261.70年代のファミレス
私が初めてファミリーレストランという所へ足を踏み入れたのは、1973年か4年(昭和48年か49年)、中学2年生か3年生の時でした。その日のことはよく覚えてます。
私は東京の西の郊外で育ちました。中学校から帰宅して、制服を私服に着替えて、また仲良しでよく集まっていました。あの頃友人と話すことはいくらでもありました。私たちにとって一番重要だったのは当然のように好きな男子のことでしたが、高校受験のこと、クラスのこと、部活のこと、先生のこと、家族のこと、おもしろかった本のこと、映画のこと、生き方のこと、何時間話しても話し足りませんでした。
その日もいつものように、遊歩道への車の進入を防ぐガードレールに代わりばんこに腰掛けて、仲良し3人組であれこれと話していました。秋だったので日暮れが早く、次第に、寒いし暗いしお腹もすいたしという状況になってきました。
誰が言い出したのか、近所に出来て間もない「すかいらーく」とは、どんなところか見に行ってみようということになりました。クラスメイトの中にこの前家族で「すかいらーく」に行ったという話を3人とも聞いていたので興味がありました。
「お金、いくら持ってる?」と確認し合ったら、3人合わせて250円でした。「250円でなんとかなるかな?」といいながら「すかいらーく」へ行ってみたら、入り口にメニューが貼ってあって、ハンバーグやエビフライなど垂涎のメニューとともに、写真付きでポテトフライ250円というのが載っていました。
3人で「よし、これなら行ける!」と顔を見合わせて店内に入ると、「いらっしゃいませ!」と制服を着た店員さんが、丁寧に私たち中学生3人を窓際の席に案内してくれました。
そこは広々としたソファの席でした。これまで家族で連れて行ってもらったレストランは椅子の席ばかりでしたから、ソファというのはなにか特別感がありました。
メニューが運ばれてきて、私たちは予定通りに250円のポテトフライを注文しました。今思うと、あの頃は消費税もなかったし、また一人一品注文しなければならないという概念もありませんでした。ウェイトレスさんも「はい、かしこまりました。ポテトフライおひとつですね」と確認し、3人で一品しか注文しなくても何の違和感も感じませんでした。
「すかいらーく」は、広々としたソファ席も魅力でしたが。そもそも店内が広く開放感があり、壁の色が重厚なマホガニー色で、なんだか高級レストランへ来たような気分でした。私たちは小声で「すごいね、ソファだね、広いね」などと言い合っていました。
◇ ◇ ◇
しばらくして「お待たせいたしました」という声と共に、ポテトフライが一皿運ばれてきましたが、その途端に私たち3人に緊張が走りました。なぜなら、それは3人分どころか、5人分もありそうな山盛りのポテトフライだったからでした。
大皿からこぼれ落ちそうなほどポテトフライのてんこ盛りは、誰がどう見ても250円のポテトフライには思えませんでした。ウェイトレスさんが去ったあと、「これって3人分だよね…」と、私たちは不安にかられました。
「ねぇ、どうする? お店の人に言って1人分に変えてもらう?」「えー、そんなこと出来ないんじゃない? だってもう作って運ばれてきちゃったんだから」「じゃ、どうする?」「どうするって、どういう方法があるの?」「でもこのままだと冷めちゃうから、とりあえず食べながら考えない?」「え? でも食べちゃったら替えてもらえないよ」「どっちみち替えてなんてもらえないよ」「とりあえず食べようよ」「え? ホントに食べちゃうの?」
このような会話を交わしながら、3人で文殊の知恵を出そうと頑張りましたが、これといった名案は浮かばす、結局「お金が足りなかったら、誰かが家に帰って親からお金をもらってくるしかないよね」ということになり、3人で食べ切れるかどうかわからないほどの山盛りポテトフライを食べ始めました。それでも食べている間中、私たちの不安は消えることなく、どんどん増幅していく一方でした。
「メニューの写真だと、お皿の大きさがわからなかったよね」「でもウェイトレスさんはおひとつですねって言ったよね」「でもそれって、1人おひとつですねってことだったんじゃない?」「そんなことないよ」「そうだよ、そしたら3皿運ばれてくるはずじゃん」「そっか、そうだよね」「前に聞いたことあるんだけど、皿洗いすればなんとかなるって聞いたことあるけど」「え? ホント?」「お皿洗うより家に帰ってお金もらってきた方がいいんじゃない?」などと言いながら、ドキドキしながら食べました。味などわかりませんでした。
