058.キャンプとボンカレー

最近はキャンプがブームだといいますが、私が初めてキャンプに行ったのは小学校五年生の時、学校の行事でした。みんなで川辺でのキャンプに行きました。あの日の思い出は半世紀経った今でも鮮やかによみがえってきます。

昭和45年(1970年)の夏、学校の校庭に集合して、バスに乗って緑に囲まれた河原に着くと、早速各班に分かれてテントを設営しました。テントは今のように軽量化したものではなくて、オレンジ色の布製のテントでした。先生方の指導のもと、子どもたちもできることを分担して設営しました。

今となっては、先生から受けた注意は二点だけしか覚えていませんが、それはテントの周りを囲むように溝を掘っておくことと、決してテントの親綱(おやづな)には触れてはならないという二点でした。

テントの周りの溝というのは、万が一の雨に備えて、テントに水が入らないようにするためでした。

また親綱に触れてはならないというのは、最近のテントではそのようなことはないのかもしれませんが、当時のテントは親綱を緩めるとテント自体がペシャンコになってしまうため、最後にテントをしまう時に先生が触れるまでは、子どもたちは触れないようにとの注意でした。

一班は男女別の五、六人で、同じテントで寝たり、一緒に飯盒炊爨(はんごうすいさん)をするのでした。まず、かまど班は河原で大きな石を集めてかまどのように並べます。そして、拾ってきた小枝を重ねて本物のかまどのようにしていきました。

一方、炊事班は各々が家から持ってきたお米を集めてといで、水加減をします。この時、洗ったお米の上に掌をのせて、水は手首が隠れるくらいまで入れると教わりました。私は大きな手の人もいれば小さな手の人もいるのに、そんな大雑把なことで大丈夫なのかしらと心配したことをよく覚えてます。

作ったばかりのそのかまどに太い枝を渡して、その太い枝に水加減が終わった飯盒の持ち手と、もうひとつ水とレトルトカレーの袋を入れた飯盒の持ち手を通して、それから新聞紙などを使って火を熾し、拾ってきた小枝をくべながら飯盒炊爨をしたのでした。

参加した子どもたちのほとんど全員が飯盒炊爨は初めての経験でしたが、ご飯はうまく炊けました。私たちの世代はすでに炊飯器で炊いたご飯を食べていたので、飯盒の底にこびりついたお焦げは珍しく、こそげ落としてみんなで仲良く分けた記憶があります。

しかし、その日、なんといっても私にとって衝撃だったのは、「ボンカレー」との出会いでした。それは生まれ初めて見たレトルト食品でした。お湯の中からやけどしないように袋を注意深く取り出して、上の方にある切り込みから袋を開けるとまるで手品のようにでき上がったカレーが顔をのぞかせました。飯盒炊爨のご飯とボンカレー、それはたとえようもないほどの御馳走に思えました。

◇ ◇ ◇

ボンカレーは、昭和43年(1968年)に半透明パウチ袋で阪神地区にて販売されたのち、昭和44年(1969年)5月に長期保存が可能なアルミ箔のパウチ袋で全国販売されたのでした。それは世界で初めてのレトルト食品でした。パッケージの箱は二種類あって、赤い箱は甘口、黄色い箱は辛口と書かれていました。どちらの箱にも真ん中には、ボンカレーを持った和服姿の女優、松山容子さんが描かれていました。

キャンプに行く前から、ボンカレーは子どもたちの好奇心を一身に集めていました。けれども多くの子どもたちは、実際にはまだ一度も食べたことがありませんでした。私の家でも「そんなボンカレーなんてものは」と、得体が知れないという理由で門前払いでした。

当時は缶詰でもあるまいし、何ヶ月も保存できる食品なんて、それはものすごい量の防腐剤が使われているに違いないと、レトルト食品を知らなかった世代の大人たちは考えていたのだと思います。本格的に発売されてからまだ一年ほどしか経っていませんでした。

大塚食品のボンカレーヒストリーのサイトによれば、発売当初の世間の反応は次のようなものだったと書かれています。

発売当初の世間の反応は…
今は一般的となったレトルトカレーですが、当時ボンカレーの画期的な商品性をお得意先様に理解していただくのも大変でした。「保存料を使っていない、3分で食べられるおいしいカレーです」と説明しても、「そんなはずはない」とか「腐らないのなら防腐剤が入っているのでは?」という声が飛んできました。しかも当時、外食の素うどん50〜60円の時代に、ボンカレーは1個80円。「高すぎる」というのが当時の反応でした。

https://boncurry.jp/history/ より抜粋

私は五年生の時のキャンプで印象に残っているものをひとつだけ挙げなさいと言われたら、迷わず「ボンカレー」と答えます。もしもこれが学校の作文ならば、飯盒炊爨です、などとよそ行きの答えを書いたでしょうが、本心から驚いたのはボンカレーでした。

