188.兜町の美術館

1990年代の前半頃、つまり日本経済のバブルが膨らんで、膨らみきって、弾けて消えた頃、私は30代前半の会社員でした。私の勤務先の主な取引先は銀行や証券会社だったので、大抵は大手町や丸の内、あるいは兜町や茅場町、それに日本橋界隈の顧客を訪問するのが私に与えられた任務でした。午前中に2件、午後に3件などアポを取って顧客先をあちこち回っていました。

そんな時、昼食も出先でというのはよくあることでしたが、午後のアポは必ずしも午後一番からというわけではなく、2時からとか、2時半からということも少なからずありました。地下鉄に乗って自社に戻るにしても、往復しているだけで無駄に時間が過ぎてしまうので、そんな時にはよく出先で時間を潰していたものでした。

大抵は喫茶店でランチを注文してそのままコーヒーを飲んでいたり、時間のある時には喫茶店をはしごして時間を潰していました。

大手町では大手センタービルの地下にあった「楡」という喫茶店や、アーバンネットビルの1階にあった、名前は忘れましたがちょっと外国映画に出てくるようなお洒落なカフェバーでよく本を読んでいました。もちろん大手町ビルの地下街には大変お世話になりました。

丸の内では、国際ビルの地下にあったいくつかの飲食店をハシゴしていました。日本橋では、丸善の4階の喫茶室や裏通りの「ミカド」などで時間潰しをしていました。丸善では時々作家が編集者と打ち合わせしている姿を見かけました。

大手町や丸の内も、今の丸の内仲通りのようなお洒落な空間はまったくなくて、いわゆるドブネズミ色のスーツを着たおじさんたちが闊歩しているだけの味気ないビジネス街でした。

東京証券取引所のある兜町や茅場町には、一本裏通りに入ると懐かしい昭和の喫茶店がたくさんあって、いかにも百戦錬磨という証券マンたちがタバコの煙を燻らせていました。喫茶店のマスターやママさんも馴染客の好みは注文を受けずとも知っているという雰囲気がありました。

あの頃の兜町は、東証にシステムが導入され始めた頃でしたが、それでもまだまだ場立ちの人も大勢いたし、移転前の山一證券もあちこちのビルに分散してあったし、こんな名前の証券会社もあるのかと思うような小さな証券会社が犇めきあっていて、いわゆる昭和末期の証券業界のにおいがプンプンと立ち込めているようなところでした。

私は若い頃から駅の立ち食い蕎麦屋でも、牛丼のチェーン店でも一人でどんどん入って行くのは平気でしたが、そんな私でも兜町界隈の独特の雰囲気の中で過ごすのは、いつまで経っても馴染めないというか、常に居心地の悪さのようなものを感じていました。

それでも、あの頃は通りを入った「ゆう」とか「メイ」とか「SUN茶房」という喫茶店によくいました。随分あとになってから「メイ」のご主人に伺ったら「昔はお隣に『水音』というフルーツパーラーがあって、四大証券のお偉いさんたちはそっちへ行き、ここは東証の場立ちの兵隊さんしか来てなかったよ」とのことでしたが、私には「水音」の記憶はありません。

1987年にNTT株の上場で一気に株式投資熱は一般の人へも拡がり、普通のサラリーマンが「MONEY」雑誌を小脇に抱えて投資を行うようになり、1989年12月29日の大納会で日経平均は38,915円の過去最高値を付けたあと、株価はつるべ落としに下がり、1991年の流行語大賞では「損失補填ほてん」が銅賞に選ばれていました。それでも尚、人々は「夢よ、もう一度」と願っていたのでした。

◇ ◇ ◇

そんなある日、いつものように居心地の悪い兜町界隈で今日はどこで時間を潰そうかと歩いていた時に、見慣れた「山種美術館」という縦長の看板見て、ふと、美術館にでも入ってみようかという気持ちになりました。東西線の地下鉄出口のすぐ真ん前にある中堅証券会社の、山種証券のビルの8階と9階にその美術館はありました。なんでもいいから少しホッとできる空間に身を置きたいと思ったのです。

私は絵画とはまるで縁がなく、子どもの頃新聞広告の裏にお姫様の絵を描いていたら、母には「まあなんてチマチマとした絵を描くのかしら」と言われ、一方、弟の絵には「伸び伸びと大らかな絵を描くわねぇ」と褒めているのを聞いて、なんとなく私は絵を描くことにコンプレックスがありました。

