呪われた子供たちに、ドラマ「カルテット」を見てほしい

私は呪われている。
家に、社会に、画面の向こうに、呪いは存在している。

私と同じような、呪われた「子供」たちに、ドラマ「カルテット」を見てほしい。

親子

母子家庭で育った私は、不自由を感じない時間を過ごしたことはなかった。
衣食住、進路選択、家族関係。

それでも、母のことを助けたいと、助けるのは当たり前だと、思っていた。
学生時代、授業料を免除してもらいながら借りていた奨学金と、文字通り毎日アルバイトして得たお給料を生活費として母に渡していた。
いきなり車を購入してきて「お金がない」と泣きついてきても、私は笑顔でローンを払い続けた。
金銭的にも精神的にも依存され、縛られた生活を送っていても、不満を漏らさなかった。
自分自身が生きていくためでもあり、「親を助ける」ために。
私はこの人の子供なのだから当たり前だ。
親子なのだから。

ドラマ「カルテット」第3話

2017年の1月、「カルテット」というドラマがスタートした。
シュールなコメディ、嘘、秘密、愛が入り乱れた大人のラブストーリー×ヒューマンサスペンス。
そもそも作品として面白く、ドラマを最終回まで見ることがほとんどない私がハマったほどである。

第3話、かの有名な「泣きながらご飯」のシーン。

の、直前。
真紀さん(松たか子)とすずめちゃん(満島ひかり)がカツ丼を食べるに至るまでの過程をこそ、私がこのドラマに惹かれた理由であり、皆にぜひ見てほしいと思うシーンである。

父親が危篤という知らせを受けたすずめちゃん。しかし彼女は父親との確執から、なかなか病院に足を向けられなかった。
「親子でしょ?」
岩瀬純(前田旺志郎)の言葉に、私は喉の上の方がつんと詰まるような感覚を覚えた。言いようのないもやもやが胸に宿る。

「怒られるかな…ダメかな…家族だから行かなきゃダメかな…行かなきゃ…」
バスを降り、病院が見えるところまで来たすずめちゃんは、道の真ん中で苦しむ。
その小さな叫びに、胸が締め付けられた。

テレビドラマの定石ならば、家族の死に目には駆けつけるだろう。
当然、このまますずめちゃんは父親の病室を訪れ、最後の会話を交わすなりなんなりして、涙を流しながら過去を克服、「行ってよかった」のセリフでEDか…と、真紀さんはおそらく背中を押す役目であろう…と、ぼうっとテレビを見ていた。

ところが、すずめちゃんの小さなSOSを聞いて、それまで「病院に行こう」の一点張りであった真紀さんが「逃げよう」と手を握った。

「すずめちゃん、軽井沢帰ろう。病院行かなくていいよ。
カツ丼食べたら軽井沢帰ろう。
いいよいいよ。みんなのとこに帰ろう。」

衝撃だった。『行かなくていいよ』という言葉、それでいいんだよ、なんて、常識では考えられない展開だ。
そしてこの真紀さんの『いいよいいよ』の言い方が、大げさでなく、それでいて暖かい。まるで「いいよいいよ、明日休みだから洗い物は明日で」のような、なんでもない日常の「いいよいいよ」なのである。


家族だから

画面の向こうの世界では、家族はたとえ何があっても家族で、助け合い、繋がり合い、許し合う…そうするべきだとされてきた。だって家族だから。
画面の向こうだけではない。社会の道徳も、ひとつひとつの家の中も、「家族だから」という「呪い」で満ち満ちている。

「カルテット」は、そんな「呪い」をかけられた誰かの「子供」たちが、新しい居場所を泥臭く築いてゆくドラマである。

「呪い」からなど、逃げてしまえ。
そんな、世間では大きな声で言えないメッセージを感じて、画面の向こうで泣きながらカツ丼を食べるすずめちゃんと共に、私も泣いた。

私は、母の引き留めを振り切って一人暮らしを始めた。
金銭的な支援をしながら、母からの精神的な依存だけでも絶とうと努めている。
少しづつ、自分の人生を歩めているような気がしてきて、毎日が楽しくなってきた。

呪われた子供たちへ


呪われた子供たちにぜひ伝えたい。
いいよいいよ、薄情だと、親不孝だと、世間からなんと言われようと、あなたの人生を歩みなさい。
「呪い」からは逃げなさい。

このメッセージを、音と演出、繊細なストーリーで奏でるドラマ「カルテット」を、ぜひ見てほしい。

私の脳に焼き付いて離れない、第3話のシーンをご紹介したが、全編を通して、松たか子、満島ひかり、高橋一生、松田龍平の主要4名の演技が、「呪い」に縛られた大人たちの心情にダイレクトに届く。

「当たり前」から外れた4人が奏でる、歪で危うく、それでいて優しい空間に、私のような呪われた「子供」が、ほんの少しでも救われることを願う。


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