163.会社の男女差別

本稿は、2020年8月29日に掲載した記事の再録です

1982年4月、新卒で就職した会社の入社式の当日、人事部長から「女子社員の給与は短大卒並みとします」と言われたのが、社会に出て最初に受けた男女差別の洗礼でした。私たちは男女共新入社員全員、四年制大学の卒業生でした。

前年の秋に内定が出て顔合わせがあった時、ある男子内定者と女子内定者が互いに互いを指差しながら、「え〜、なんでここにいるの〜」と驚き合っていましたが、このふたりは同じ大学の同じ学部でした。共通の友人も何人もいるようでした。

入社式のあと、彼女は「なんで〇〇くんとお給料が違うのかまったく納得いかない」と憤慨していましたが、その気持ちは私たち新入女子社員に共通する思いでした。

◇ ◇ ◇

しばらくして、社内報に掲載するために新入社員が会長にインタビューするという企画がありました。一番年若い女子社員が一番年長の役員に話を聞くというものですが、その時インタビュアに選ばれたふたり内のひとりが私でした。

会長というのは、私たちの会社の会長でもあると同時に、財界を代表するような人物でもありましたから、社内報担当の総務課の面々は、粗相があってはならないと神経質になり、私たちふたりは繰り返し予行練習をしました。

予行練習の時、総務部長が「女性が『会長』とお呼びするのはおかしい、『会長さん』と『さん付け』にした方がいい」と言い出しました。普段は「課長」「部長」「常務」「社長」などと役職名で呼んでいるのに、「会長」だけ「さん付け」というのはおかしい思うと、その旨率直に総務部長に伝えましたが、部長は口の中で二、三度言葉を転がし、「やっぱり『会長さん』でいこう』と言いました。

「会長さん」と呼びかけるのは、なんだか夜の世界の女性がシナをつくって得意客におもねるような響きに感じて、私は不快に思いました。でもその時は総務部長の指示通りに「会長さん」とお呼びすることになりました。

当日は、目の前に録音機が置かれ、カメラマンがフラッシュを光らせ何枚も写真撮影する中、私たちふたりは緊張してインタビューに臨みました。インタビューは和やかな雰囲気で、会長ご自身の新入社員時代のエピソードや、財界人との交遊の思い出話、健康管理のコツなど具体的でおもしろい話をたくさんしてくださいました。

予定通りインタビューが滞りなく終了してお礼を述べ、ソファーの後ろで私たちよりも緊張の面持ちで立ち会っていた総務部の人々もホッとしたところで、オフレコのような雰囲気になりました。

その時、まるで孫娘を見るような眼差しになった会長が、改めて私たちふたりのことを心底から思いやるように、次のように語りかけてくれたのでした。それは「男は自分自身の努力と能力で偉くなれる。ところが女の人はそうはいかない。特に日本ではそうだ。だから偉くなる男性を選ぶことが大切だ。女性に大切なのは男性を見抜く目だね」

その言葉は、私たちふたりの幸せを願って会長がおっしゃってくださったことはよくわかっていました。けれども「そんな他力本願の人生はイヤだ」という声が私の心の底から湧き上がるのを感じました。「自分の人生は、自分自身の力で生きていきたい」と思いました。

それでも笑顔で私たちを優しげに見つめる七十歳をとうに過ぎた会長を前に、私はこれまで自分自身も気づかなかった心の声に気づかせてくれたと感謝の気持ちを持とうと思いました。私たちと会長の年の差は五十歳以上もあり、明治生まれの古い時代の価値観ではきっとそうだったのだろうと思うことにしました。

ところが、出来上がってきた社内報を見ると、最後の雑談が本文の中に「内助の功の大切さ」としてかなりの紙面が割かれており、私たちふたりが「会長さん」に「どうやったら、いい男性を見つけることができるでしょうか」と質問したことになっていました。

そして「偉くなる男性を選ぶには、ちょっとハンサムだからとか、親が偉くてお金がありそうだからではダメだ」とアドバイスされていたことになっているのでした。会社が私たちに何を期待しているのか、そして何を期待していないのかがわかったような気がして悲しくなりました。

