149.80年代の結婚式

6月と聞くと「ジューンブライド」、6月の花嫁を連想する方も多いと思います。ヨーロッパでは春の農作業が一段落し、天候も安定する6月に結婚すると幸せになるという言い伝えがあるそうです。

けれども私が自分の経験を振り返ってみると6月に結婚式に出席した記憶はなく、日本では梅雨時や暑い夏と寒い冬は避けて、大抵は秋または春に多くの結婚式が執り行われていました。気候条件が人々の儀式の時期に影響するのだと改めて思います。

今世紀に入ってからは、結婚式はしない、または婚姻届を提出してしばらく経ってから結婚式を行うというケースも多々あるようです。その上、昨今では感染症のために披露宴が延期や中止になってしまったという話もよく聞くようになりました。

◇ ◇ ◇

私の多くの友人や仲の良い同僚が結婚式を挙げたのは私自身が「適齢期」と呼ばれた20代、つまり1980年代のことでした。あの頃「結婚する」ということは、婚姻届の提出はもちろんのこと、結婚式や披露宴など一連の婚礼儀式を行うことと同義語だったように思います。

以前のnote「124.お見合い結婚」でも書きましたが、私の世代ではお見合い結婚は急激に減少していて、私の周囲でお見合い結婚した例はほんの数例で、あとはすべて恋愛結婚でした。あの頃は「婚活パーティー」や「出会い系アプリ」も存続しなかったので、多くは学生時代からの恋人との結婚や職場で出会っての結婚でした。

私は東京の西の郊外で育ち、四年制大学を卒業してからは東京都内で働いていました。そんな私の周囲の結婚式は、大抵次のようなスケジュールで行われていました。尚、私自身は「適齢期」には結婚できずせず、実際に結婚したのは1990年代も半ばを過ぎていたため、ここでは80年代の友人の結婚式について述べたいと思います。


1. 口頭での招待

当時、結婚式の招待というのは、友人から「いついつ結婚式をしようと思っているんだけど、出席してもらえる?」などと事前に口頭で招待されるのが普通でした。

「わー、おめでとう! 決まったのね! もちろん出席させてもらうわ! 今から楽しみにしているわね〜」などと答え、それからプロポーズの言葉は何だったのか、披露宴の場所はどこか、何を着るのか、二次会はどこで行うのか、新婚旅行はどこへ行くのか、新居は決まったのか、お祝いは何が良いかなど質問攻めにして祝ったものでした。

2. 披露宴への招待状

口頭での招待からしばらくすると、正式な招待状が送られてきました。大抵は金や赤の縁取りのしてある美しい厚紙の招待状で、縦書きで書かれていました。封書には毛筆で宛名が書かれ、折り鶴の切手が貼ってありました。

差出人名は通常新郎新婦の父親で、「この度 〇〇ご夫妻の御媒酌により 〇〇〇〇の長男〇〇と〇〇〇〇の次女〇〇の婚約が整い 結婚式を挙げることになりました  つきましては幾久しく御懇情を賜りたく御披露かたがた粗餐を差し上げたいと存じますのでご多用中誠に恐縮でございますが 何卒御光臨に栄を賜りますますようご案内申し上げます」などという挨拶文に続き日時場所が案内されました。

私には招待状が本人たちからではなく、父親名で送られるのが不思議に感じられましたが、あの頃はまだまだ結婚は両家のものという、戦前の家制度の名残りが色濃くありました。また、夫婦へ招待状には夫の氏名に隣には、「御令室様」あるいは「令夫人」と書かれていることが多く、私は両親宛の招待状を見ながら母の顔を思い浮かべて、母が令夫人かと笑いを噛み殺したこともありました。

招待状には返信用葉書が同封されており、御出席、御欠席のうち、出席あるいは欠席だけを丸で囲み、「御」と選ばなかったもう一つの選択肢を二重線で消して返信しました。この時自分の名前に上に書かれている御住所、御名前の「御」の字も消すこと、また一言お祝いの言葉を添えることがマナーとされていました。

