の午後、週一回行われるバレエを習い始めました。まだ小学校に上がる前でした。私の発表会のデビュー曲は「おもちゃのチャチャチャ」でしたから、これをバレエと呼んでもいいものなのかは大いに疑問ですが、それでもきれいなヒラヒラしたピンクのスカートをはいて、音楽に合わせて踊るのは子ども心に嬉しい時間でした。

当時は、オープンリールのテープレコーダから流れてくるピアノ曲に合わせて、一番や五番の足のポジションを学びながら、足を上げたり後ろへ伸ばしたりの基本練習をしたり、先生の振り付けをできるだけ正確に踊れるように努力していました。アン、ドゥ、トロワの掛け声は、後にフランスかぶれとなる下地を作っていきました。

小学校に入り、お遊戯からバレエと呼んでもおかしくないレベルに少しずつ進化していきましたが、憧れのトゥシューズはまだまだ履かせてもらえませんでした。子どものうちは骨が変形しやすいのでもっと大きくなってからというのがその理由でした。

それでも、トゥシューズへの憧れは日に日に高まるばかりで、私は練習が終わってからよく先生に「いつから履けるようになるのですか」と聞いては「五年生になったら相談しましょう」というやり取りが合言葉のように繰り返されました。バレエシューズしか履かせてもらえなくても、年一度は、きれいなバレエのコスチュームを着せてもらって市民会館のような大きな舞台に出られるのは楽しみでなりませんでした。

三年生になった頃、いつもように「いつになったらトゥシューズ」のやり取りをしていたら、先生が「これは古いトゥシューズだけれど、よかったらどうぞ」とやや小ぶりのトゥシューズをくださいました。

天にも舞い上がる気分とはこのことで、私にはぶかぶかのトゥシューズの先っぽにティシュ、いえ当時は「ちり紙」を丸めて詰めて、ピンク色のリボンを足に巻きつけました。トゥシューズを履いた足は、自分で眺めるだけでもうっとりとしました。二階の畳の上で、恐る恐るトゥシューズで爪先で立ち上がると、気分はもうプリマドンナで、魔法をかけられてガラスの靴を履いたシンデレラのように、世の中の光の量が倍増したように感じられました。

◇ ◇ ◇

ちょうどその頃、母がどこからか上野の東京文化会館で行われるバレエ「白鳥の湖」のチケットを手に入れてきました。ソ連のボリショイバレエ団のチケットでした。チケット代金が3,500円だったことをよく覚えています。昭和42年(1967年)の高校卒業の国家公務員の初任給が18,400円という時代の3,500円でしたから、それはものすごく高額なチケットでした。

しかし今回、上野の東京文化会館のアーカイブを調べてみると、私が小学校2年生だった1967年から4年生だった1969年までの間には、ボリショイバレエ団の来日はなく、ソ連のバレエ団で来日公演があったのは1967年7月のソ連国立レニングラード・バレエか、1968年1月のマヤ・プリセツカヤか、1969年のレニングラードバレエの3つに絞られることがわかりました。

私は半世紀以上もの間、初めて観たバレエはボリショイバレエだと固く信じていましたが、おそらく連れていってもらった公演は、1960年代にボリショイ劇場のプリマ・バレリーナとして活躍したマヤ・プリセツカヤの来日公演だったと思われます。チケット代金も3,500円であり、群舞が日本人だったという記憶とも合致します。長い間、なぜボリショイバレエの群舞が日本人だったのだろうと疑問に思いつつも、日本のバレエ団との合同公演だったのではと自分を納得させようとしてきましたがようやく謎が解けた気がします。

とにかく、私はこの公演を観て以来、体が化学変化を起こしてしまったようになり、もはやかつての自分とはまったく違う人間になってしまいました。笑われるかもしれませんが、私は、人は大きな衝撃を受けると、本当に細胞レベルで化学変化を起こすのではないかと思っています。

この時、私の体を変化させたのは、実はバレエそのものというより、チャイコフスキーの「白鳥の湖」の音楽でした。ロシアの大地の香りが漂うチャイコフスキーの「白鳥の湖」を、私は彼の最高傑作だと思っているのですが、有名なオーボエの旋律は元より、様々な楽器の音色と音色とが織りなすハーモニーや、多彩に展開していくあらゆる部分が、まだ小学生だった私の細胞ひとつひとつに刻み込まれていきました。

◇ ◇ ◇

5年生か6年生の時、夕方6時からの「ルパン三世」の再放送を見ていたら、峰不二子がチャイコフスキーのピアノ協奏曲を弾くというシーンがありました。私は全身が反応して、この曲は一体どこの誰が作った曲なのかどうしても知りたくて堪らなくなりました。翌日学校で、昨日のルパン三世の曲名を誰か知らないかと聞いてまわりましたが、誰も知りませんでした。

その時、私はみんなに「もし誰かその曲の名前を調べてくれたら5,000円の謝礼をする」と宣言しました。私のお年玉の貯金総額でした。どうしてもあの華麗な曲の題名を知りたかったのです。でも5,000円の懸賞金にもかかわらず、結局その時は誰も知らなくて、曲名も作曲者名もわかりませんでした。

私は、その後もたびたびチャイコフスキー反応を起こしました。街中などで、突然耳に飛び込んできた曲に全身が反応してしまって、耳コピで覚えてあとで調べてみるとチャイコフスキーだということが何度もありました。ショパンやベートーヴェンでは起きず、チャイコフスキーの曲に限って細胞がそばだちました。

◇ ◇ ◇

小学校5年生になる時に私の家は引越しをしてしまったので、もうバレエの教室に通うことはできなくなりました。あれほど憧れていたトゥシューズを履いてのレッスンを受けることはできませんでした。残念でなりませんでしたが、仕方のないことでした。それでも母は時々バレエに連れて行ってくれました。

