241.お水取り

本稿は、2021年6月21日に掲載した記事の再録です。

NHKスペシャル「東大寺修二会」

先日、2021年5月30日(日)のNHKスペシャルは「疫病退散 千三百年の祈り〜お水取り・東大寺修二会〜」でした。ご覧になった方も大勢いらっしゃることと思います。番組は次のように紹介されていました。

「疫病退散 千三百年の祈り〜お水取り・東大寺修二会〜」
奈良東大寺。「お水取り」の名で知られる修二会(しゅにえ)は、世界にここしかない“水と炎の儀式”。大仏開眼の年に天下泰安・疫病退散を願って始まって以来、1270年一度も途絶えず続けられてきた。今年はコロナ退散の願いも込め、厳重な感染症対策のもと行われた。一人でも感染者が出れば続行不能になる緊張の中、僧侶たちは時に走り、時に体を打ちつけて祈り続ける。世俗と隔絶した空間で繰り広げられた14日間の物語。

私は1993年3月12日に、ひとりで奈良のお水取りのお松明を観に行ったことがありました。しかし、今回の番組を観ていたら知らないことばかりで、あの時の私は一体何を観に行ったのだろうかと自問自答するほどでした。私のお水取りの思い出は少しも神聖なものではなく、ある種滑稽な思い出となっているのでした。

「お水取り・修二会とは」

奈良時代、天平6年(734年)には大地震が起き、天平7年(735年)〜天平9年(737年)にかけては天然痘が猛威をふるい平城京にも蔓延し、人口の三割が犠牲になったそうです。その上、天平時代は例年旱魃・飢饉が続いたといいます。

天平17年(745年)、聖武天皇の発願によって大仏が制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に天下泰平・疫病退散の祈りを込めて開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われました。この同じ年から東大寺二月堂において、「お水取り」とも呼ばれる修二会も始まったのだそうです。そしてこの日から今日までの1270年間、ただの一度も途切れることなく続いてきました。

番組によると、平安時代から代々の練行衆(れんぎょうしゅう)が書き継いできた日記があり、治承4年(1180年)平重衡の焼き討ちにあって大仏が焼け落ちた時も、永禄10年(1567年)戦国時代に大仏殿が焼失した時も、昭和20年(1945年)大阪大空襲に向かうB29が上空を飛ぶ夜も「不退行法」(決してやめてはならない行)と、修二会は一度も絶えることなく行われたと記録されているそうです。

そもそも私はお水取りが疫病退散の祈りを込めて始まったことも知りませんでしたが、そのルーツがシルクロードの中国甘粛省(かんしゅくしょう)敦煌莫高窟(ばっこうくつ)にあり、唐の時代にシルクロードで行われていた炎の儀式が遣唐使船によって日本に伝えられ、中国や中央アジアには既にこのような儀式は残っていないのに、お水取りでは唐代以来のしきたりがそのまま千数百年を超えて伝えられていることも今回初めて知りました。

3月1日 午前1時。14日間に及ぶ儀式が始まります。堂内のすべてのあかりが消され、闇の中、火打ち石で新しい火がおこされるのです。聖なる火とされるこの炎から、灯明や松明(たいまつ)など、すべての火が点けられます。午後7時、二月堂の舞台に現れた巨大な松明に導かれ、僧侶がお堂の中に入っていきます。

その聖なる仏の空間「内陣」の「厨子」に安置された奈良時代に作られたという誰も見たことのない秘仏「十一面観世音菩薩像」の周りを、観音菩薩を讃える詩を歌うように唱えながら、練行衆と呼ばれる11名の僧侶たちが祈り、走り、三千回に渡る数取懺悔、五体投地と呼ばれる苦行を行っていたなどとはまったく知りませんでした。

これらの苦行に先立ち3月2日午前1時に、秘密の作法を司る咒師(しゅし)が「宝殿に来て威力を証明したまえここに来臨を請う」と唱え、内陣に四天王を招くと知って驚きました。私はこれまでに何度も東大寺の戒壇院には足を運び、持国天、増長天、広目天、多聞天の見事な彫像をうっとりと眺めていましたが、四天王像は単なる彫刻ではなかったのだという当たり前のことに気づかされました。

一人旅 フランスから奈良へ

私が東大寺二月堂のお水取りを観たいと思うようになったのは、1990年代に入ってからのことでした。私は子どもの頃からフランスに憧れていて、就職してお金を貯め実際にフランスへ行き、そこでガイドブック片手にフランス各地を歩き回り、その地で数多くのカトリックの教会を訪ねて歩きました。それまであまり「祈り」について考えたこともなかった私は、帰国後、日本でも神社仏閣などを訪ねてみたいと思うようになりました。