3. お祝い

お祝いは、仲の良い友人の場合には具体的に家電や食器のリクエストをしてもらって、高額の品物なら数人で一緒に購入しました。もう何を贈ったのかよく覚えていませんが、確かコーヒーメーカーやホットプレートを贈ったことは覚えています。さらにご祝儀袋に新券でお祝い金を包みました。

あの頃、通常の赤と白の結び切りのご祝儀袋ではなく、私たちはわざわざ大きな文具店に行って水引きが可愛らしいご祝儀袋を選んでいました。品物一万円、ご祝儀一万円が多かったように記憶しています。

4. 余興並びに二次会の準備

結婚式の披露宴の余興や二次会の運営というのは私たちは招待される側ではあるにも関わらず、親しい友人の場合はみんな文化祭の延長のように感じていて、仲間でワイワイと話し合い、いかに新郎新婦やご家族、また来賓の方々に喜んでいただくかを考えたものでした。

そのために新郎側の幹事と連携して、新郎新婦の人柄が伝わるような楽しい式になるように、どんな趣向で順番はどうするかなどを話し合い、子どもの頃からの写真をスライドにしたり、スピーチや歌や踊りに工夫を凝らしました。

新郎が体育会系だったりすると、余興の出しものも凡そ決まっていて、校歌に応援歌、それにその体育会に代々伝わる芸を披露することになっていました。

また新婦が音大卒業生だったりすると、招待客の女性たちはみんな舞台衣装に身を包み、オペラの歌曲を披露したり楽器の演奏があったりと大変華やかなものになりました。

さらに、披露宴の余興だけでなく二次会にも力を入れて準備をしたものでした。あの頃、結婚式そのものは新郎新婦の媒酌人と親族のみで執り行い、披露宴は会社の関係者と親しい友人を招待し、学生時代の大勢の仲間や職場の同僚たちは二次会へというのが私の周りでは一般的でした。

ですから、二次会は大抵一番盛り上がりました。それこそ文化祭のノリで皆んな仕事もそっちのけで準備に明け暮れました。チームに分かれてのクイズ大会もあったし、南京玉すだれのなどの芸の披露もあったし、混声合唱もあったし、景品をかけてのビンゴゲームもありました。

ちなみに私の弟は、学生時代の電子工学科の仲間たちと一緒になって、当時「プロポーズ大作戦」という番組の中でやっていた「フィーリングカップル5対5」の仕掛けづくりを、自分の結婚式の前日の夜中まで、というより正確には当日の明け方までやっていました。自分の結婚式の二次会で実際にやって大好評を博したそうです。

5. 結婚式

私の友人の結婚式で一番多かったのはホテル内で神前結婚式でした。三三九度の盃を酌み交わし、指輪を交換し、誓いの言葉を述べるというのが一般的でした。新郎は羽織袴、新婦は白無垢に綿帽子か角隠しというのが定番の衣装でした。

式は媒酌人を除けば、親族だけで行うのが普通でした。新郎新婦の父親はモーニング姿、母親は黒留袖とまるで制服のように決まった衣装で、親戚の方々も大抵は黒留袖で、姉妹や従姉妹なども振袖が多かったように思います。

6.招待客

披露宴は、挙式したホテルの宴会場で行われました。新郎新婦の父親の社会的地位によっては、招待客に新郎新婦とは面識のない政治家や財界人が顔を揃えることもありましたが、多くは主賓は新郎の会社の本部長クラスのお偉方、新婦側は大学時代の恩師でした。列席者は数十名から数百名と様々でした。

招待客は、まず受付でお祝いを述べて祝儀袋を渡し、毛筆で芳名帳に名前を記しました。私たちの頃から、毛筆の代わりに筆ペンが登場して、私などは大いに助かりましたが、年配の方々は筆で見事な字をお書きになりました。

