250.為替変動の思い出

本稿は、2022年7月2日に掲載した記事の再録です。

記録的な円安が進行しています。昨年2021年9月には109円台だったドル円レートが、今週は137円台をつけました。わずか9ヶ月で円の価値が25%以上も下落しました。十年前の2012年の今頃には1ドル80円を割り込んでいたことを思うと隔世の感があります。

急激な為替変動が社会に混乱をもたらすのは世の常ですが、私は二十代の中頃、ちょうど今と反対の急激な円高を体験しました。「体験」というのは、私は子どもの頃からフランスに憧れていて、二十歳で初めてフランスへ旅行に行き、二十六歳になる直前にフランスへ行って一年間を過ごしたので、日々為替変動を実感した思い出があるからでした。

ただ私の場合、円高を実感したといってもそれは対ドルではなく、今はユーロに統合されたかつてのフランスフランに対してのことでした。

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私が初めてフランスに行ったのは、1980年6月のことでした。子どもの頃からフランスに憧れていた私は、成人式の振袖はいらないから代わりにフランス旅行に行かせて欲しいと親に頼んだのでした。

1980年1月の為替レートで1フランはおよそ60円でした。私が6月にフランスに行った時は少し円高傾向にありましたが、それでも手数料を考慮すれば、1フラン≒60円でした。私は画家のドラクロワの肖像画と彼の描いた「民衆を導く自由の女神」が描かれた100フラン札を眺めてはこれは5,000円札よりも高価な6,000円札なのかと思ったものでした。

その時誰に聞いたのか、今も忘れられないのは「1980年の今は、1フラン≒60円だけれど、1970年頃まではずっと1フラン≒70円以上だった」という言葉でした。その言葉を聞いて、それでは十年前まではこのドラクロワの100フラン札は7,000円札だったのかと驚いたものでした。この時私は二十歳でした。

その十年前まで7,000円出さないと替えてもらえなかった100フラン札が、今では6,000円で手に入るようになったとは、なんだか得した気分になったものでした。

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1985年8月、今度は3年4ヶ月勤めた会社を辞めて、私は1年間フランスに住もうとありったけの貯金を持って海を渡りました。学生時代にはアルバイトで授業料や生活費をまかないながらも少しずつ貯金をし、就職してからは手取り14万円のお給料のうち、半分の7万円をフランス行きのために貯金してきました。ボーナスも半分はフランス貯金にまわしました。こうして全財産は400万円になっていました。

その時私が決めたことは、コツコツと貯め続けてきた貯金だけれど、フランスに行ったら、行きたいところにはどんどん行って、観たいもの聴きたいものにはお金は惜しまず使おうということでした。せっかく貯めたお金だからこそ、このお金を使ってできるだけ見聞を広めたいと思いました。

私が渡仏した1985年8月の為替レートは、1フラン≒30円でした。二十歳の時はドラクロアの100フラン札は6,000円札でしたが、この五年間に円の価値が2倍になっていて、ドラクロワは3,000円札になっていました。なんという幸運でしょうか。貯金が倍に膨らんだような気がしました。

私がフランスに着いてひと月も経たない1985年9月にプラザ合意がありました。プラザ合意(Plaza Accord)とは、1985年(昭和60年)9月22日、G5(米・英・仏・当時は西独・それに日)の蔵相・中央銀行総裁会議が発表した為替レート安定化に関する合意の通称です。その名は会議の会場となったニューヨークのプラザホテルからこのように呼ばれてきました。

「双子の赤字」という表現に代表される米国の貿易赤字や財政赤字を始めとするプラザ合意に至る国際情勢については専門家にお任せしますが、当時の急激な円高について、大蔵省は当時次のような文章で表現しました。