中学生の美術の時間にはピーマンの抽象画を描くという課題があり、自分ではまあまあの出来だと思っていた絵を、後ろから廻ってきた美術の教員に「こんな絵じゃ10点満点中6だな。でも、俺が手を入れて7にしてやるよ」と、いきなり紺色で大きく筆を入れられたことがありました。結局美術の評価は6でした。

高校に入って、音楽か美術かどちらかを選択するように言われた時、心のどこかで絵を描いてみたいという気持ちがあったけれど、迷わず音楽を選択しました。子どもの頃からピアノを習っていたので、少なくとも美術よりは遥かにいい点が取れるという打算的な選択でした。

そんな私でしたから美術の素養などカケラもなく、ただただ兜町のあの雰囲気から抜け出せればそれでいいと思って入場券を買って入ったのでした。

こうして初めて足を踏み入れた兜町の美術館でしたが、表の雑踏とはまるで別世界で驚きました。そこには、静謐で気品のあるゆったりとした空間がありました。そしてそこに、ハッと心をつかまれるような絵画が並んでいるのでした。

◇ ◇ ◇

山種美術館は、1966年(昭和41年)に開館した、山種証券の社長・山崎種二が長年に渡って収集した近・現代の日本画専門の美術館でした。そこには、横山大観、川合玉堂、小林古径を始め、速水御舟、奥村土牛など数多くの貴重な日本画が並んでいました。

私がまず最初に惹かれたのは、その落ち着いた空間でした。外界とはまったく違った時間の流れがそこにありました。また、画家の気迫とでも表現すればよいのか、なんとも言えない真摯な空気を感じました。

あの頃の私は、鏑木清方、前田青邨、杉山寧、橋本明治、小倉遊亀ら文化勲章受賞者のお名前すらも知りませんでしたから、そこにある絵画がどれほど貴重なものなのかはまったくわからなかったのですが、それでも絵自体が持つ力に圧倒されました。

なんの予備知識もない私が、次に惹かれたのは、日本画の岩絵具の輝きでした。それまで私は日本画というものをきちんと見たことがなかったので、チカチカと光を反射するこの絵の具は一体なんだろうかと思いました。なんとも美しい輝きにしばし見惚れてしまいました。

随分あとになって知ることになりましたが、岩絵具とは、鉱石を砕いて作られた粒子状の日本画絵具です。粒子の細かさには段階があり、パウダーのように細かく砕かれたものから、少し大き目の砂粒状のものまであります。鉱石ですから岩絵具そのものには接着性はないので、にかわと呼ばれる獣類の骨や皮などを煮て作る粘着剤で和紙に貼り付けるようにして描きます。

天然岩絵具の代表的なものには、藍銅鋼から作る「群青」、青金石(別名ラピスラズリ)から作る「天然瑠璃」、孔雀石から作る「緑青」などがありますが、日本画は、宝石の輝きを放っているのでした。

あの頃の私にはそんな知識はまったくなく、ただただなんと美しい絵の具なのだろうかとそればかり思い、ひとつの絵画の前で何度も近寄ったり後退りしつつ、うっとりと時の流れも忘れて魅入っていました。

アポの時間がやってきて美術館を出ましたが、その日は熱に浮かされたように、早くもう一度山種美術館へ行きたいと強く思いました。私はフランスに一年間滞在した時に、絵画を見に行くというより観光名所だからという理由で、ルーブル美術館、印象派美術館、オランジュリー美術館、ポンピドゥセンターなどへ出かけて行き、数々の西洋絵画を見てきましたが、山種美術館でみた日本画は、それまで見てきた西洋絵画とはなにかが違いました。

◇ ◇ ◇

それからは、兜町に行くのが楽しみになりました。一切の美術に関する知識を持たない私は、ただ美術館へ入って、その空間を味わい、絵画から溢れ出る画家の気迫を感じ、岩絵具の輝きに魅了されるだけのことでしたが、実に充実した時間を過ごしました。美術館に入る時、両足がふっと地面から浮き上がり、美術館に吸い込まれていくような感覚がありました。

そのうちに空間や岩絵具だけでなく、ようやく日本画それ自体を見るようになっていきました。日本画というのは、それまで私が知っていた油絵とは違い、影がないのです。花や静物画であっても影がなく、どことなく抽象的なのです。抽象的といってもカンディンスキーやパウル・クレーのようないわゆる抽象画ではなくて、写実的な抽象画(?)のように私には感じられました。