初級フランス語を学んでいた時に「今夜、空いている部屋はありますか?」「部屋を見せてもらえますか?」「シャワーのついた部屋はありますか?」などという文章を丸暗記したものでした。習ったということは、きっと実地でも使えるだろうと思って、当時はまだインターネットもない時代だったので、フランス各地の観光案内所で地図を貰うと、大抵二つ星のついた地の利の良さそうなホテルに行って暗記した文章を口にして、その日の宿を確保しながらあちこち旅行する術を身につけました。

外国で一人旅を経験してみたらなんとも快適だったので、帰国してからも同じ要領で日本各地を旅してまわりました。それまで旅行というと、家族や友人と何週間も前から宿泊先を予約していくものだとばかり思っていましたが、「今夜、空いている部屋はありますか?」「部屋を見せてもらえますか?」は日本でも有効で、思い立ったらすぐに出かけて数日から一週間程あちこちへ出かけました。

神社仏閣といえば京都だと思い、初めの頃はせっせと京都に出掛けていました。ある時、奈良まで足を伸ばしてみたところ、奈良のなんともいえない魅力に取り憑かれ、1990年代前半は毎年のように奈良へ通っていました。一泊二食付きで六〜ハ千円程度の、個人経営のこじんまりとした旅館が定宿になり、東京から長距離バスで往復すれば、お金もそれほど掛からずに済みました。

少しまとまった休みが取れそうだとふらりと奈良へ出掛け、万葉の時代、天平の時代、などとテーマを決めてあちこち歩きました。一人旅だと行きずりの旅人が様々な情報を教えてくれるので、今度はどこへ行こうと次の予定も立ちました。

複数の旅人から「東大寺の二月堂のお水取りは素晴らしいから一度行くといい」「行くなら最も華やかな3月12日の籠松明の日がいい」とアドバイスされました。そこで1993年3月11日木曜日の晩、翌日12日金曜日の休みを一日だけ取って、仕事が終わってから夜行バスに乗って奈良へ向かいました。

1993年3月12日

私はガイドブックの余白ページに、旅の行程や泊まった宿の記録をメモ代わりに書き込む習慣がありました。メモによれば、午前中、荷物は先に宿に置いた身軽な格好で、といっても3月はまだまだ寒いので完全防寒の姿で奈良町を歩き、志賀直哉の旧居を訪ね、その後東大寺大仏殿を見学してから昼食を済ませました。

それから非常食として柿の葉寿司を幾つか買って、東大寺二月堂の下の芝生に着いたのは午後2時半くらいのことでした。最近のお水取りの写真を見ると細い竹で編んだ柵があるようですが、1993年、今から28年前にはただ枯れた色の芝生が広がっているだけでした。

12日の籠松明は大勢の人で混み合うから早く行った方がいいと言われて、その言葉通り早く来ましたが、少しばかり早過ぎたと思いました。既に先客もいることはいましたが、境内下の芝生の生えている前庭は傾斜があって、座るに座れないので、皆さん三々五々佇んでいるという状態でした。携帯椅子を持ち込んだり地べたににシートを引いて座っている人は当時はいなかったと記憶しています。

皆さん立って待っていたので、私も立ったままカメラのフィルムを入れ替えたり、文庫本を読んだりして時間を過ごしていました。その内、少しずつ人が増えてきました。周囲の人と顔見知りになっていき、「寒いですね」とか「よかったら飴でもおひとつ」などという会話が交わされるようになっていきました。

その内、いくら防寒着に身を包み水分を控え目にしているとはいえ、トイレにも行きたくなってくるので、袖振り合うも他生の縁とお互いに場所を確保しつつ、交代でトイレにも行くようになりました。私以外の人々は皆関西弁で、お水取りも毎年来ているという方や、やっと来られたという方もいらっしゃいました。五、六十代の方が多く、当時三十代だった私は周りの方々の娘くらいの年齢でした。

ひとりの男性がお手洗いから戻ってきた時、「すぐそこの売店でダンボールをもらってきたよ」と缶飲料でも入っていたのか筒状になったダンボールを手にしていました。その方は筒状になったダンボールに両足を入れて、膝の下全体を隠すようにして立つと「お、こりゃ暖かい」と言いました。交代でトイレに行こうとした女性も「それなら私ももらってこようかしら」と言い、実際にダンボール片手に戻ってきました。同じように膝までダンボールに入ると「全然違う!」と言いました。