昭和61年(引用者注:1986年)に入ってからの円ドル相場は、アメリカ経済が予想されたほど好調ではなかったことや原油価格の低下などから円高に動き、 2月には 200円の大台を突破して 180円台となった。さらに、月ごとに 円高に向かい、 7月には 150円台となった。その後は、漸くアメリカの経済指 標に明るさがみえ始めた10月を境に、円ドル相場は円安に転じ、年内は 160~165円の水準で終えた。

https://www.mof.go.jp/pri/publication/policy_1972-1990/11_3_1.pdf

1985年の上半期には1ドル≒250円だった為替レートが、1年後の1986年には200円を切り、さらにその半年後には150円台をつけた猛烈な為替変動でした。

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当時はインターネットもなく、日本語でニュースを読むことなど滅多にない状況でしたから、日本で円高がどのように報道されているのか私はほとんど知りませんでした。しかし当時輸出に頼っていた日本産業界は大打撃を受けました。

円に対するフランスフランはドルの大暴落ほどではありませんでしたが、それでも確実に円高は進み続け、プラザ合意のほぼ1年後の1986年8月には、1フラン≒24円となり、ドラクロワの100フラン札は2,400円札になっていました。

劇的な円高のおかげで、私は北はノルマンディーから南はアルル・アビニヨンまでフランス各地を旅し、ルーブル美術館を始め、まだオルセー美術館ができる前の印象派美術館、オランジュリー美術館などにもせっせと通い、オペラ座に大好きなバレエも観に行くことができました。

一方、同じ留学生仲間のアメリカ人は、私とは反対に自国通貨ドル安に苦しんでいました。プラザ合意直前の1985年8月には100フラン≒11ドルだったものが、翌年1986年8月には100フラン≒15ドルと3割減となっていました。日々の生活を切り詰めて生活していたのはもちろん、夏に予定していた旅行をキャンセルして帰国した仲間もいました。

あとになってみると、貿易の黒字大国日本に対する米国の制裁的意味合いの強い円高誘導だったようですが、フランスで過ごしていた私にとっては、まったく正反対の印象を受けていました。円が日々強くなっていくのを友人のアメリカ人に羨ましがられていました。

その後もフランスフランに対しては円は徐々に値上がりを続け、1993年半ばには遂に1フラン≒20円を割り込み、1995年半ばには1フラン≒17円をつけました。かつてドラクロワの100フラン札は7,000円札だったのに、1,700円札になってしまったのかと何とも言葉にできない思いが湧き上がりました。

二十代の頃は、ただ単にラッキーだと思っていた円高でしたが、こうして改めて何十年という単位で振り返ってみると、私の青春時代は長い円高傾向の中にあり、有難いことにその恩恵を受けてきました。

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1998年12月31日、当時のユーロ参加予定国のそれぞれの通貨とユーロとの為替レートが固定され時、対円ではおよそ1フラン≒20円でした。この年の秋、たまたま欧州出張があり、成田空港に到着した時、手持ちのフランスフランはこのまま持っていたらただの紙切れになると思いつつも、お札も硬貨も敢えて両替せずに持ち帰りました。

もうこの世には存在しない通貨、フランスフランの思い出話です。


<再録にあたって>
2年前には1ドルが137円になり、急激な円安だと驚いていたのが隔世の感というような昨今の円安です。この連休中には1ドルが160円となりました。その後、日銀による為替介入の噂もあり一気に154円に戻ったものの、再び投機筋が160円を伺う展開だと複数のメディアが報じています。

日々電車に乗っていても道を歩いていても、外国人観光客が大きなトランクを転がしているのを見ない日はなく、本当に円が安くなったのだと実感しています。

昨日、2024年5月10日のNHKニュースによれば、国債や借入金などをあわせた政府の債務、いわゆる「国の借金」は、ことし3月末の時点で1297兆円余りと過去最大を更新したそうです。今年の一般会計の総額が112兆円ですが、その4分の1に当たる27兆円が国債の利払いに当てられています。

国家予算の10倍以上の借金…! この内、国債が1157兆1009億円です。

日米の金利差がこのような為替状況を生み出しているというなかで、今後、日本の金利が1%上がると国債費が30兆円を超えてしまうのではないかとも懸念されています。今後の日米金利差が縮まり、円安が是正される日など来るのかしらと、門外漢ながら頭を抱えてしまいます。


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