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経理部に三十歳くらいの女性社員がいました。入社した翌年だったと思いますが、ある日同じ部署の男性社員が私にその経理部の女性をどう思うかと聞いてきました。なぜそんな質問をするのかと尋ねると、「いや、彼女は僕と同期入社なんだよ」というので、「いつもにこやかで親切な、温かい女性だと思います」と言いました。本当にそう思っていたからです。

するとその男性は、少し驚いた様子で「彼女のこと、ミジメだとは思わないの? 三十過ぎて結婚も出来ずにいるんだよ。将来あんな風になったら恥ずかしくて会社に来られないんじゃない?」と言いました。

私はその男性こそ恥ずかしくて、そんな言葉を口にする人間こそミジメだと思いました。彼とはそれ以上会話をしたくなかったので適当に話を終わらせましたが、四十年近く経っても、冷笑の浮かんだ彼の表情と共に忘れられないやり取りになりました。

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その女性の上司に五十歳くらいの女性の係長がいました。最年長の女性社員でした。五十歳くらいの男性社員には部長クラスの役職がついていましたが、彼女の役職名は係長でした。男性社員なら入社して四、五年でつく役職でした。

ある日、その女性がマンションを買ったらしいという噂がたちました。1980年代前半に女性がマンションを買うというのはまだ珍しいことでした。「女のくせによくローンが組めたな」などと揶揄する声が私の耳にも届いた頃、彼女は大阪支店に栄転で課長になるという噂でもちきりになりました。

おじさんたちは「マンションなんて買うからさ。嫌がらせの人事だよ」と口々に言い、彼女は仕事ができるから転勤を承諾したらそれはそれでいいし、転勤を拒否して会社を辞めるというならそれはそれでいいし、「女ごときがマンションなんて買うとこういう目にあう」ということを知らしめられたからこれでいいんだということでした。

彼女は毅然と大阪支店へ行きました。買ったばかりのマンションは賃貸に出したという噂でした。

◇ ◇ ◇

会社全体をぐるりと見渡すと、ほとんどすべての部門長は男性でしたが、ある小さな部署だけは、四十代の女性が部門長をしていました。部員は四、五名で、彼女も係長でした。私はずっと仕事をしていきたいと思っていたので、社長室秘書課での自分の仕事が終わった後、時々その部署に寄って簡単な手仕事を手伝いながら、少しずつその部署の仕事の内容を学んでいきました。

そして、いつか私もここで働きたいと自己アピールをするようになり、部門長の四十代の女性に、「あなたなら次を任せられる」という嬉しい言葉もいただき、私自身もその気になっていた時、突然の人事発表がありました。他社から三十代前半の若手男性社員を引き抜き、その部門長に据えることになった、役職名は課長とするというものでした。

四十代の女性は長年その部門をひとりで引っ張ってきたというのに、完全に寝耳に水で、採用面接も知らされず、その突然やってきた三十代の社員の部下になることとなりました。夜、いつものように自分の仕事を終えてやってきた私に、彼女はその衝撃的な人事を話し始めると、涙を堪えられずに泣き崩れてしまいました。拭っても拭っても涙が溢れてくるという状態でした。

後日の噂では「彼女の仕事には定評があり、顧客の信頼も厚く、いわゆる仕事ができるという評価が高まったからこんなことになったのだ」ということでした。

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そんなある日、女性だけのプロジェクトが立ち上がることになりました。各社から女性ばかりが数人ずつ選ばれて、女性向けの商品を企画販売するというものでした。商品企画をするのも女性、デザインも女性、広告宣伝も女性と、話を聞いただけで私はワクワクしました。

営業部門の副社長が社内の人選を行うという噂だったので、早速話を聞きにいくと「君は社長室の人間だからダメだ」と門前払いされてしまいました。「君は適任だと思うけれど、社長室は治外法権だからな。どうやっても引っ張ることはできないよ」と言われてしまいました。

入社したその日から、少しずつ少しずつ、やる気が削がれていきました。仕事を覚えれば覚えるほど、仕事に対する欲が出ていきましたが、同時に頑張る女性への「懲罰的な人事」もたくさん見てきました。