テーブルの上に置かれた伝票には、ポテトフライひとつとだけ書かれていて、金額は書かれていませんでした。あの頃の伝票は手書きでした。
そして、いよいよ運命のレジへやってきました。私たちは心臓をバクバクさせながら緊張の面持ちでレジ係の黒い服をきた男性に伝票を差し出すと、レジ係はなんということもなく「ありがとうございます。ポテトフライおひとつで250円でございます」と言ったのでした。
その時の安堵感というか脱力感というか、何ともいえない気持ちになったことをよく覚えてます。へなへなとその場にしゃがみ込みたくなるほど私は緊張していました。最初っからそう言ってくれたら、安心して食べられたのにという気持ちも入り混じった複雑な気持ちでした。
あの日のことを思い出すたびに、私たち中学生は本当に子どもだったのだと思います。もう少し大人だったら、3人分が運ばれてきてしまってどうしようと思った時点で、店員さんに何人分かを確認し、もしも3人分だと言われたのならば、ジャンケンでもして誰かが家にお金を取りに行ったと思うのです。
でもあの日の私たちは大人に確認することもなく、どうしようどうしようと言っていただけで、もしも本当にレジで3人分ですと言われたらどうするつもりだったのかと、あの日の自分に聞いてみたくなります。
◇
これが忘れもしない、私の初のファミレス体験でした。その後、私はこの日のことを何度も反芻しながら生きてきましたが、ある時ふと、もしかしたらあの時の大盛りのポテトフライはお店の大サービスだったのではないかと思い至りました。
まだ開店して間もないファミリーレストランが、まさか私たちが250円しか持たずにいるとは知らずに、将来の固定客にと出血大サービスをしてくれたのではないかと思ったのです。真相は今日に至るまで不明ですが、あの頃ならありそうなことでした。
◇ ◇ ◇
1975年(昭和50年)に高校生になると私はバス通学になりました。高校に入学したばかりの頃には、近所の「すかいらーく」しかなかったファミリーレストランでしたが、高校生になってしばらくしたら、バス通りに今度は「デニーズ」ができました。
毎日、通学バスの車窓から「デニーズ」が建築されていくのを眺めていた私たちは、今度学校帰りにみんなで「デニーズ」へ行ってみようと話し合い、ある日、中間テストか期末テストの最終日で学校が早く終わった日に、5、6人の同級生と一緒にバスを途中下車して「デニーズ」入りました。
店内に入ると可愛らしい制服の店員さんが「デニーズへようこそ!」と私たちを出迎えてくれました。何だか気恥ずかしい気持ちでしたが、案内されるままに私たちは窓際にある半円形のようなソファに通されました。
中学生の時の「すかいらーく」でソファだけでも贅沢な空間だと感じたものでしたが、今度の「デニーズ」のソファは半円形で、店内も明るい色合いで統一されており、遊園地のティーカップのようでウキウキした気分になりました。
メニューを見てみんなで散々悩んだ挙句、私はフレンチトーストとコーヒーにしました。フレンチトーストには白い粉砂糖がかかっていて、上にはホイップしたバターがのっていました。四角いバターではなくてホイップバターを見たのはこの日が初めてでした。一体どうやって作るのだろうか不思議に思いました。
そして大きなシロップ入れが2つ運ばれてきて、ひとつには濃いメープルシロップが、もうひとつには黄金色に輝くハチミツが入っていました。シロップ入れはフレンチトーストの上に傾けてから取手を握ると、上についていた銀色の板がスライドしてシロップが流れ落ちる仕組みになっていました。これは液垂れしない凄い仕組みだと驚きましたが、実際にはシロップは液垂れしました。
それでも白い粉砂糖のフレンチトーストに、ホイップバターとメープルとハチミツの2種類のシロップをかけるというのは実に新鮮でした。子どもの頃から母が作ってくれていたフレンチトーストには粉砂糖なんてかかっていなかったし、バターはただの普通のバターでした。シロップは森永のホットケーキのおまけについていた粉をお湯で溶いたものを流用していました。
それぞれに運ばれてきたお料理をみんなで仲良く食べました。半円形のソファ席は、私たちの人数には少し狭くて、なんとなく窮屈に感じながらも「楽しいね、また来ようね」と言いながら食べて、おしゃべりも弾みました。