キャンプから帰って私は早速両親にもあのボンカレーを食べさせてあげたくて、散々ねだって夕飯にボンカレーを登場させてもらうことに成功しました。おそらく、初めてボンカレーを食べた子どもたちの多くは心を鷲掴みにされて同じように親にねだったことでしょう。

ボンカレーヒストリーによれば、発売してわずか五年後の昭和48年(1973年)には、年間販売数量1億食を達成したとあります。最初は、甘口の赤と辛口の黄色の二色だったボンカレーは、いつしかオレンジ色の中辛も登場し、さらにパッケージデザインも変更されていきました。

その後、レトルトカレーの発売の伸びは著しく、ボンカレーだけでなく、さまざまな会社から色々な種類のカレーが売り出され、そのうち、カレーだけでなくパスタソースやシチューが発売されていきました。近年では100社を超える企業で500種以上のレトルト食品が生産されるようになっているそうです。

国民食とまでいわれるカレーライスですが、2017年には、レトルトカレーの売上高が固形ルーを抜いたと報道されました。

◇ ◇ ◇

さて、キャンプの続きですが、飯盒炊爨とボンカレーの夕食が終わり、日が落ちてきたところで、みんなで花火をしました。手持ち花火やネズミ花火、派手な音がする打ち上げ花火などで遊んでいたら、川の向こう側で、突然ナイアガラの滝のような仕掛け花火で、辺りは昼間のように明るくなりました。

私たちは皆、歓声を上げて、真っ白い滝のように流れ落ちる花火に見とれていました。見たことはないけれど本物のナイアガラの滝のような花火に、時折、金やピンクの光が混じり輝くのをじっと見つめていたのでした。

私はあの日のナイアガラ花火を思い出すたびに、当時の先生方はきっと子どもたちを喜ばせようと、慣れない大型花火を仕掛けてくれたのだろうと思い、ご苦労がしのばれ、心の奥からこみ上げてくるものがあります。もう半世紀も前のことになりますが、先生方に心から御礼を申し上げたいと思います。

あの晩は、ナイアガラ花火の上にちらちらと星が出ていました。

◇ ◇ ◇

ところがです。ところが夜中、草木も眠る丑三つ時、突然の豪雨に見舞われたのです。私たちのテントは女子ばかり六人で寝ていたのですが、誰かの叫び声で目が覚めました。その時既にテントに叩きつける雨音が物凄くて、お互い大声を出さないと聞こえないほどでした。

早速、枕元に用意していた懐中電灯で足もとを照らすと、既にシートの上に水溜まりができていて、これは大変だとシートを持ち上げて排水をしようとしたり、やっぱりテントの周りの溝をもっと深く掘るべきだったと後悔したり、狭いテントの中、数人がどこが頭だか足だかよくわからない中、懐中電灯を振り回し、土砂降りの音を聞きながらそれぞれが排水に悪戦苦闘していました。

その時です。隣のテントの子たちが「助けて〜」と叫び声を上げながら私たちのテントに飛び込んできたのです。隣のテントは雨のせいなのか、それとも別に原因があったのか、とにかくテントが崩れてしまってみんなびしょ濡れだというのです。それは大変だと思う間もなく、土砂降りの中勢いよく私たちのテントに飛び込んできた誰かがテントの親綱を引っ掛けてしまい、私たちのテントもバッサリと倒れてしまいました。

バケツをひっくり返したような土砂降りの中、ペシャンコになってしまったテントからなんとか這い出てはみたものの、二つのテントが倒れ、十人くらいの小学生の女の子がずぶ濡れになっているのはなかなか壮絶なものでした。

担任の先生を始め、先生方が飛んで来て、早速テントを立て直そうとしてくれましたが、雨を吸ってずっしり重くなった布のテントを立て直すのは容易なことではありませんでした。なにしろ視界がほとんどないほど雨はザンザン降っているし、灯りは懐中電灯しかないのです。

それでも全員の協力でやっとの思いでテントが立ち、中を懐中電灯で照らしてみたら、私たちの班の女の子がひとり、テントの中で何事もなかったかのようにすやすや寝ているのが照らし出されました。全員その場で大爆笑したところで私の記憶は途切れています。

◇ ◇ ◇

キャンプから帰って、私は16時間もの間、ひたすら眠り続けたそうです。母は、私が死んでしまったのではないかと何度も見に行ったけれども、息をしていたのでそのたびに安堵したと言っていました。

全員ずぶ濡れ状態でどうやって朝を迎えたのか、帰りの着替えはどうしたのか、知りたい思いに駆られますが、記憶からすべて抜け落ちてしまいました。改めて、あの頃の天気予報の精度はこんなものだったと思います。

今でも、キャンプという言葉を聞くと、ワクワクしたボンカレー、ナイアガラの花火、そして土砂降りの中のテント騒ぎが目に浮かんできます。そしてなにより懐中電灯に照らされながら、何事もないようにすやすや寝ていたクラスメイトの寝顔は、今も尚、目に焼き付いたままなのです。


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