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ジェットコースターと「生きている実感」

以下は、十数年前に書いた駄文である。
『WIRED』のこの記事を読んで、思い出したのでアップ。

富裕層は「生きている実感」を得るために、超高額の「エクストリーム・ツーリズム」に走る。一方、庶民層はジェットコースターで手軽に「生きている実感」を味わうのだな……などと思った。
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食という営みの根源的な快楽

ひどい風邪を引いて丸2日寝込んでしまった。
その間、食欲もまったく湧かず、水とお茶だけで過ごしていた。

今日になってようやく食欲が戻ってきたのだが、甘いものがむしょうに食べたくなって、たまたま家にあったチョコレートとミカンをむさぼり食ってしまった。おかゆでも食べたほうが胃腸のためにはよかったのだろうが、何やら腹の底から食欲が湧き上がってくるようで、「すぐエネルギーになるもの」を身体が欲していたのである。

絶食のあとで最初にものを食べるときには、「食という営みの根源的な快楽」を感じることができる。それは、「ああ、これを食べることによって生き長らえることができる」という、「生きている実感」がもたらす快感だ。

しかし、毎日三食あたりまえに食事をとっているかぎり、どんなにうまいものを食べてもそうした快感は訪れない。
人間、たまには絶食したほうがよいのだろうな。健康のためとかダイエットのためだけではなく、「生きている実感」を思い起こすために。

人はなぜジェットコースターに乗るのか?

ジェットコースター・マニアの人たちというのも、あれはスリルというより「生きている実感」を味わうべくジェットコースターに乗っているのではないか。

ジェットコースターが落下するときの恐怖というのは本能的な恐怖であって、度胸があろうとなかろうと、誰もが等しく感じる恐怖である。何ゆえにそんな恐怖を、身銭を切り、手間ひまをかけてまで味わいたがるのか? その理由こそ、「生きている実感を味わうため」だと思うのだ。

太古の昔、我々の祖先は、獣に襲われるなどして命を失う危険と隣り合わせで生きていた。だが、そうした恐怖感は、一方では「自分はいま生きている」という確かな実感に結びついていたはずだ。

ひるがえって現代では、傭兵でもない限り、命を失う危険と隣り合わせで生きてはいない。それどころか、いまや「人生で一度も命の危険に直面したことがない人」のほうが多数派だろう。

そしてそのことは、「生きている実感」の希薄さにつながる。だからこそ、ある種の人々はジェットコースターやバンジー・ジャンプなどによって、命を危険にさらす恐怖を疑似体験したがる。
むろん、それで命を失う可能性はゼロに等しいが、少なくとも「落下の恐怖」は本物である。
 
リストカットというのも、あれは自殺未遂というより、肉体を傷つけ血を流すことによって「生きている実感」を味わうことに主眼があるのだそうだ(宮台某が言うには)。

フリーは「生きている実感」に満ちている

話は飛躍するようだが、私は、自分のようなフリーランサーのほうが会社員よりも「生きている実感」を強く味わっていると思う。
定収入もなく、何の保障もなく、3ヶ月先の家計すら予測できない状況が常態化すると、日々の暮らしは大げさにいえばサバイバルの如きものだからである。

だからこそ、「ああ、今年もなんとか生き残れた」とか、「今月もどうにかやりくりできた」という安堵と喜びも、しばしば感じられる。それは、定収入が保障されている会社員には味わえない喜びなのだ。

とはいえ、いまやどの企業が倒産しても不思議はない時代なわけで、会社員といえども生活がサバイバルの様相を呈している人は少なくあるまいが……。

リストラ危機に直面している会社員諸氏、雇い止め危機に直面している派遣諸氏、そして、心ならずも無職の憂き目に合っている人たちに伝えたい。

こんなことを言ってもなんの慰めにもなるまいが、生きていけるかどうかの瀬戸際に追いつめられることも、人生には時にあってもよいと思う。
その危機を乗り越えたときにこそ、いや、危機の只中にも、人は「生きている実感」を深く味わうのだから……。

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