四年生の女子学生にはほとんど就職口のない時代に、希望する会社に入社できたというのに、これからどのように生きていこうか日々考えるようになりました。

◇ ◇ ◇

私がこのようにもがいている間、1985年に国会で成立することになる男女雇用機会均等法の生みの親と呼ばれる赤松良子氏は、1982年9月に国連公使としての三年間のニューヨーク任期を終え、労働省婦人少年局長のポストに就き、いよいよ職場での男女平等を実現させるための法律を作るために奔走しようとしていました。

赤松良子氏の著書の一章には「鬼の根回し1983年夏」というタイトルが付いていて、法制化のために労働大臣・次官経験者を始め、財界のトップたちへの働きかけ、労働組合や婦人団体へのアプローチと、それはそれは精力的に活動される様子が描かれています。しかし、とても一筋縄ではいかない交渉ばかりでした。

経団連会長・稲山嘉寛氏とのすれちがい
 労使関係については日経連が担当ということになっていたから、経団連の会長はこういう場には出てこられなかったが、時の稲山嘉寛会長は重鎮で影響力の大きい方だから、話をしておくべしというアドバイスをうけて、私が経団連会館を訪問したのは、一九八四年の四月一〇日だった。日付まではっきり覚えているのは、この日が婦人週間の第一日であったからである。婦人週間は、日本の女性が初めて参政権を行使した一九四六年の四月一〇日を記念して、翌年から労働省婦人少年局が主唱して、女性の地位向上を目的として全国的に展開したキャンペーンで、戦後早い時期から、毎年のスローガンやポスターなどよく浸透していた行事であった。
 この日に経団連会長と会うというのは、たまたまその日にアポイントが取れたという偶然なのだが、私はちょうどいいかな、と思い、話の切り出しに、婦人週間についてふれ、婦人参政権についての会長の感想を聞いてみた。女性が参政権を行使するようになってすでに四〇年近く経っており、そのことは当然のことと受けとめたうえで、次のステップを考える段階にあると、私は考えていたのだが、会長の答えは全く別だった。
 「参政権なんか持たせるから、歯止めがなくなってしまっていけませんなあ」と言われ、私は気勢をそがれてしまった。この方は八〇歳過ぎとは思えないスマートな洗練された紳士だったが、やはり明治生まれの日本男子だったのだ。それにしても参政権にさえ反対の人に雇用平等の話は距離がありすぎて、容易ではない。なにか架け橋はないものかと、私は女性の職場での貢献の話をしてみた。すると、彼は「たしかに、ちゃんと仕事をする女性はいる。私の前の秘書もとてもよくやってくれ、感心していました」とおっしゃる。私はふむふむ、ちょっといい方向にいくかなと期待して聞いていたら、「彼女にはよい後妻の口を世話してやりました」となり、これには開いた口がふさがらなかった。立派な秘書に報いるのに、責任あるポストに就けたのかと思いきや……である。
 今日は成果があがらなかったね、と同行の課長と話しつつ帰途に就いた。ずっとあとになってから聞いたが、この方は総理大臣に、雇用平等法はよくないと言明されたということである。難攻不落の堅城だったというわけだ。

赤松良子著『均等法を作る』勁草書房(2003)p.75−6より(太字は引用者)

豪腕の労働省の局長から新入社員の私まで、日本中の女性がみんな男女差別に腹を立て、つらく悲しい思いをしていましたが、それでも時代は、大きな変換点に差し掛かっていました。

しかし、そんなこととは知らない私は、悶々とする日々の中、仕事も何もかも一旦忘れて、本当にやりたかったこと、本当に好きなことは何なのだろうかと考え、自分の人生を根本的に考え直そうと思うようになっていきました。


<再録にあたって>
就職したのは1982年で、今から40年前のことでした。男女雇用機会均等法の施行は1986年4月ですから、男女の賃金格差も法的にも是認されていました。

私が当時就職した会社は決して保守的な社風ではなく、それどころか自由で時代の最先端を自負しているような雰囲気がありました。それでも男女差別は当たり前のように制度や社員の言動に中にありました。


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