205.江ノ島の水中花

7月1日、江ノ島も海開きが行われます。

東京の西の郊外育ちの私は、子どもの頃よく江ノ島に連れて行ってもらいました。最初の記憶は小学校に上がる前のことで、前回の東京オリンピックのあった昭和39年(1964年)か、翌年の昭和40年(1965年)のことでした。

幼稚園の遠足だったのか、それとも近所の人たち皆んなで出かけたのかよく覚えていませんが、ある天気のいい日に大勢で出かけたことがありました。

私は仲良しのまりちゃんと一緒に行くことを楽しみにしていましたが、当日、まりちゃんは病気になってしまい。一緒に行くことができなくなりました。とても残念でした。

◇ ◇ ◇

私の記憶に残る江ノ島は、片瀬江ノ島の駅を背にして、江ノ島に渡る手前で目の前に広がる砂浜の海岸が最初に浮かんできます。

あれは海の家だったのか、それとも露天商だったのか、大きな七輪のような炭の上に大きな網が張ってあり、その上にたくさんのサザエの壺焼きが並んでいた光景をよくおぼえています。みんなで火傷をしないように、爪楊枝でサザエの身を引き出して食べました。

中から出てくる汁をこぼさないように、くるくるっとサザエの身を出すのですが、途中で切れてしまったり、先っぽまですうっときれいに抜けたり、その度にみんなで上手くいったとか、今度はダメだったとか言い合いながら食べました。

私はサザエを食べながら足元の砂の中から渦巻き状の貝を探し出し、得意になって大人に見せたら、手が汚くなったからお手ふきで拭きなさいと叱られてしまいました。お手ふきでは、今のように使い捨てではなく、小さなタオル地のおしぼりを濡らして絞ったものを袋に入れて家から持っていったものでした。

本当は、桜貝を見つけたかったのに、まったく見つからず、あれは誰が持っていたのか、透きとおるようなピンクの桜貝を羨望の眼差しで眺めていたことをよく覚えています。

◇ ◇ ◇

私はまだ小学校にも行っていない幼稚園児だったので、記憶が飛び飛びなのですが、サザエの壺焼きの次に私の子ども心をとらえて離さなかったのが、江ノ島の参道にずらりと並んだお土産物屋さんでした。色とりどりのパラソルが並び、その下で、麦わら帽子をかぶったおじさんやおばさんがリンゴ箱のような木の箱の上で土産物を売っていました。

貝殻細工の民芸品が多く、薄い貝殻を糸でつないで作った風鈴があちこちに吊り下がっていてきれいでした。あの頃は大抵どこの家へ行ってもお土産の貝殻細工や松ぼっくりを使った民芸品が飾ってありました。もうここ何十年も湘南海岸で貝のお土産物を買ったとか貰ったなどという話は聞きませんが、子どもの頃は湘南海岸といえは貝細工でした。

貝殻を繋ぎ合わせて作った奇妙な人形や、孔雀や亀などの動物、それに「江ノ島」と文字の入った置き物などがありました。中には貝殻を帆に見立てた帆掛け船など大掛かりなものや、螺鈿細工をほどこした高価な物もありました。

大抵の家のお茶の間には、これらのお土産品は、サケを咥えている木彫りの熊や、菅笠にかすりの着物を着ているお人形、日本各地のこけし人形などと共に戸棚に並べられていました。我が家の戸棚には、カラフルな水飲み鳥や小首を傾げているビクターの犬の陶器の置き物も一緒に並べられていました。

ところであの日、数あるお土産物の中で、私が最も惹きつけられたのが水中花でした。近頃はもうすっかり見かけなくなりましたが、私が子どもの頃にはあちこちで見かけたお土産品でした。スノードームのような形状のガラスの中に、涼しげに赤や黄色の造花が水と一緒に閉じ込められていました。あの頃はプラスチックではなくガラスのドームでした。

私は一緒にいた母に、病気で来られなかったまりちゃんに、この水中花をお土産にあげたいとねだってひとつ買ってもらいました。本当は自分の分も欲しかったけれど、私はさっき拾った渦巻きの貝があるから我慢しようと思ったことを覚えています。

◇ ◇ ◇

帰宅した翌日だったと思いますが、近くのまりちゃんの家へ行って、病み上がりのまりちゃんに、薄い油紙のような袋から出しながら「はい、江ノ島のお土産」と言って水中花を手渡そうとしました。

その時まりちゃんと私の手渡すタイミングが合わず、ふたりの手と手の間をすり抜けて、水中花の入った透明なドームはそのまま落下していき、そして、庭先の靴脱ぎの石の上で太陽の光をいっぱいに浴びながら砕け散ってしまいました。

私は、60年近く経った今も、あの時の水中花がスローモーションのようにゆっくりと落下し、キラキラと光を反射しながら砕け散っていく映像を目に浮かべることができます。

取り返しのつかないこと、というのを実感したのは、おそらく私の人生ではあの時が最初だったと思います。

あの日あれからどうなったのか覚えていません。怪我をしなかったのかときっと母たちは心配したことでしょう。江ノ島にはその後も数え切れないくらい行きました。車の免許を取り立ての学生時代には毎週のように通いました。それでも、毎年海開きのニュースに触れると、あの砕け散った水中花のことを思い出し、心が少し疼きます。



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