3月12日は日が暮れるのが早いので、あっという間に日は落ちて辺りは暗く寒くなっていました。みんな順番にトイレに行くたびにダンボール片手に戻って来ました。私も周囲の方々にならって売店へ行って、カイロ代わりに温かい飲み物を買い、ダンボールをひとつもらって来ました。その頃にはかなりの観光客が集まってきていましたが、元いた場所に戻るために人々は道を譲ってくれるという雰囲気がありました。

元いた場所、それはお松明の火の粉を浴びると御利益があるという前の方、しかも、全体像が見えるようにあまり前過ぎない芝生に中ほどより少し前の方という、気合が入り過ぎて午後3時前から来ている人たちが集まっている場所でした。おもしろいことに、十名ほどがまるで目印のように膝から下をダンボールに入れて立っているので、ある種の団体さんのように見えました。

私も早速、もらってきた缶飲料のダンボールに両足を入れてみました。するとなんということでしょう。本当に暖かくて、体感温度が明らかに変わりました。ホームレスの人々がダンボールに包まって生活しているのは知っていましたが、なるほど、これほど効果のあるものとは知りませんでした。

日が落ちてからも7時半からのお松明の時間にまだ間があったので、その頃にはすっかり打ち解け合った周囲のダンボール族と、奈良の観光名所、これまで旅行したお勧め観光地などについてあれこれ意見交換をし合いました。すると、何人かの人から「東京の女性でも、あなたのようにちゃんとした人もいるのね」などと言われてびっくりしました。

「それでは、これまで東京の女性にはどんなイメージをお持ちだったのですか」と伺ったら、ダンボール族のひとりが「東京の女はズルくて自分のことばかり考えているのかと思っていた」と言うと、周囲の人々も大きく頷いて「そうそう、本当にあなたみたいな素直でいい人もいるのねぇ」などと口々に仰るのでますます驚きました。

褒められているのか、けなされているのかよくわかりませんでしたが、太田裕美のヒット曲「木綿のハンカチーフ」のように、東京は危険な所で、悪い人がたくさん住んでいる所だと思われているのかとショックを受けました。

クライマックス籠松明

ちょうどその時、歓声が上がって左手の階段を燃え上がる籠松明がのぼっていくのが見えました。担いでいるのは練行衆ではなく、それぞれに一人つく世話係りの童子と呼ばれる人々です。籠松明が舞台回廊に現れました。この修二会の籠松明は、長さ6mほどの根付きの竹の先端に杉の葉やヘギ・杉の薄板で籠目状に仕上げ、直径1mほどの大きさ、重さ60kgほどの松明に仕上げられているものです。

この12日の籠松明は特に大きく作られており、長さ8m、重さ80kgになると言われています。そのひときわ大きい籠松明があかあかと炎に包まれ、舞台に向かって左から右へと動いていき、籠松明からは炎がこぼれ落ち、我々見物客の頭上へと落ちてきました。

二月堂の舞台はかなり高いところにあるので、燃え落ちる間に火の粉は細かくなり、火の粉で火傷をするほどではありませんが、スキーウェアのような化学繊維では小さな穴があくおそれがありました。それでもこの火の粉を浴びると一年無病息災に過ごせるといわれています。

観光客は一斉にカメラを構え、この美しい炎を撮影しました。そして少しでも火の粉を浴びようと一歩二歩と前へ進み出ようとしました。私も写真を撮ったり、肉眼でこの目に焼き付けておきたいと次々にやってくる籠松明を見つめていましたが、実は頭の中では「東京の女はズルい…」というフレーズがぐるぐるしていて、しかも膝から下はダンボールに入っていたため身動きが難しく、傾斜のある斜面で転ばないようにモジモジしていました。

人は思わぬ組み合わせでものごとを記憶していることがありますが、私にとっては東大寺二月堂のお水取りは「東京の女はズルい」というフレーズと、寒さ凌ぎのダンボールがひとまとめになっているのでした。さらにつけ加えるなら、帰り道にふとお腹がすいたことに気づき、街灯が薄暗いのをいいことに、柿の葉寿司を2つ3つ口の中に放り込みながら砂利道を歩いて帰ったことを思い出します。

秘儀「水取り」と達陀

今回のNHKスペシャルでは、一般には公開されていない二月堂内部にもカメラが入り、貴重な儀式を見ることができました。

日付けが変わって13日の午前2時、二月堂下の閼伽井屋(あかいや)の若狭井(わかさい)から、水を汲み上げる行事「水取り」の儀式が行われます。すべての病を癒やす水を、咒師(しゅし)と堂童子の二人だけが井戸を覆う建物の中に入り、奏楽の中一時間ほどかけて二月堂内陣に水を運ぶ、修二会の中心的行事です。この儀式が「お水取り」という通称の由来となっているのだそうです。