兜町の顧客との会話では、やれギャン理論だ、フィボナッチ係数だ、ブラック-ショールズ方程式だ、いや、RSIだ、ストキャスティックスだと株式市場や債券市場のテクニカル分析について語らったり、いやいや、やっぱりファンダメンタルでしょという味気ない会話ばかりを交わしてきましたが、突然、日々が潤いのあるものに変化しました。

その頃の山種美術館は、2ヶ月か3ヶ月に一度展示替えがあり、私はアポの時間を工夫しながら通いました。ディズニーランドのような年間パスポートが欲しいくらい、私は山種美術館へせっせと通いました。喫茶店でサボっている時には、たまに同僚や上司、あるいは顧客にバッタリ出会ってしまって、お互いにバツの悪い思いをしたりしましたが、美術館ならば誰かと出会う心配もなく安心して(?)サボることができました。

◇ ◇ ◇

今回、この稿を書くあたって、改めて山種美術館の創立者の山崎種二について、現役社長だった当時の1956年(昭和31年)11月に、日経新聞に連載された「私の履歴書」を読んでみたら、なんとも魅力的な人物であることを知りました。

山崎種二は、1893年(明治26年)に群馬県の高崎に生まれ、昔は名字帯刀も許された百姓だったそうですが、明治維新を境に家運が傾き、高等小学校を出たばかりの種二青年は従兄を頼って東京へ出ようと決意します。その時、懐にあったのはわずか86銭で、ここから汽車賃を払ったため、上野に着いた時、果物屋の店先に色とりどりの果物がずらりと並んでいても買えなかったと回想しています。

それでも種二青年は、俵かつぎをしたり、倉庫番をしたりして奉公を始めます。倉の前にこぼれ落ちた米で鶏を買ったり、ペスト予防のため罠をかけてネズミを取り、卵やネズミを売ったお金でこっそり米相場を張るようになりました。18、9歳の頃のことだったそうです。徴兵検査で甲種合格して、入営してからも外出日を利用して米相場を張ったそうです。

自伝によれば、若い頃は米俵を担ぎ、米の品質、乾燥の度合や光沢、モミの数、粒の揃い方などを自分の目と手の感触で覚えていきました。

私は昭和四年(引用者注:30代半ばの頃)に産米格付委員になり、月二百円の手当をもらうようになり、米をにぎれば産地も分り、何等米かも分かるぐらいになったのは、いま述べたような修行を積んだおかげである。話は前後するが、大正十二年の関東大震災のとき、東京に米が送られてきた。目方をはかるにもハカリが焼けてなくなっている。私は米俵を持ち上げただけで「何斗何升入り」と当てたが、これには立会った農林省の役人もびっくりしていた。このように、俵の中身をぴたりと当てることができるようになったのも、小僧時代に俵をかついだ経験からきているのである。

日本経済新聞「私の履歴書」昭和31年11月連載より

大正時代の大津波、米騒動、とばっちりの外米汚職事件、結婚、大暴落、関東大震災時などを経て、1924年(大正13年)に山崎種二は独立します。

そして、このような人物が大阪の古米で大儲けしたのを始め、倉庫の借占め、建築資材株の買いつなぎ、二・二六事件時の株での大儲けと憲兵隊への呼び出し、日活株の買占め事件、旭硝子事件や小豆合戦などの大規模な仕手戦等々、戦前戦後の激動する日本経済の中、米相場、株式相場、穀物、ゴム、砂糖などの清算取引で「売りの山種」と異名を取り、財を築いていく様子は読んでいるこちらまでドキドキしました。

さて絵画に関してですが、山崎種二は、小僧時代の主人が非常に書画を好み、その蔵の出し入れ、虫干しの時に手伝いをしたため「門前の小僧習わぬ経を読む」のたとえで通りに彼も絵が好きになり、一本立ちしたら絵を一幅や二幅は持ってみたいと願うようになったそうです。

そして独立した時に、小僧時代に聞き覚えていた酒井抱一(江戸時代後期の絵師)を一幅購入して悦にいって眺めていたら、なんとそれが真っ赤な偽物であることがわかり、以後きっぱりと古画の収集を諦め、そこから方々の展覧会に出掛けて行って絵画の鑑賞眼を培い、その後現代作家の作品を収集、そして成長株と見た画家の作品に投資するようになったそうです。さすがに「相場師」山崎種二だけのことはありました。