仲の良い友人の場合には、私はよく受付をお手伝いしました。朝早くホテルの美容院で長い髪をセットしてもらい、私の手持ちの中で一番華やかなワンピースを着て、滅多に履かない踵のあるお洒落な靴を履いて受付を担当しました。

私たち新婦側の友人は、できるだけ華やかに着飾って出席することが祝意を表すものだと考えていました。私は成人式で振袖を買ってもらわずにフランス旅行に行ってしまったのでワンピースで参列したものでしたが、友人の多くは振袖で参列しました。

当時は駅のホームには、一目でそれとわかる結婚式帰りの人々を多く見かけました。みんな振袖や美しい色彩のオーガンジー生地のワンピースなどを身に纏って引き出物の袋を手に手に下げていました。何組も見かけ、今日は大安なのかしらと思うと実際に暦が大安吉日だったということがよくありました。気がつくと、最近ではあまり一目で結婚式帰りという人々を見かけることは少なくなりました。たまに見かけても黒っぽいワンピースにショールなどという服装が多く、時代は変わったのだと感じます。

7.披露宴

さて、受付を済ませた招待客は披露宴会場に入場するのですが、場合によっては入り口の金屏風の前で、新郎新婦と媒酌人それに双方の両親が揃って出迎えることもありました。この時、新婦の多くは白無垢や赤い打ち掛けで招待客に挨拶をし、祝福の言葉を受けました。綿帽子から角隠しになったり、中にはウエディングドレス姿の新婦もいました。

私が出席した披露宴の多くでは、招待客は円卓に腰掛けました。円卓の真ん中には「松」「寿」などの文字が書かれたポールが立っていて、それぞれ会社関係者、学生時代の友人、親族などが同じテーブルに着くように席順はあらかじめ決められていました。各席には名札と本日の食事のメニューが置いてありました。

私が子ども頃、父が会社の人の結婚式に呼ばれた折には、晩餐会風の縦長の座席表に、招待客の肩書きと氏名がすべて印刷されたものが用意されていて、父はそれを持ち帰ってきたことを覚えていますが、私の友人の結婚式で座席表が配られたのは、わずかに一回だけでした。それでも席順を決めるのは大変な作業だったことでしょう。

全員が円卓につくと、新郎新婦が入場してきます。新婦は媒酌人の夫人に手を取られ静々と歩いて来ました。そして、高砂と呼ばれる新郎新婦の席に着席すると、いよいよ結婚披露宴が始まります。

式次第は、まず媒酌人が新郎新婦の経歴を紹介します。この媒酌人というのは、1960年代、70年代ならともかく、私たちの頃にはほぼ形式的なお仲人さんで、結婚が決まってから、新郎が職場の上司にお願いすることが多かったようです。この時、司会進行役も大抵は新郎の友人でした。

媒酌人は、新郎の経歴を一通り紹介すると、まるで判で押したように、新郎のことを大変優秀なご成績で大学をご卒業になり、現在の職場でも前途有望な青年だと褒め上げ、また新婦のことを、これまた才色兼備の心優しい女性だと褒め上げました。

それに続き双方の主賓が祝辞を述べ、乾杯となりました。ホテルのボーイさんが一斉にシャンパンを開け、招待客のグラスに注いで周るのを見るのは壮観でした。来賓のお一人が乾杯の音頭を取り、会場にグラスの音が響きました。

8.フランス料理のフルコース

続いて食事、歓談、余興と続いていくのですが、結婚披露宴のお料理はフランス料理のフルコースが多く、銀のナイフとフォークがそれぞれ5本位ずつ並んでおり、どれから使ってよいのか、また食事中のナイフとフォークの置き方、食べ終わった時の並べ方がわからなくて困ったという笑い話はいくらでもありました。

私は子どもの頃からフランスかぶれでしたが、フランスであちこちのレストランへ行っても、日本の結婚披露宴のような料理に出逢ったことはなく、決まって出てくる伊勢海老のテルミドールとか、ローストビーフとか、お口直しのシャーベットとか、さらにはフィンガーボールや富士山型のアイスクリームなどはおもしろく感じていました。

