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ライターは「文体を持たない書き手」

「名文なんて事故みたいなもの」

駆け出しのころ、とある年長の編集者から言われた忘れられない言葉がある。
 
「ライターは名文を書こうなんて思わなくてもいいんだよ。名文なんて事故みたいなものだからさ。きちんとした普通の文章を書いてくれれば、それでいいんだ」

いま振り返っても、含蓄あふるる言葉である。
おそらく当時の私は、ライターとしての仕事をするにあたっても「名文」を書こうと焦っていて、その力みが文章にもにじみ出ていたのだろう。そこで、「もう少し力を抜いたほうがいいぞ」という意味でこんなアドバイスをしてくれたのだと思う。
 
もちろん、ライターの文章だってヘタよりはうまいほうがいいに決まっている。ただ、ライターにとっての「うまい文章」は、小説家などにとっての「名文」とは微妙に違う。

小説家にとって、長年かけて磨き上げた自分の文体というものは、このうえなく大切なものである。
たとえば、大藪春彦はこう書いている。

僕は文体こそ作家の生命であると信じる。(中略)署名を伏せた1ページを読者が読んで、その文を誰が書いたかわからないようでは、それを書いた者は作家ではなくライターにすぎない。

(大藪春彦『荒野からの銃火』角川文庫)

独自の文体を持たない書き手は「ライターにすぎない」――いみじくも大藪がそう言うとおり、ライターとは「自分の文体を持たない書き手」である。
いや、文体を持たないというより、さまざまな文体の使い分けができることが、有能なライターの条件なのだ。

ライターにとっての「名文」とは?

たとえば、私がよくやるブックライティング(昔で言う「ゴーストライター」)の仕事の場合を考えてみよう。
私は、タレント本から大学教授の本まで、下世話な実用書から泣かせるライフ・ストーリー本まで、硬軟軽重、あらゆる本を手がけてきた。
当然、それらの本は著者の立場や性別、内容も対象読者もさまざまである。ゆえに、すべてを一色の同じ文体で書くわけにはいかない。ケースに応じて文体を使い分けなければいけないのだ。

そのためには、ヘタに「自分の文体」などというものが固まっていては困る。個性の強い文体は、小説家にとっては「生命」であっても、ライターにとってはむしろ欠点ですらあるのだ。
 
「署名を伏せた1ページを読者が読んで、その文を誰が書いたかわか」ってしまうような個性的な文体は、ライターには不要だ。
むしろ、時と場合に応じてどんな色にでも染まる、無色透明でクセのない文章、読みやすくてすっきり整った文章こそが、ライターにとっての「名文」なのである。

「名文を書こうなんて思わなくてもいいんだよ」という編集者のアドバイスは、一つには、「ヘンに『名文を書こう』と力んで表現に凝ると、クセの強い文章になってよくない」という意味だったのだと思う。
まったくそのとおりだ。「きちんとした普通の文章」が書ければ、ライターの仕事としてはそれで必要十分なのである。

そして、「きちんとした普通の文章」をコンスタントに書き続けることは、かんたんなようでいて、じつはなかなかの難事だ。その域に達するまでには、ライターとしての長い経験と努力が必要なのである。

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