よく見ると天井から「コーヒーのおかわりできます」という日本語と英語で書かれた看板が下がっていて、私はお代わりを英語では「another cup」だということをその時知りました。早速、お代わりをお願いしたら、今日ではどこでも見かける何の変哲もない普通の透明なコーヒーサーバーでコーヒーを注いでくれましたが、あの日は驚きました。
私たちが通っていた高校は、一応制服こそはありましたが、髪型も服装もわりと自由で、5キロ以上だったか7キロ以上だったか遠距離通学生は原付バイクでの通学も許可されていたし、学校帰りの寄り道にも何も制限はありませんでした。
私が住んでいた辺りでは、「すかいらーく」「デニーズ」に続いて、1970年代後半には雨後の筍のように色んなファミリーレストランが次々にオープンしていきました。私たちは学校帰りに時々連れ立っては新しくできたファミレスめぐりをしていました。バスの通学定期があったので途中下車し放題でした。今思うと、先生方もご存知だったと思いますが、なんのお咎めもありませんでした。
思い返すと、ファミレスめぐりをしていたのは全員女子生徒ばかりでした。私の通っていた高校では男女問わず仲良く一緒に行動することが多かったのですが、男子生徒とファミレスに一緒に行った記憶は一度もありません。理由は見当もつきませんが、もしかしたら女子高校生は男子高校生よりも当時から新しもの好きだったからかもしれません。
◇ ◇ ◇
大学生になって友人と一緒にデニーズに行ったら、初めて学校帰りに一緒にデニーズへ行ってフレンチトーストを食べた時の高校の同級生が入口に立っていて、ニッコリ笑って「デニーズへようこそ!」と迎えてくれたのには驚きました。
注文を取りに来てくれた時に少し話をしたら、あの日からすっかりデニーズのファンになっていて、大学生になってからすぐにアルバイトを始めたということでした。
また、大学生になると車の免許を取った友人たちが増えて、行動範囲が格段に広がりましたが、それと同時に車で入りやすいファミリーレストランには友人同士でよく行くようになりました。さらに、友人の何人かもファミリーレストランでアルバイトを始めました。
◇ ◇ ◇
すかいらーく創業者のインタビューによれば、1970年(昭和45年)7月、東京都府中市に「すかいらーく」1号店を開店したのち、70年は甲州街道作戦、71年は青梅街道作戦、72年は五日市街道作戦という立地戦略を決めたそうです。五日市街道は道路の流れが当時あまり良くなくて失敗したそうですが、71年から72年にかけ1年間は料理の質を上げようと新規出店せずに従業員を修行に出し、1974年には埼玉、神奈川、千葉と各30店を作る首都圏100店構想を発表したのだそうです。
私がポテトフライでドキドキした店舗は、この首都圏100店構想で出店された店舗のひとつだったと思われます。
一方、デニーズは1974年4月に、1号店を神奈川県上大岡のイトーヨーカドー内にオープンして以来、店舗数を増やし続け、1980年(昭和55年)に100店舗を達成したそうです(東洋経済オンライン2013/08/28付)。
ロイヤルホストは、ロイヤルグループの歴史によれば1971年(昭和46年)に福岡で誕生したのち、首都圏には1977年(昭和52年)に進出し、三鷹店を第一号店としてオープンしたそうです。私の記憶でも、高校生の時には近所や通学路にはまだロイヤルホストはありませんでした。当時は多くのファミリーレストランが続々とオープンしていきましたが、ロイヤルホストに初めて入ったのは、大学生になってからだと思います。
1970年代には、ファミリーレストランの伝票も手書きでしたし、ドリンクバーなるものの存在はまだ誰も知りませんでした(一説によればドリンクバーは1992年(平成4年)に始まったそうです)。24時間営業ということもなく、夜は閉まっていました。「外食産業」などという言葉も誰も使っていませんでした。そもそもレストランが「産業」だなんて、あの頃はほとんどの人には思いもよらななかったことでしょう。
私自身は東京の西の郊外で育ったため、ファミリーレストランには創成期の頃から随分通い、お世話なりました。思い返してみれば、初めて入ったファミレスでポテトフライにドキドキしていたのは、もう半世紀も前のことになりました。最近では郊外だけでなく、都心部でも様々なファミレスを見かけるようになりました。ファミレスは日本人の食生活や食習慣を大きく変え、今や日本文化のひとつともなりました。