実は私はフランスでの食事が大好きなのですが、それは町のビストロやカフェで手軽に食べるような食事のことなのですが、うっかり「フランス料理が好きだ」などと口にしてしまうと、多くの人はあのずらりと並んだ銀のフォークとナイフを思い浮かべるようで、贅沢な美食家と勘違いされかけたことが何度もありました。

9.お色直しとキャンドルサービス

花嫁テーブルにも食事は並べられはするものの、ほとんど口をつけることはなく、すぐにお色直しに席を立つこともしばしばでした。私が出席した披露宴で多かったのは、①白無垢で結婚の儀を終え、披露宴には②赤い打ち掛けに文金高島田で入場し、お色直しに③白いウェディングドレスという組み合わせでした。中には、二度目のお色直しで④カラードレスに着替えたり、⑤振袖に着替えたりという新婦もいました。

お色直しで再入場する際は、片手にキャンドルを持って、各円卓の真ん中のロウソクに火を灯し、その時に招待客と近しく会話したり、写真を撮ったりしました。時々、ゴンドラに乗ったり、スモークをたくという演出を耳にしましたが、私は残念ながら一度もそのような演出をこの目で見ることはありませんでした。

10.ウェディングケーキ入刀

キャンドルサービスですべての円卓に火が灯ると、高砂へ戻ってきた新郎新婦はウェディングケーキに入刀することになります。この時司会者は必ずと言っていいほど「新郎新婦の初の共同作業でありますウェディングケーキ入刀です。カメラをお持ちの方はどうぞ前の方へお越しください」と声をかけました。

私たちはもちろんカメラ片手にケーキの前に押し寄せ、たくさんのフラッシュを新郎新婦に浴びせシャッターを切りました。私はお見合い結婚ならともかく、学生時代からの恋人同士の結婚式で「初の共同作業」というのはいくらなんでも慣用句過ぎるなぁといつも心の中で思っていました。

ウェディングケーキは、通常三段重ねや五段重ねになっていて、噂では一番下のナイフを入れるところだけが本物のケーキになっていて、上の方はボール紙にクリームを塗っているだけだなどと、まことしやかに囁かれていました。

11.余興

余興は、どれひとつ同じものはありませんが、多くは新郎新婦の幼少期からの写真のスライド、スピーチ、歌、踊り、校歌、応援歌などが続きました。あの頃のゲストの歌では「てんとう虫のサンバ」「お嫁サンバ」「世界は二人のために」がよく歌われました。同じ歌でも音大出身者のソプラノやテノールは異次元へ連れていかれるようでした。

他にもこれまでに私の印象に残った余興には、新郎の農大の仲間によるホンモノの大根を両手に持って躍る「ダイコン踊り」、下町出身の新郎ということでご近所の方々総出で行った「木遣り歌」、また能楽を学んでいるゲストによる待謡まちうたい「高砂」などがありました。これらは今も脳裏に焼き付いているほど感動しました。

12.花束贈呈・手紙朗読

両親にこれまで育ててもらったお礼に花束を贈呈したり、手紙を朗読するということもありました。実は私はそのような演出はほんの数回目にしただけでした。

13.新郎父の挨拶

花束や手紙は省略されても、新郎のお父さんは式の最後に必ずご挨拶をなさったように記憶しています。「新郎新婦はまだまだ未熟者なので、ここにおいでの皆様のご指導ご鞭撻を何卒よろしくお願い申し上げます」と述べ、披露宴はお開きとなりました。

14.引き出物

私が子どもの頃、よく父が結婚披露宴に呼ばれると、父は両手に持ちきれないほどの大きくて重い食器や、新郎新婦の名前の入った花瓶やら置物やらを引き出物として持ち帰ってきたことを覚えていますが、1980年代には、引き出物には重いものやかさばるものは避けるようになっていました。引き出物にまで重厚長大から軽薄短小という時代の空気が表れていたようです。

