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今住んでいるこの家は自分が建てたものではない。
それは自分が大工ではないと言う意味でも、自分が設計したと言う意味でも、自分が施主として依頼したものでもないと言う意味だ。
誰かが建てた家に誰かが住んでいた家だ。
その家を譲り受け、今は自分が住んでいる。

そんな家に住んでもう数年になる。
ある夜、歯磨きしていた。
一分もすれば口内で歯磨き粉と唾液がまざりあったものが溜まってくる。
この混ざり合ったものをなんと呼べばいいのだろうか?
その日はそんなことを考えながら、その混ざり合ったものを吐き出そうと、洗面ボウルの排水口をみた。

普段はそのような動作に対してさほど意識もせずほぼ無意識な状態で行っていただろう。

陶器で出来た洗面ボウルはすり鉢状になっており中央に向かって落ち窪んでいる、その窪みの先の中央部分には数センチ程度の丸い真鍮の金具がついた排水栓がある。
夜というのもあって上からの照らす明かりで排水栓の表面に髪の毛くらいの細い線状の細かい傷が無数についていることに気づいた。


この傷、いつからついているのだろう?


全く今まで意識したこともない感覚だった。

何度となくここで歯を磨いてきた。
しかし今日ふと気づいた排水口には、自分がつけてたのか、、
その前に住んでいた住人がつけたのかもしれない、、
しかし、その傷に対して何一つ確証の得られないだろうという事に気づいた。

所詮自分はそんなもんなんだ。
これは自らを卑下するものではない。
むしろ安心できる材料なんだ。
人っていうのはそれくらいでも良いんだ。

自分は自分で思っている様な人物像と、到底かけ離れていることに思い知らされた。
等身大で生きていける、大きなギャップを生まないで進んでいける安心感につながる事であると思えた。

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