さらに番組では、「達陀(だったん)」と呼ばれる修二会の中で最も謎に包まれた儀式を紹介しました。 聖なる水をもつ水の神が病を癒やす水を撒き、火の神が火の粉で世界を浄化します。国宝建築のただなかで40キロもある巨大な松明に火がつけられ、聖なる炎を抱えた火の神と神秘の水を手にした水の神が向かい合い跳躍し、強烈な炎が災いを起こす邪悪な力を焼き尽くす様が映し出されました。

中学生の頃にエンペドクレスがこの世の物資は、火、風、水、土でできていて、これらの元素を結合させるのは「愛」で、分離させるのが「憎」だと述べたと知り、なんだか悶えるように感動したことをこの映像を観ながら思い出しました。根源的な理(ことわり)というか、人類の祈りの原点に触れたようでした。

3月14日、ついに修二会は最終日を迎え、午前4時半に満行となりました。14日間の行のすべてが終わった練行衆11人は二月堂から下りました。満行下堂と呼ぶそうです。本年令和3年の3月12日は「この夜は風が吹き荒れ、炎が舞う嵐となった」とナレーションが入りました。

この番組のおかげで、訳もわからず見学に行った28年前のお水取りのあれこれを思い出し、そして人類の疫病との闘いの歴史や、神聖な儀式、そして人々の祈りについても想いを馳せることになりました。

この番組は、NHK+(プラス)でも観ることができます。NHK+の配信期限は2021年6月6日(日)午後9:45までです。

立入禁止とライブ配信

今回これを機に、また来年でもお水取りに行ってみようかと調べてみたら、見学事情が激変していて驚きました。今年は3月12日以降、二月堂下の芝生が立入禁止になっていて、お松明はライブ映像配信になっていました。

 令和3年 修二会
 お松明等の拝観方法変更について

<東大寺公式サイトより>
新型コロナウイルス感染症の拡大防止に対し、東大寺では医師など専門家の皆さまのご助言も参考にし、信仰を寄せていただいている皆様、並びに参籠する練行衆や寺職員等の安全と感染拡大防止のため、修二会のお松明拝観を下記の通り一部制限させていただくことと致しました。

<3月1日〜11日>
お松明は基本的にご覧いただけますが、二月堂下芝生や広場の人数が一定数以上になれば、以降お越しの方は第2拝観所へ誘導 します。第2拝観所も同様になれば、以降はお松明がご覧いただけないことがあります。

<3月12日〜14日>
どなたもお松明を二月堂下芝生や広場でご覧いただくことは出来ません。
夕方5時以降、二月堂周辺の事前に設定された区域内に滞在することも出来ません。
奈良公園内の春日野園地に設置する大型ビジョンに、映画監督の河瀨直美さんが撮影したお松明の様子などをライブ配信し、どなたでもご覧いただけます。映像は一部の旅館やホテルにも配信する予定です。

奈良県観光公式サイトより (原文では太字は赤、またはラインマーカー)

今年に限らず近年では東大寺のサイトで次のように注意喚起されていました。

二月堂の下にある「お松明」を見ることの出来る広場には、3千~4千人の人が入れます。しかし、3月12日には毎年2万~3万人の方が来られるため、警察官の誘導により、やむを得ず、交代で見ていただき、第2拝観席へ回っていただく場合があります。

東大寺サイト 修二会注意事項より (太字は原文では赤字)

私が伺った1993年当時は、警察や機動隊の警備など考えられないほど長閑なものでしたが、最近のお水取りの写真を見ると厳戒態勢という状態になっています。とても売店でダンボールもらってくるなどいう雰囲気ではありません。

日常のなんでもない出来事が、時の流れと共に特別なことになってしまうことは時々ありますが、1270年もの間近隣の方々が気軽にやって来て火の粉を浴びて無病息災を願ってきたお水取りが、このような事態になっていて驚きました。

見学に行きたいと思っておられる方はどうぞお気をつけください。


<再録にあたって>
現在、今年もお水取りが行われています。
令和6年(2024年)のお水取りの拝観については、東大寺のサイト「令和6年度 修二会 拝観について」ご参照ください。令和3年に比べれば多少緩和されてはいるものの、大きく規制がかかると案内されています。
最近、国内のみならず世界中の寺院や教会を始めとする多くの歴史的建造物への拝観はインターネットの事前予約が必須になっており、思い立ったら吉日と気軽に出掛けられない状況になっています。それだけ多くの人々が旅行に出かける余裕ができたのだと喜ばしい一方、なんだか一抹の寂しさも感じています。


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