また父はよく尾頭付きの鯛やお赤飯、それにウェディングケーキも持って帰ってきましたが、1980年代には食べ物はバームクーヘンと紅茶程度で、あとはちょっとおしゃれな小物が引き出物として渡されました。あの頃はまだカタログギフトを引き出物とすることはなかったように思います。

15.二次会

披露宴がお開きになると、振袖や訪問着を着ている友人たちは別に用意してきた二次会用のワンピースに着替え、引き出物を手に、二次会会場へ向かいました。披露宴に出席していた友人たちは、大抵二次会では幹事の役目を引き受けていたので、急いで着替え大急ぎで移動しました。

場所は披露宴会場のホテルからあまり遠くない、青山や麻布、日比谷や銀座にあるちょっと気の利いたパブレストランやテラスレストランでした。披露宴は比較的かしこまった雰囲気でしたが、二次会は大勢の仲間でカジュアルに行いました。これまで準備してきたチーム対抗のゲームをして大騒ぎになったものです。二次会は新たなカップルが誕生するかもしれない出会いの場所でもありました。

新郎新婦も⑥二次会用の衣装にさらにお色直しをして、大勢の仲間から祝福されました。早朝からずっと緊張が続いていた新郎新婦も、やっと少しは食べたり飲んだりして一息つくようでしたが、まだまだ宵の口という強者に囲まれて、新郎は浴びるほどお酒を飲まされたりして、明日の新婚旅行に無事に旅立てるのかしらと心配したことも一度や二度ではありませんでした。

16.新婚旅行

二次会のあと、さらに三次会、四次会へとなだれ込むこともあったようですが、新郎新婦は翌日新婚旅行に旅立ちました。ハワイ、ヨーロッパ周遊、オーストラリア、ニューカレドニア、エジプトなどが主な行き先でした。新婚旅行は山ほどお土産を買わなくてはなくていけないそうで、皆んな頭を悩ませていました。

多くの日本企業では、一旦就職してしまうとまとまった休みを取るのはなかなか難しいので、新婚旅行では思い切って海外旅行に出かけた人が多かったと思います。

17.婚姻届

新婚旅行から帰ってくると、新郎新婦は区役所に婚姻届の提出に行くことが多いと聞きました。中には式の当日に家族に婚姻届を出しにいってもらったというケースや新婚旅行に行く前に提出するということもあったようです。

婚約→結婚式→披露宴→新婚旅行→婚姻届→新居で結婚生活開始という順番は、あの頃私の周囲では「ごく普通のこと」だと思われていました。

18.結婚式あれこれ

私の周りでは、これまで書いてきたような結婚式が一般的だと思ってきましたが、あくまでこれは「私の周り」であって、同じ東京でも、また同じ年代でも地域によってはかなり違うようです。北海道の披露宴は会費制だと聞きましたし、名古屋では婚礼家具をご近所に披露する習慣があるとも聞きました。

私の友人でも、ホテルではなく教会の中の一室で結婚式と披露宴を兼ねたパーティを開催して、多くの友人知人が参列したということもありました。ほとんどがホテルか倶楽部などで行われる中、手作りの結婚式も素敵だと思いました。

時代や地域によってあらゆることが様々に変化していきます。戦時中の結婚生活を詳しく描いた「この世界の片隅に」の主人公すずさんは、1925年(大正14年)生まれの設定なのだそうなので、私とはわずか34歳の歳の差ですが、映画やマンガを見て戦時中の質素な結婚を思うと、たった34歳違うだけであまりにも違っていて驚きました。

一方、私より34歳若い人というのは1993年(平成5年)生まれの今年29歳になる若者です。今年結婚される方も多いことと思います。最近では一緒に暮らしてから婚姻届を提出し、その後に結婚式という順番が少しも珍しいことではないと知り、随分と時代も変わったと感じていましたが、すずさんとの距離を思うと大した変化ではないのかもしれません。

結婚の形態は色々あれど、新しい人生を踏み出す皆さまに「幸多かれ」と祈ります。


000. 還暦子の目次へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?