夢を追いかけた私と冷めている私

大学3年生の時、私はこんな記事を書いていた。

…なんか、生意気に前向きだな。
でも、羨ましいとも思う。

主体的に行動しなければならない経験を積み重ねる度に、夢を追いかけることが怖くなってしまった。
その経験を通して現実を目の当たりにしたり、そんな時の自分がかなり未熟であることも実感していた。
当事者意識って割と辛い。新しい発見の代償にしては重すぎる気がする。

知らないほうが幸せって、本当にそうなのかも。

あと、最近では過去の投稿を見かけたら即座に下書きに戻すことが増えた。恥ずかしい"って気持ちを持つようになった。
私は冷めた人間になってしまったのだろうか。
過去の私は、そんな私をどう思うだろうか。

きっと、「サイテー」って捨て台詞を吐いて拗ねられるかも。

あと何年したら、こんな考えしなくなってしまうのだろうか。今の私は、その考えがしなくなった日が来ると、寂しいと思う。だが、数年後のもっと大人になった私は寂しいというより懐かしさを感じるか、黒歴史だと感じるのかもしれない。

令和モラトリアム

今は、"寂しい"と感じている。この気持ちは途中経過なのだろうか。来年頃には違った感じ方をしているのだろうか。

変化を見てみたいような、見てみたくないような。他人の変化を見るのは好きなくせに、自分の変化にはビビッてしまう。

変なの。冷めてるくせに。

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