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「積極的」なのと「主体的」なのは似て非なるもの

今からちょうど5年前。1年間の留学を終えて報告会を行っていた時のこと。ある発表者の方の一言にハッとした。

「積極的なひとは沢山いるけど、主体的に考え行動しているひとはそう多くない。どちらも大事なことだけど、僕は主体的に学び続けていきたい。」

知的好奇心が旺盛なほうで、比較的に何でも挑戦しその経験・体験からそれなりに多くの学びを得てきた私にとって、「積極的であること」は、何か新しい発見や学びを得るうえで最も大事な心構えだった。
一瞬戸惑いを覚えたものの、すぐにその発言の意味と自分の考えが浅はかだったことを理解し、結構なショックを受けたのを今でも覚えている。

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進んで物事を行うこと(≒積極的であること)で得られるものは確かに多いが、「それだけ」では、
➀深みが無い。なぜそうしたのか、思ったのか、感じたのか、その結果どうなったのか、ちゃんと背景や思考経路、また結果を自分なりに分析しないと、単なる経験としてストックされるだけで、知見としての深みがでない。②再現性が無い。アウトプットにつながらない。沢山のインプットは得られるが、自分の知見として蓄積されていないので、時間が経つと消えてしまったり、なぜそれが出来たのか(あるいは失敗したのか)分からなくなったり、いつまで経っても何のアウトプットにも繋がらなかったりする。
③他人の共感が無い。自分にとっては忘れられない経験かもしれないが、そこにその人なりの考えや背景・結果に対する見解が整理されて紐づいていないと、他の人からみれば、「赤の他人に起こった、ある出来事」の域を出ない。

自分の意志・判断に基づいて物事を行うこと(≒主体的であること)が伴って初めて、「深み」のある知見として蓄積(≠ストック)することができ、それを活かして「次の学びやアウトプットの機会」を得ることができ、その再現性と深みを持って「他人の理解・共感」を得られる。

そんな大事なことにも気が付かず、「兎に角やってみる」ことに終始していたから、どこかいつも焦燥感に駆られ、自分の中が空っぽな感じがして不安になり、また、「取り敢えず何か新しいことに手を付けてみる」ことを繰り返していたのだと。
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最近、また同じような状況に陥っていることを反省し、自分に改めて言い聞かせるためにも、書いてみました。
「積極的」と「主体的」。英語ではどちらも「active」と表現できるが、その違いと夫々の重要性を明確に理解したうえで、本質的に「active (≒積極的×主体的)」でありたいと思う。

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