戦後のある時、交流のあった横山大観から「金もうけされるのも結構だが、このへんでひとつ世の中のためになるようなこともやっておいたらどうですか」と言われた言葉が身にしみて、これが山種美術館設立のきっかけになったのだそうです。(朝日新聞社編『近代日本画と山種美術館』p.127-8)

そして前の東京オリンピックの前年の1963年(昭和38年)に、兜町に、黒いミカゲ石の柱とステンレスによるどっしりとした外観の山種ビルを完成させました。

美術館の数寄屋風の展示場は、外界の喧噪がまったく嘘のような、静かで落ち着いた雰囲気を持っており、兜町のど真ん中のビルの中に、これほど日本画の鑑賞にふさわしい美術館があるとは気がつかなかった、というのが山種美術館を初めて訪れた人の感想のようです

朝日新聞社編『近代日本画と山種美術館』p.129

私もまったく同じ感想を持ちました。

◇ ◇ ◇

以前、「096.キャバレー王と祖母」というタイトルで、キャバレー王と呼ばれた福富太郎の絵画コレクションのことを書いたことがありましたが、米相場の相場師やキャバレーの経営者という意外な人物の絵画の鑑識眼の確かさには実に驚かされます。私は山種美術館に通いながら、よく京都醍醐寺の三宝院庭園を思い浮かべていました。

現在、国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は、1598年(慶長3年)豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭といわれていますが、天下をほぼ手中に収めた秀吉が、最晩年に心の安らぎを求めたのが桜の花であり庭園であったのかと思うと、栄華を極めた先に美があるのか、あるいは審美眼を持つものが栄華をきわめるのかわかりませんが、興味深く感じます。

◇ ◇ ◇

さて、せっせと山種美術館へ足を運んでいた私ですが、ある日、上司に呼ばれました。その時とっさに私の脳裏によぎったのは、遂に就労時間中のサボりがバレて、いよいよクビを言い渡されるのかというものでした。もう時効だと思うので正直に告白しますが、さすがにサボり過ぎたという自覚がありました。

ところが、意外なことに、上司が口にしたのは私の管理職への登用でした。耳を疑うというのはまさにこのことでした。

その日は、キツネにつままれた気分で、美術館通いがバレたのではなくて良かったとホッと胸を撫で下ろしたものでしたが、あとになってよくよく考えてみると、上司はそんなことはとっくにお見通しで、私があんまりサボってばかりいるので、ここらで責任あるポジションにでもつけて、これ以上サボらせないようにするという作戦だったかもしれないと思うようになりました。実際、管理職になってからは、美術館通いどころではなくなってしまいました。

仕事に追われている間の1998年(平成10年)、私がまったく気が付かないうちに山種美術館はお濠端の千代田区三番町に仮移転し、その後、2009年(平成21年)に現在の渋谷区広尾に移転しました。

兜町でプロの仕事ぶりを間近で見てきて、相場は素人が手を出すものではないと心底感じていたので、私は株式投資は一度もしたことがありません。しかし今、私は「六十の手習」で、月に二度ほど日本画教室に通っています。一体兜町で何を学んだのかと自分でもおかしくなります。

私自身が、区の絵画教室の抽選に当たったのを機に、日本画というものに改めて触れたのは、あの頃勤めていた会社を退職してしばらくしてからのことでした。初めて岩絵具や胡粉、膠液などの用語を学び、あの頃見た絵の具の輝きはこれだったのかと知りました。

絵を描くということは、これまでの人生で私にはまったく無縁だったので、下手でもなんでも恥ずかしいと思うことはなく、返って伸び伸びと自由に描くことができて楽しい時間を過ごしています。なにしろ絵筆を持つのは中学の美術の授業でのピーマンの抽象画以来のことなのです。自由に構図を決めて、細部までチマチマと描き、色を塗っていくのは、私にとって至福の時です。

私の場合は、高価な天然岩絵具を使うような絵はとても描けませんが、現在では安価で色の種類も豊富な新岩絵具や合成岩絵具など、入門者の私たちでも楽しめる色々な種類の岩絵具が気軽に手に入ります。

あの日もしも兜町で山種美術館に入ってみようと思わなければ、このような趣味にはならなかったので人生はおもしろいと思います。四半世紀以上も前にインプットされたことがずっと自分のどこかで眠り続け、ある日、抽選に当たるというような偶然からアウトプットに変わっていくというのは、我事ながらおもしろいものだと感じています。


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