当時、バレエといえば東京文化会館に決まっていましたから、バレエの公演の日は、ピアノの発表会の時に着るきれいな服を着せてもらって上野へ連れていってもらいました。上野駅の公園口のすぐ目の前には東京文化会館の楽屋口があり、そこで母に付き合ってもらって花束を持ってバレリーナが出てくるのを待っていたこともあります。

しかし、中学校、高校と進学するうちに、次第にバレエの公演に足を運ぶことも少なくなっていきました。

◇ ◇ ◇

高校生の時、NHKで放映されたバレエ「白鳥の湖」を、ひとりキッチンの白黒テレビで観ていたら、途中から涙が止まらなくなり、最後はしゃくりあげながら観たことがありました。子どもの頃の幸せがすべて、この曲とこの振付けに封じ込められていて、それがほどけて辺り一面にキラキラと煌めきながら流れ出てきたように感じました。

その時、「バレエを観ずに一体何の人生だろう」と感じました。私にとって生きることとバレエを観ることを切り離すことはできないのだと感じました。

◇ ◇ ◇

その後、数え切れないほどのバレエを観てきました。学生の頃や、二十代の頃はアルバイトで稼いだなけなしのお金や、雀の涙ほどの初任給でバレエに行きました。あの頃は、チケットを買うのが精一杯で、せっかく「世界バレエフェスティバル」に行っても、高価なパンフレットを購入する余裕はありませんでした。それまでソ連のバレエしか観たことのなかった私の目には、各国のバレエ団のダンサーはとても新鮮に映りました。

プリセツカヤ 、エフドキモワ、マクシーモワ、ノエラ・ポントワ、マリシア・ハイデ、そしてジョルジュ・ドンなど、多くの歴史に残るダンサーをこの目で観る機会に恵まれました。アレッサンドラ・フェリの「ロミジュリ」や「マノン」も忘れることができません。

ボリショイ、マリインスキー、レニングラード、パリオペラ座、英国ロイヤル、シュツットガルト、ミラノスカラ座、ABTなどのバレエ団、マリウス・プティパの古典作品からバランシン、マクミラン、キリアン、ベジャールなどの振付家の見たことのない新しい振付に心を奪われてきました。

当時のチケットは窓口で並ぶか電話予約しかありませんでしたから、予約開始日には半日電話の前に座り込んでひたすら電話をかけ続けました。大抵は土曜日発売でしたが、たまに平日のときは、公衆電話だと繋がり易いという噂に賭けて、仕事を抜け出して公衆電話にしがみつくように電話をかけ続けたものでした。リダイヤル機能などない時代でした。

「遊ぶ金欲しさ」などと表現されることがありますが、私は「バレエ観る金欲しさ」に働いていると思いながら生きてきました。バレエは私にとっては点滴のようなもので、どんなに疲れ果て、弱っていようとバレエを観ればグンと元気になりました。

◇ ◇ ◇

1985年のクリスマスイブには、遂にあのパリのオペラ座でチャイコフスキーの「くるみ割り人形」を観ることができました。シャガールの天井画と輝くシャンデリアの下で、夢にまで見たガルニエのバルコンから観るヌレエフは、もう往年のキレのある動きはなくなっていましたが、それでも、心が震えました。

この半世紀を振り返ると、劇場も増えました。東京文化会館だけでなく、NHKホールや、オーチャードホール、(もうなくなってしまったけれど)五反田のゆうぽうとへもせっせと通いました。神奈川県民ホールにも昭和女子大のホールにも何度も足を運びました。

1997年に来日公演した英国ロイヤルバレエの「白鳥の湖」の退廃的でありながら華麗な舞台装置を観た時には、バレエ芸術の奥深さを感じました。プロコフィエフの音楽に出逢ったのもバレエがきっかけで、チャイコフスキーに続く衝撃を受けました。

昔はバレエが好きだというと、バレーボール好きなのかと勘違いされましたが、バレエ人口も増え、日本人のバレエダンサーがローザンヌで次々に入賞したり、外国のバレエ団で活躍したりとバレエの裾野が広がり、もうバレーボールと混同されることはなくなりました。

スターダンサーが引退し、新進気鋭のダンサーが彗星の如く現れていきました。

◇ ◇ ◇

様々なバレエ団で、様々なダンサーで、様々な振付家で、様々な演出家でバレエ「白鳥の湖」を観てきました。昔は「日本では、バレエといえば『白鳥の湖』ばかりが上演されるが、もっと色々な演目を上演すべきだ」と言われた時代がありました。その頃は、私ももっとたくさんの演目を観てみたいと思っていました。

しかしいつの頃からか、これからあと100回しかバレエを観ることができないと言われたら、100回すべて「白鳥の湖」でもいいかなと思うようになりました。この数年は「白鳥の湖」を観に行くたびに「『白鳥の湖』という音楽そのものになりたい」という奇妙な感覚にとらわれるようになりました。

これまでこんな奇妙な感覚は、一度も読んだり聞いたりしたことはないので、かなりおかしな感覚なのだと思いますが、「白鳥の湖」という曲そのものになってしまいたくなるのです。先日9月20日にNHKBSで放映されたマシュー・ボーンの「白鳥の湖」を観ていた時も、「白鳥の湖」という音楽に織り込まれてしまいたいと強く願うようになっていました。

あまりにも好き過ぎると、人間、奇妙なことを考えるのかもしれません。

今年は家に籠もっている内に、いつの間にか一年が過ぎていくような感覚がありますが、一日も早く、劇場でバレエ「白鳥の湖」を観ながら、オーケストラの奏でる音楽に身と心を委ねられ日が来ることを心から願っています。


000.還暦子の目次へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?