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「他人の目」こそが文章を磨く

“写経”は必要か?

文章力を磨くための王道は、「大量に読み、大量に書く」ことしかないと書いた。では、何をどう書くことが文章トレーニングにふさわしいだろう?

いちばんよいのは、いうまでもなく実地トレーニングだ。すなわち、ギャラの発生する原稿をガンガン書くことである。
スポーツや武道でも、100回の練習より1回の実戦のほうが、はるかに得るものが大きい。同様に、ライターにとってはギャラの発生する仕事こそが「実戦」であり、これに勝る文章トレーニングはないのだ。

まだプロのライターになっておらず、実地トレーニングができない場合、それに代わる次善の文章トレーニングとして何が挙げられるだろう?

昔の文学青年たちは、尊敬する作家の文章を書き写すという地味な修行をした。
現在活躍している人でも、たとえば浅田次郎さんは、若いころ古今の名作を毎日書き写したという。エッセイ集『勇気凛凛ルリの色 四十肩と恋愛』の一編「持続について」で、その修行が明かされている。

 作家になろうと思い立った少年のころから二十代のなかばまで、「仕事」の主たるものは筆写であった。これは二十歳で夭折した先輩から教わった文学修行の方法で、ともかく古今の名作を、ひたすら原稿用紙に書き写すのである。
 気の遠くなるような話であるが、小遣のすべてを原稿用紙にかえて、鴎外や鏡花や谷崎を毎晩筆写した。

『勇気凛凛ルリの色 四十肩と恋愛』(講談社文庫/93ページ)

また、評論家の福田和也氏も、「好きな文章を、ノートなり原稿用紙なりに書き写す」ことを「文章上達の『近道』」だとしている(『ひと月で百冊読み、三百枚書く私の方法』)。
氏は、それをアマチュアバンドが好きな曲を「コピー(演奏)」する作業に喩える。コピーによって「好きだと思う文章の構造を徹底的に認識すること」が、文章上達につながるのだと……。

こうした“写経”は、果たして必要だろうか?
小説家を目指す場合はいざ知らず、ライターには必要ないと私は思う。もちろん、励行すればそれなりの効果はあるのだろうが、いかんせん時間がかかりすぎる。うまいと思う文章をくり返し読むだけで十分だ。

日記よりもブログやSNSを

“写経”以外には、どんな文章トレーニングがあるだろう?
昔からよく言われるのは、日記をつけるとよいということ。毎日日記をつけることで書くことへの抵抗感がなくなるし、さまざまな出来事を一定の文章量にまとめる作業をくり返すことが、まとめ方・削り方の練習になるのである。

だから、文章トレーニングとして日記をつけるなら、400字なら400字と字数を決めたほうがいいし、継続的に(できれば毎日)書いたほうがいい。「継続は力なり」である。

だが、日記を文章トレーニングの方法として見た場合、大きな欠点が一つある。それは、「他人の目」がそこにないということだ。

編集者をはじめとした「他人の目」こそが、文章を磨くヤスリである。「人を面白がらせたい、感動させたい」という意欲こそが、創意工夫をもたらすのだから……。ゆえに、他人に読まれることを前提としない日記は、文章トレーニングとしては中途半端だ。「実戦」から遠すぎるのだ。

もっとも、いまはネット上に「他人に読ませるライフログ」をつけるという奇妙な習慣が花盛りの時代である。そうしたものなら否応なしに「他人の目」に触れるから、手軽な文章トレーニングになる。

エッセイなどの「作品」はブログやnoteに、読書や映画などの感想は「ブクログ」「読書メーター」「KINENOTE」などの感想共有プラットフォームに、日常雑記はツイッターなどのSNSに……と、他人の目に触れる文章を日常的に書けば、それ自体が文章トレーニングになる。
とくにツイッターには1ツイート140字という制限があるから、簡潔な文章を書く練習になる。

また、SNSなどはそれを読んだ人の感想がコメントや「いいね!」などの形で伝わってくるから、そうしたフィードバック自体が「文章を磨くヤスリ」になる。
「そうか、こういう書き方をするとウケるのか」とか、「真意が伝わらずに読んだ人の怒りを招いたのは、書き方がマズかったな」などという“気付き”が得られるのだ。

もう一つ、実益を兼ねた文章トレーニングとしてオススメしたいのは、新聞・雑誌の投稿欄などにひんぱんに投稿することだ。
掲載されればわずかなりとも謝礼がもらえるし、何より、「相手の求めに応じた原稿を書く」訓練になる。日記よりもずっと「実戦」に近いのである。

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